7.
 窓は閉めているのに、どこからか薔薇の芳香が漂ってくる。
 中庭を埋める花は今が盛りだ。白や薄い黄色、紅に薄紅。盛りとはいっても、常に色が絶えないようにと庭師が細やかな心配りでもってそれらを管理しているのは知っている。もう少し暑くなれば、強い日差しにも負けない鮮やかな赤と黄色がお目見えするだろう。
 ただ、ほとんどの花は近づかなければ香りがわからない。人の嗅覚は、犬やそのほかの動物に比べれば格段に鈍いのだ。それでもはっきりと認識できるほどの香りを楽しめるのは、薔薇の咲く初夏と秋ならでは。
 芳香には精神を落ち着かせる作用と同時に、高揚させる効果もあるという。本で読んだときは結局どちらなのだと首をかしげたが、要は気分が明るくなるということなのだろう。
 窓から差し込む月影で部屋の中がうっすら光っているように見える。夏に向けて調度の色が薄くなったぶん、光を反射しやすいのに違いない。
 今日の仕事はもう切り上げてしまった。というより、切り上げさせられた。
 処理するつもりだった書類は複数の文官によってさっさと持ち去られ書庫に運ばれ、鍵をかけられた。いっそのこと書庫に入り込もうかと思ったが、持っていたはずの合鍵が見当たらない。インク壺の横に置いておいたはずが、どうもヨーデルが持って行ってしまったらしい。
 強制的に作られた余暇は手持無沙汰だった。いや、もう就寝してもよい時間ではある。実際寝支度も整えてある。ただ、眠ろうという気にならないだけ。昼間は忙しさにかまけて忘れていた、悩んでくださいと優しく囁いたフレンの声が蘇る。
 月を見ようか。
 思い立ってエステルは腰を上げた。満月の子と呼びならわされたせいか旅の途中幾度となく夜空を見上げていたせいか、青い光を浴びると癒されるような心地がする。
 ふと絨毯に目をやって気づく。窓枠の形に切り取られた青の中、黒い影が伸びていた。普通ならここで悲鳴をあげるところだが――エステルはぼんやりと首をかしげ、ただ瞬いた。
 逆光になって顔は良く見えない。けれど見知った輪郭は、警戒心を呼び起こすものではない。
 ああ、窓の外に立っているのか。こんな夜更けにやってくるなんて、よほど急ぎの用事でも――
「え、えっ?」
 エステルは焦って窓際に駆け寄った。確かこの外はバルコニーではなく、ひたすら垂直に切り立った壁だ。庭木の枝に乗っているのか装飾のでっぱりに足を引っ掛けているのか、ともかく不安定で危なっかしいことこのうえない。急いで鍵を開ける。要領よく避けてくれたので、外開きの窓は彼を吹っ飛ばしてしまうこともなく大きく開け放たれた。
 途端入ってきた風にカーテンが翻る。
「ゆ、ユーリ! そんなところにいたら危ないです、早く中に……!」
 窓辺に現れた青年は、呆れたような納得したような微妙な表情を浮かべていた。まるで非常識なのはこんな時間こんな場所に居る彼ではなく、この部屋の主だとでもいうように。
「……おまえな、いくらなんでも昨日の今日だぞ。少しは迷ってみるとか」
 考えつかないか?
