2.
 今日はいい天気だ。空は青いし、小鳥は楽しげに囀っている。日差しが強いからか気温は少し高いけれど、レースのカーテンを通して入ってくる風は初夏に咲く薔薇の香りを含んで心地よい。
 数日前、夏に向けて室内のしつらえを変えたのだという。冬の間寝台の天蓋から降りていた重たい緞帳は、今は緑色の薄いものに取り換えられていた。これからさらに暑くなってきたら青い紗になるのだとか。寒いならわかるけど暑い時にまでなんでわざわざ布なんか垂らすのよと呆れたら、友人はわたしもよくわかりませんと言ってころころ笑った。
 特に用事があったわけではない。ただ研究報告のついでに顔を見に来ただけだ。他愛もないやり取りで始まった会話はけれど、リタの絶句によってひとときの静寂を挟むことになった。
「…………ふられたって」
「はい。ユーリに」
 部屋に入る前に見せてもらった、薔薇の花びらと同じ薄紅色の髪を揺らして、エステルはなんでもないことのようにこくりとうなずく。
「見事にふられました。好きの種類が違うからって」
「エステルもまた思いきったもんじゃのー」
「う。伝えるつもりはなかったんです、ふられるのはわかってましたから。でもぽろりと口走ってしまったんですもの、しょうがないじゃないですか」
 この場にいるのは三人。部屋の主である姫君と、自分すなわちリタ、そして金髪おさげのパティだ。パティとは特に示し合わせているわけではなかったのだが、城門でたまたま会って、同じくエステルに会いたいということだったから一緒にやってきた。
 いつもどおりのほわほわした笑顔で歓迎してくれて――中庭の花壇を眺めながら散歩して、侍女が用意してくれていたお菓子を前に、エステルが手ずから紅茶を淹れてくれて。
 そうしていきなり告げられた事実は、予想だにしないものだった。
 いや、それ以前に。エステルの弁解――弁解? に大真面目に相槌を打っている少女は、確か彼女の恋敵ではなかっただろうか。しかし、二人の間に流れる空気は至って呑気だ。傷心のエステルの前で下手なことを言い出すようなパティでないことはわかっているけれど、それにしたって雰囲気が軽すぎやしないか。リタは、いつか壊れる日が来るのではないかと、彼女がどれだけ傷ついて泣くかと、戦々恐々と二人の様子を見守っていたというのにだ。
 そう、わかっていた。ユーリはエステルの想いに応える気などない。身分が違うんだとか、自分は罪人(ヨーデルの正式な即位を機に恩赦が出され、彼を含む何人かがお咎めなしとされたのは聞き及んでいるけれども)なのだからとか、そういう単純なことだけでは、たぶんない。細かい理由は、あいつの内心は、あいつにしかわからない。
 でもユーリは卑怯だ。一緒に戦った仲間としては好きだけれど、エステルの親友として、リタは彼の卑怯さが嫌いだった。だって、同じくせに。種類が違うなんて嘘だ。エステルがユーリに向けるのと同じ想いを、ユーリもまたエステルに向けているくせに。
 応えないのに、そのくせ自分に縛りつけておきたくて、姑息なことばかりする。終始優しくして、機会さえあれば触れて、気を引いて。冗談交じりに迫ってみせてはエステルが動揺するのを見て喜んで、ほかの男にかまおうとすればちょっかいを出して忘れさせる。それをたちが悪いと言わずになんと言うのだ。
 ただ、ユーリがはっきりとエステルを拒絶したというのは少し意外だった。そこだけは評価してやってもいい。ずるずると曖昧なままでは、エステルは彼を忘れることはできない。解放されない。彼なりに、どこで一線を引くのかをずっと考えていたのかもしれない。
 二人ともが、この揺りかごのような関係を永遠に続けたいと望んでいたことは間違いない。けれど、いつまでもそれでは不毛なばかりだと、誰より理解していたのもまた当人たちなのだろう。両思いなんだから攫ってでもなんでも一緒になりなさいよなどと、言うのは簡単だけれど実行するのは難しいのだ。責任感だけは無駄に強すぎる二人のこと、なおさら無理に決まっている。
「それでのー、今うち、おでんの出汁を研究しとるんじゃが」
 リタがぐるぐる考え込んでいる間に、話題は変わっていたらしい。おいしそうな匂いが鼻をつく。繊細な細工のテーブルの上に、武骨なお弁当箱が三つ。中身はほかほかと湯気をあげるおでんだ。その隣には鈴蘭が描かれた優雅なティーカップとポット、そして色鮮やかなタルト。極めつけはその前に立つドレス姿のお姫様。なんだろう、この光景。
「ちょっ……紅茶とおでん並べるんじゃないわよ! なんか色々ぶち壊しじゃない!」
「む。そうかの?」
「見た目は合わないかもしれませんね。ちょっと離しましょうか。紅茶やお菓子が近くにあったら、出汁の香りの違いもよくわかりませんし」
 だからドレス姿でおでんに鼻を近づけないでほしい。突っ込む気も失せて、リタは座ったままテーブルの端に突っ伏した。
「おでんといえば、昆布一択! と思っとったんじゃが。ダングレストでビーフを出汁にしたおでんをもらってのう、それがまた美味で」
「へえ! あ、それで研究なんです?」
「うむ。どれがどれかはまだ言わんぞ。手始めにな、ビーフとチキンとポークで単一出汁をとってみた。割合を考えるのはまた後でじゃ。子分に味見させてみるんじゃが、奴ら美味いしか言わんし。エステル、具体的な意見を聞かせてくれんかの」
「ふふ、喜んで!」
「ほれ、リタ姐も」
「え、ええ……」