 言われて、エステルはきょとんとした。どうにも反応の薄い彼女に、ユーリは左手で顔半分を覆ってため息をこぼす。
「あー……とりあえず。あれでも羽織ってこい。話がしづらい」
「はい? …………っ! は、はいっ!」
 指差されたのは昨夜フレンに着せかけてもらったショールだった。寝る前に椅子の背にかけてそのまま忘れていたのだ。指摘されて初めて気づく。今の自分は薄い夜着一枚着ているだけで――間違っても男性の前に出て良い恰好ではなかった。夜だから色々と見えづらくてまだましなのかもしれないけれど、いや夜だからこそむしろ危うい。
 夜会用のドレスも肩や胸元、背中など露出自体は多い。だが肝心要の部分はしっかり締め上げられ固定され、だから鎧をまとっているような感覚で不安感は意外にないのだ。それに比べて、ゆったりとしているとはいえ絹一枚だけで構成された夜着は、やわらかく肌に沿いさらさらと表面を滑る。その気はなくとも視線だけで何かを暴かれてしまいそうで、エステルは泡を食って室内に駆け戻った。
 ショールを肩から羽織り、両手でしっかり前を掻き合わせる。呼吸を整える間に、頬の火照りも少しずつ治まっていった。振り返る。
 月光を背負って立つ青年は、どこか現実味がなかった。
 けれど夢ではない。確かに声を聞いたし、そこにある熱量のようなものも感じる。今度はゆっくりと歩いて窓に近づく。エステルは数歩残して立ち止まった。
「ユーリ、そこにいたら危ないです。中に入ってください」
 しかし、彼はしっかりとかぶりを振った。
「いや、ここでいい。ちっと話をしにきただけだからな、すぐに帰るし」
「もう……」
 聞き入れそうにない。彼女は仕方なく再び足を進めて、開いていたわずかな距離を埋めた。
「お話をするなら、何もこんな時間にこんなふうに来なくてもいいじゃありませんか。追い返したりしませんよ」
「どうだかな。だいいち表から来るんじゃ手続き多すぎるだろ。それに、今猫目姉ちゃんに出くわしたら何言われるかわかったもんじゃねえ」
 そういえばソディアとは、私室に入る前に挨拶した。今夜の不寝番も彼女だった。二夜連続で夜勤など身体がつらいのではないかと尋ねたが、鍛えていますので問題ありませんと返されてしまえばそれ以上何も言えない。実際彼女は優秀なのだ。
 しかし青年にとって、相変わらずソディアは苦手というか、できれば避けたい存在らしい。思わず苦笑をこぼしたが、ユーリはそれには頓着せず続けた。
「あとは、まあ……試す意味もあった」
「……試す? 何をです?」
 ひたりと黒い瞳がエステルを見据える。
「エステルに窓を開けてもらえるかどうかだよ。駄目ならこのまま帰るつもりだった。で、二度と顔も見せないつもりだった」
「な……!」
 言葉の極端さに、彼女は息を詰めた。
 決めるに要するのはほんのひととき、しかも気まぐれや偶然も絡んでくるだろう。たったそれだけの判断に、それほど大きな意味を賭けられるとは思いもよらなかった。もしかして、差し込む影に気づかなければやっぱりそのまま帰ってしまったのだろうか。そして、二度と姿を見せてくれなかったのだろうか。訪れなかった未来に足を竦めかけ、しかし現実に安堵する。
 ユーリは目の前にいる。背中を見せて行ってしまったりしなかった。
「……ひ、ひどいです……そんな大事なこと、一人で決めて……ユーリはいつもそうやって」
 それでもやっぱり声は揺れる。ひくりと喉が疼いたが、かつてのように涙は出てこない。
 青年は眉尻を下げて黙っているだけだ。話をしに来たと言っておいて、無言のまま。無意識にか顔にかかった髪を払いのけ、すっきりした頬に走る傷が露わになった。傷。――傷?
「……エステル?」
 反射的に身を引きかけて、思いとどまることにしたらしい。問いかける形になった唇が動く前に、弱い痛みにうめきが漏れる。指先に感じるのは裂けた皮膚とわずかな滑り。木登りする際にでも切ったのだろうか、男性にしては白めの肌に、赤い筋が細く、けれどやけに目立つ。
「じっとしていてください」
「いや、治癒術使うまでもねえだろ。このくらいほっときゃ治る……」
「顔、動かさないで」
 エステルは伸ばしていた手を戻して祈りの形に組んだ。確かに術を使うほどの怪我ではないのだろうが、怪我は怪我だ、おまけに血も滴っている。頬の真ん中に生々しく傷を作った相手と落ち着いて話などできるものか。結局滞りなく術は発動し、何もない空間に一瞬黄金の印が浮かんだ。
 夜着の袖で、残った血液と土汚れのようなかすれを拭き取る。
「服汚れるぞ」
「洗えば落ちます。ちょうどいいですからお洗濯の練習台にでもします」
「練習って……もうまともにできてんだろが」
「そうでもないです」
 ユーリの言うとおり、すでにひととおりの家事はできるようになっている。だがまだ習慣とまでは言い難い。あくまで困らない程度、だ。
 頭の中で理屈を並べたて、エステルは引き続き手を動かした。そろそろいいだろうか。
 しかし、指先は主のもとには戻らなかった。
 手首の内側を青年の頬に押し当てたままの状態で固定されている。ユーリの左手が、エステルの右手を包み込むような形で握りしめていた。
 拘束というほどのものでもない、あくまでやんわりと優しい。抜け出そうと思えばいつでもできるだろう。けれどその手のひらの意外な熱さに気を取られて、彼女はそのまま動きを止めた。
 どうかしたのだろうか。そのまま首だけかしげて見上げると、彼の手に少し力がこもった。
「…………怖くないか」
 低く問われる。
「…………」
 エステルは口を開きかけて、一度閉じた。
 ユーリが何を思ってそんな問いかけをしているのかは理解できる。きっと今二人ともが頭に思い描いているのは、昨日の夜の出来事だろう。
「怖くないです」
 大きすぎず、小さすぎず。でもちゃんと聞こえるように。エステルは一音一音噛みしめるようにして、丁寧に発音した。
「けど、昨日は怖かったんだよな?」
「……それは」
 叱られる前、子どもがきゅっと縮こまっているような。不遜なようで、どこか不安げにこちらをうかがう表情は昨夜と打って変わっておとなしい。ここで口をつぐむことは望まれていないのだろう。叱られに来たのなら、こちらもちゃんとしなければならない。彼女は左手で窓枠を握りしめた。
「あ、当たり前じゃないですか。そもそも顔が怖かったです。まるで敵でも見るみたいにわたしを睨んで、声だっていつもよりずっと低かったし、力が強すぎて肩も痛かったです。骨、とか、おかしくなるかと思っ……ぅ」
 嗚咽にするわけにはいかない。不自然に途切れさせた語尾が震える。
「悪かった。……悪かったよ」
 ユーリは捕まえていたエステルの手を今度は両手で包み込み、額に押し当てるようにして声を絞り出した。その所作はどこまでも優しくて誠実な思いやりに満ちている。振り払おうなどと微塵も思わせない。相変わらず恋しくて、だけど胸が痛い。
「ユーリ」
 ああ、彼はその一言を言いたくてやってきたのだ。エステルは嬉しいような悲しいような複雑な気分で、無理やり笑みを浮かべてみせた。
 だって、この後に続くのはきっと、心配のあまりやりすぎたんだとか、そんな当たり障りのない台詞だ。当たり前だ。そのとおりなのだから。油断するとこんなふうになってしまうぞと、身を以て教えてくれた。ただそれだけのこと。
 確かに怖かった。でも、今彼が心底謝ってくれていることはわかる。昨夜の衝撃は一瞬で、彼にこんな顔をさせるほどの痛みではなかった、おそらくは。だからエステルが口にできる言葉は一種類しかないのだ。
「ユーリ、わかってますから。大丈夫ですから。心配してくれたんですよね? それでああいう……わかってます。わたし、あれから考えました。確かに軽率な行動をしていたと思います。これからは気をつけます。だから」
 あのとき垣間見せた激情はきっと錯覚だった。わかっている。わかっている。だから早くこの時間を終わらせてくれないだろうか。でなければ今度こそ泣いてしまいそうだ。