 エステルは確かみそ味のおでんは苦手だった。それを考慮してあるのか、漂ってくるのは出汁と醤油の香りだけだ。彼女もそのちいさな気遣いを理解しているのかもしれない、いつになく嬉しそうにこりこりと大根をかじっている。
 ……でもやっぱり、見た目に激しい違和感があった。







 結局おでん談義が終わるか終らないかの頃にエステルの公務の時間が迫ってしまって、ささやかなお茶会はお開きになった。
 今夜はザーフィアスに泊まりだ。いつもであれば王城か下町の箒星に宿を定めるところだが、なんとなくそんな気になれなかった。市民街の隅、ちいさな宿屋にパティと一緒に部屋を取った。
「あんた、下町に行かないの」
 リタは、余ったおでんをぱくついているパティの背中に声をかけた。一も二もなく下町に向かうと思っていた少女はしかし、口も出さずにリタの後をついてきて相部屋をもぎとったのだ。そのまま腰を落ち着けて、出ていく様子もない。
「ユーリには城に行く前に会ったのじゃ〜。だから今はリタ姐と一緒にいるのじゃ」
「あっそ」
 何をするつもりにもなれない。割り当てられたベッドに勢いをつけて倒れ込むと、ぼふんと空気の音がした。
「エステル……大丈夫かしら」
「どうかのう」
 独り言が存外大きく響き、またそれに相槌が返ってきた。そのことに驚いて、思わず起き上がる。パティはおでんの入った器を置き、窓の外を眺めた。それからリタのほうを向く。凪の海のような、青く静かな目だった。
「どうかのうって」
「想像だけなら色々できるのじゃ。……でもうち、見た目ではわからなかったのじゃ」
「あたしだってわかんなかったわよ……」
 何も考えていないように見えて、気を遣っていたらしい。いや、“らしい”ではない。理解はしていた。奔放なように見えて、パティはむしろ誰よりも場の雰囲気を読む。あの場でも、彼女なりに悩んではいたのかもしれない。
「見た目だけならな、平気なように見えた。うち、エステルは泣くもんだとばかり思っとったんじゃが」
「あたしもそうよ。だからわからないの」
 本当に平気なのか、それとも平気なふりをしているのか。
 エステルは素直に感情を表す娘だ。だが同時に頑なでもある。抑えきれない感情に負けて本心を出すのか、それともあくまで笑顔の仮面を張りつけて、何事もなかったふりを通すのか。それとも本当に割り切って、忘れることにしたのか。判断できればいいのだが、どれともつかない。そばにいるのに、心が見えない。いや見える、触れられる。確かに感じる。ただユーリのことに関してだけ、まるで霞の奥に隠されてしまったかのような感覚があるのだ。
「わからないなら、結局うちらにできるのはいつもどおり接するだけじゃ」
「たぶんそれが一番いいんだわ。……そうだ、パティ。あんた、さっさとユーリを落としちゃいなさいよ。今ならちょろいかもよ?」
「んー……そうじゃのう」
 我ながら失礼で酷い提案だとは思う。エステルだけではない、たぶんユーリも傷ついていて、パティだって何かしら思うところはあるはず。冗談に紛らわせているように見えて、その好意が本物なのだとリタは知っている。どちらかといえばエステルを応援したいが、パティにも笑っていてほしいとは思う。ならもういっそ、くっついてしまえば。エステルにはつらいだろうけれど、同時に年下の少女の幸せは心から祝福して喜ぶはず。きっぱりあきらめもつくだろう。
 本当、あたしって酷い。
 自嘲したリタに対し、けれどパティは怒り出すことはなかった。指を口元にあてて考え込む。ただ、前向きに検討しているというわけではなさそうだ。眉が微妙な形に曲がっている。
「まあ傷心につけ込むという手もありじゃがの」
 べつにうち、その辺の駆け引きは卑怯だとも思わんし。
 前置きをいれて、じゃが、と少女は続けた。
「そういやリタ姐はまだ会ってないんだったの。……正直、今のユーリを落としてものう……達成感がないっちゅーのか」
「何あいつ、自分でエステルふっといて落ち込んでるの?」
 だとしたら馬鹿だ。果てしなく馬鹿だ。まあ、自分が言わずとも身近な誰かがすでに察して、軽く罵るくらいはしていそうだが。
「ちょーっと違うかのう。腑抜けとるんじゃ。どこか覇気がない。顔やらなんやらは相変わらずいい男じゃが、うちが惚れ込んだオーラちゅうか生命力っちゅうか、なんかそういうもんがごっそり抜け落ちとるんじゃ。ま、そのうちもとに戻りはするだろうがの」
「……ふーん。それはそれで見てみたいけど」
「行くか?」
「行かないわよ。時間置かないと、今顔見たら殴りそうだもの」
「やっぱりリタ姐はリタ姐じゃな」
「何それ、意味わかんない」
 唇を尖らせると、パティは笑った。すべてを知り、受け入れているような表情だった。
 ほんとにあんた何歳よ、と内心だけで毒づく。大きな帽子を壁にかけ、彼女もまた自分の寝台に座った。
「うち、ユーリが好きじゃ。でもエステルも好きじゃ。リタ姐も、ジュディ姐も、カロルもおっさんもラピードも、子分どもも」
「何、今更」
「べつになーんもないぞ。言いたくなったから言っただけじゃ」
 また笑う。胸の奥、ささくれた部分を優しく撫でられたような気がして、リタは口をつぐんでそっぽを向いた。
...



目の前にパティがいるのにエステルを最優先してしまう自分に開き直っていいのか自己嫌悪していいのか訳わからなくなっているリタ。
無邪気を装いつつ懐が深すぎて貧乏籤を引きにいってる予感がしているにも関わらず黙ってるパティ。
わりとあっけらかんと打ち明けられたからやっぱりわたし平気ですとか思ってるエステル。
(2012.10.27)