「確かに心配はした。したけど」
「ユーリ?」
「けどな……」
 らしくなく視線を彷徨わせる。結局のところ手を放してくれる気は、まだないらしい。
 黒い瞳は意味もなく部屋の内装を観察し、床をたどり、少し昇って繋いだ手を経由して、ようやっとエステルの顔までたどり着いた。
「説教しにきたわけじゃねえんだ。そうじゃなくて、頼みごとをしに」
「なんでしょう。あ、もしかして下町で怪我人でも!?」
 そうだというならこんな時間に急にやってくるのもうなずける。すぐにでも部屋を抜け出さなければならない。外出許可など下りるわけがないし、いっそのこと窓から出て行こうか。自分一人なら難しいが、ユーリの手助けがあれば下まで降りることはそう難しくないように思えた。帰るときはべつに、門から堂々と入ってもかまわないのだし。
 あれ、でも最初に話をしに来たと言っていなかったか。それで昨夜のことを謝られて――ここまでは自然な流れだ。だが、エステルがたった今想像したとおりの事態が起こっているとするならば、最初から一緒に来てくれと表現するのではないだろうか。あれ、つまりは早とちりか。
 ふっ。
 笑い声のような吐息のような音が聞こえて、彼女は我に返った。見れば、彼は今度こそ苦笑している。
「おまえってヤツは、ほんとに……頭の中そればっかりかよ」
 苦いけれど、嫌悪や呆れは含まれていなかった。なんだろう、なぜ。どうして彼は、まるで愛しいものでも見るかのような目で自分をみつめているのだろう。
「ユー」
「こないだの返事。やりなおさせてくれないか」
「リ」
 名を呼ぶ唇は途中で止まらず、二人の声はぴったりと重なる。
 予想外の音を聞くと思考は停止してしまうこともあるものだ。おそらく。
 その習いで刹那固まったエステルは、その意味を反芻し、少しだけ思案した。そして出てきた結論に身震いした。
 だって、それは。そんなの許されない。許せるはずもない。
「……わたしは、そんなに頼りないですか?」
「? エステ……」
「わたしはそんなに頼りないですか。確かにユーリから見ればわたしはまだまだ子どもだと思います。軽率な行動も多いですし、務めのすべてを立派に果たしているとは言い難いかもしれません。でも」
 目許が熱い。喉が震える。喋るのも億劫だ、もう部屋の中に駆け戻って寝台にうずくまってシーツを引っ被って泣きたい。
 それでもこれだけは言っておかなければならないと思った。自分の至らなさなど自分が一番よく知っている。それでも譲れないものはあるのだ。男でも女でもない、皇族としてですらない、ただひとりの人としての矜持はあるのだ。
「以前、ユーリは言いました。わたしが自分で考えて決めたことなら反対はしないって。わたし、それは反対しないだけじゃなくて、応援もしてくれるって意味だと思ってました」
「ああ、言ったけど……意味も間違ってないけど」
「それなら! わたしを甘やかすのはもうやめてください」
 突き放した風を装いながらも、根本的なところでユーリは他人を放っておくことができないのだ。心配されるのは嬉しい。気にかけてもらえるだけで天にも昇るような心地になれるのは変わらない。でも、義務感などで彼を縛りつけるのは嫌だった。
 わたしにだって、一人で立つ力くらいある。
 孤独に生きていけるとは思っていない、今だってこれからだって、様々な人に助けてもらわなければならないことがたくさんある。その中にはユーリももちろん含まれているのだろう。
 でもだからって、こんなふうに。一度口に出したことを翻してまで手を差し伸べられると、嬉しいけれど、確かに嬉しいのだけれど、それよりも情けなさと申し訳なさで胸が張り裂けそうになる。
 危なっかしいからそばについていなければと思わせるなど。一生そうやってエステルの面倒を見ながら生きていくつもりなのか。彼にだっていずれ愛する相手ができるかもしれないのに、その可能性すら振り捨ててこんな未熟者につきあおうなどと、どれだけ人が好いのだ。――そうさせる自分は、どれだけ、愚かなのだ。
「わたし、言いましたよね? ユーリに心配はかけません、迷惑もかけません。お手伝いをお願いすることはあっても、寄りかかることはもうしません。振り返らないで、ちゃんと前を向いて歩いていけます。大丈夫です」
 はっとユーリが表情を変えた。
「エステル、そうじゃない」
「お願いです、わたしなんかのために自分を犠牲にしないで。ユーリにはユーリの思うとおり自由に、」
「そうじゃない!」
 ぐいと強く腕を引かれた。
 本当に驚くくらいの安定感だ、ろくな足場もないだろうにどこに立っているんだろう。
 そんな他愛もないことを考えられたのは一瞬だった。眼前に流れる黒髪と、上半身を包み込む腕を意識した瞬間、恐ろしい速度で心臓が脈打ち始める。全身の血が顔に集まっているのではないかと疑いたくなるほどに頬も額も熱い。それでいて指先までの神経は、彼を感じさせるすべてを逃すまいと貪欲に過敏なまでに研ぎ澄まされる。
「好きだ」
 肩が大きく揺れたのが自分でわかった。ユーリの腕に力がこもる。反面エステルの足からは力が抜けそうになる。抗って両足を踏ん張り黒衣を握りしめ、それから苦労して指を開き。手のひらで軽く、青年の胸を押す。
「……離してください」
「エステル」
 囁く声にははっきりと落胆が宿っていた。気づいて言い知れぬ何かが込み上げる。それらを努めて無視しながら、エステルは必死で笑ってみせた。
 嘘では、ないのだろう。それはわかった。種類も違わないだろう。嬉しくて嬉しくて、けれど。
「ありがとう、ございます」
 身体は離れても、やっぱり手だけは放してくれない。手くらいならいい。どうせこの想いは知られてしまっているのだ。どれだけの熱が伝わってしまおうとも、何が変わるわけではないのだから。
 一月前であれば一も二もなくうなずいてそのまま抱きつきでもしていたところだ。しかし今の彼女には躊躇する理由がある。自覚してしまったら駄目だった。気の迷いであればいいと否定していたのに、ユーリに会い、彼の行動を受けたことで確信を持ってしまった。
「わたしもユーリが好きです。大好きです。……でも、駄目です。わたしのためになんて」
「誰がおまえのためだって言ったよ」
 え、と瞬きする。
「オレを受け入れて、エステル、おまえが得することなんて何もないだろ。下町育ちの前科者なんかより、おまえになら、きっともっといい相手が何人でもみつかる」
「そんなわけありません」
 聞き捨てならない台詞に、エステルは語気を強めて反論した。
「だいいち得だとかそうじゃないとか、そういう基準で人を好きになるのではないでしょう? それに、ユーリ。お願いですから、自分のことをそんなふうに言うのはやめてください」
「あー、ああ、まあ。それは言葉の綾ということにしておいてもだな。べつに違わねえんだけど」
「違わなくなんか」
「聞けって」
 宥めるように手の甲を撫でられる。エステルはわずかに赤面した。それを見てどう思ったのか、ユーリは目を細めて彼女の手に頬を寄せた。
「オレが今日ここに来たのは、誰のためでもない、オレのためだ」
「ユーリ、意味が」
「おまえのためじゃない。ただ気づいちまっただけだよ。離れられないのはオレのほうなんだ。ほっといたらほかのヤツに掻っ攫われる。そんなの我慢できるか。ならどうすればいいかって、ない知恵絞っていろいろ考えたけどな。結論なんかひとつしか出なかった」
 彼の顔と、つないだ手と。吸い寄せられたように視線が惹きつけられ、動かすことができない。瞬きもできない。何か息が苦しくて、ひゅうっと笛が鳴るような音が漏れた。
 彼女の意思でなく、彼女の手のひらが移動する。中心にユーリの唇が押し当てられる。甲ではなくやわらかい内側。食むように動かされて、治まりかけていた熱がまた一気に上がった。
「きっとおまえ、ずっと前から考えてたんだよな。さっきのも、それで出した結論だったんだよな。だからほんとは、オレが今更どうこう言う権利なんてないんだろうけど」
 敬愛のキスとは違う。手袋越しでもない、触れないよう寸前で止めるのでもない。何の変哲もないエステルの手を、至上の何かであるかのように愛しみながら、低く低く、彼がささやく。
「それでも戻ってきてくれ。振り返って、あの日まで。戻ってきてくれ、オレのために」
「……ユーリ……」
 あふれ出る涙に押し出されて、あの日胸を塞いだ塊はいつのまにか流れて消えてしまっていた。
 ほんとうに。ほんとうに? 義務でも責任感でもなく、エステルの望みはエステルのためだけでなく、ユーリのそれと重なることができるのだろうか。
 ずっと泣けなかったのが嘘みたいだ。どこにこれほどの水分があったのかと不思議になるくらい、あとからあとから涙が湧いて出てくる。彼女が泣くのを彼は黙って見ている。言うべきことは言いきったとでもいうように、その瞳はただまっすぐでひたむきだった。
 エステルは何度か喉を鳴らした。頬が濡れている反面、緊張からか喉はからからに乾いている。嚥下して湿らせなければまともにしゃべれそうにない。一生懸命いろいろな何かを飲み下して、そして意を決して顔を上げる。
「ユーリ、わたし。ユーリに謝らなければならないことがあります……」
 それは、フレンにやんわり問われたものの結局は明かさなかった疾しい気持ちだった。
 仲直りなんてできない。こんな醜い自分を知れば、ユーリだけではない、兄のような青年も初めてできた親友も、命を預けあった仲間たちでさえ失望して離れていってしまうかもしれない。そう思うと怖くて、口にすることができなかった。
 今またユーリに知られて、呆れられるかもしれない。せっかく好きだと言ってもらえたのに、やっぱりやめたとそっぽを向かれるかもしれない。でもこんなにやさしい人に不実なことをするわけにはいかないのだ。それでもし何かを失うのだとしても自業自得なのだ。
 怯えて竦む内心を叱咤して、なんとか声を絞り出す。
「……わたし、ユーリを傷つけました」
「…………いや、あのな。あれはオレが全面的に悪かったと思うぞ」
「そうかもしれません。でもわたしが謝りたいのは、そのことではなくて」
 エステルは左手を伸ばし、自分からユーリの手を取った。あたたかさに励まされて少し落ち着く。目を閉じて続けた。
「あのとき、わたしが悲鳴をあげて、ユーリが離れたとき。ユーリの表情を見て、わたし思ったんです。ああ、傷つけてしまった。どうしたらいいだろう、申し訳ない、悲しい。…………嬉しい、って」
「……嬉しい?」
 それは唐突で、自分でも予期せぬうちに込み上げてきた感情だった。案の定いぶかしげに首をかしげる気配がする。おそるおそるまぶたを開いて見上げたが、その瞳の中に軽蔑はなく、ただ純粋に疑問だけがあった。
「そうです、嬉しかったんです。わたしが拒絶したことで、ユーリが傷ついたという事実が――わたしの言動があなたの心を動かせるんだって、認識できたことが、……たまらなく嬉しかった」
 わたしはユーリにとって取るに足らない存在ではない。
 突然さらされた身の危険に恐れ慄く自身。それとは別に、確かにあのとき、心の奥から湧き上がる歓喜の叫びも聞こえた。その昏さと、今まで味わったことのないような甘さ――そう、あれは甘かった――に酔いしれる己も自覚して、どうしていいのかわからなくなったのだ。
 好きな人を傷つけておいて喜ぶなど最低だ。こんな自分本位の感情に振り回されている人間が、果たして彼に愛される資格があるのだろうか。いやそもそもこれは愛だろうか。よしんば同じ名をしているものなのだとしても、それは自己愛と呼ばれるものなのではないだろうか――
「……んだ」
「ごめんなさい。ごめんなさい、わたしはあさましい人間です。こんなことを考えておいて、しかも、今夜ユーリが来なければきっと誰にも言うつもりもありませんでした。確かに存在するのに目をそらして、ないものにしてしまえばいいって思って、昨日も今日も黙って」
「なんだ、そんなことかよ」
「ごめんなさ…………え?」
 あからさまに明るい声が聞こえて、エステルは思わず顔を上げた。瞬くと睫毛の間にまだ残っていた涙の粒が転がり落ちる。伸びてきた指先にちょいちょいとすくいとられたそれらは、かすかな煌めきを放ちながら宙へ散った。
 予期し、恐れていた類の感情は見られない。それどころか微妙に嬉しそうな表情すら浮かべて、青年は大きな両手でぐしゃぐしゃと彼女の髪をかき混ぜる。
「わ、わっ?」
「いや、なんかすげー深刻な顔してるから何言われるのかと思ったら。んなこと気にしてたとはね」
「……そんなこと、です?」
「そんなことだよ」
 一蹴して、ユーリはにっと唇の端を上げた。旅の途中、不安なとき、心細いとき。傍らにいた彼を見上げた時に見せてくれていた、あの笑みだ。言葉などなくとも、“大丈夫だ”と言われているのが伝わってくる――いつもどおりの、やさしい、顔だ。
「人を好きになったら、そういうこと考えるのは当たり前だ。ついでに言うと、オレもおまえに対して同じようなこと散々してるからな。ま、おあいこっつうことで」
 そうだっただろうかと記憶をたどってもよくわからなかった。とりあえずうなずいておく。
「おあいこなら、いいです。…………よくわかりませんけど」
「ああ、うん。だろうな、よくわかってないよなあ」
 自分で乱した髪を今度は丁寧に撫でつけて整えながら、したり顔をする。しばらくおとなしくされるがままになっていたが、やがて満足する形になったのか彼はひとつ息をついて手を止めた。
 頭から、両肩に。あの夜と同じ位置に、同じように包み込むように手のひらを置かれて、けれどもう恐怖はなかった。指先に力が込もる。でも痛くない。ただあたたかい。
 傾きかけた月から差す光の加減か、黒曜の瞳は湖面のようにゆらゆらと揺らめいている。だんだん近づいてくる。わずかな風に流れた黒髪がカーテンのように周囲を覆って、少しだけ暗くなった。暗いのに、黒一色なのに、その彩りはひどく鮮やかだ。エステルは瞬きすら忘れ、それらに見入るしかできない。
「……目、閉じねぇの?」
「え……」
 返事をしようとした唇は、やわらかな何かに動きを封じられていた。
 眼前、触れあいそうなくらい近い場所で黒い睫毛が上下し、中から黒い瞳が現れる。視線が合って、エステルが事態を理解したときには、ユーリはすでに距離を取っていた。
 じわじわと頬に熱が昇ってくる。もう何度目だろう。たぶん耳まで赤くなっているに違いない。
 彼を見上げ、それから少し視線を落として。いつのまにかずり落ちかけていたショールを引き上げて前を掻き合わせて、かすかにぬくもりの残るその場所を、指先でそっと押さえる。
「…………。……あれ?」
「…………第一声がそれかよ」
 自分の行為を棚に上げ、呆れたように言われて、エステルはむきになって言い募った。
「だっ、だって! そん、いき、いきなりすぎますっ!」
 心構えをするどころか、目を瞑る暇も与えてくれなかった。いやそれどころか意思確認もされなかった。ここはおおいに腹を立てておくべきところだろう。いくら直前に気持ちを確かめあったとはいえ、今のような行為は軽々しく行うべきものではない。
 凛々しく決意して、きっと視線を険しくする。自分の価値観どおりにユーリを動かそうなどとは思っていないが、だからといって言うがままされるがままではいけない。こちらの希望だって、ちゃんと容れてもらわなければならない。
「あのですね、ユーリ」
 しかし青年の顔を再び見たときには、かためた決意はもうふにゃふにゃになりかけていた。
「ん?」
「えと……あの」
「だから、なんだよ」
 嬉しそうで楽しそうだ。加えてとろけそうな甘さも上乗せされた笑みは、まっすぐエステルに向けられている。これはまず間違いなく彼女の反応を観察して楽しんでいる。からかわれているわけではないけれど、構図としてはいつもと変わらないような。腹立たしいのに声を荒げることもできず、エステルは口をぱくぱくさせた。
 そうだ、目を合わせるからいけないのだ、なら明後日の方向を見て、心を落ち着かせて、それから言いたいことも頭の中でちゃんと整理して優先順位もつけて――
「ですから」
「エステル」
「は、はいっ?」
 動揺のあまり変な声が出た。
「もう一回。……いいか?」
 この状況で、その言葉が何を指すのか察せないほど鈍くはない。とろりと蜜を流したような甘い囁きに、背筋がぞくりとした。いったんは逸らすと決めた瞳にまた囚われる。その中に明らかな欲を見つけて、胸の奥底が疼く。唐突な、そしてある意味傲慢である意味願ったりかなったりの申し出に、結局折れるほかはなかった。
「…………はい」
 ちいさく、ちいさくうなずく。
 頬に手を添えられたから、少し顎を上げた。今度はちゃんとまぶたを閉じる。さっきはどうして見つめたままでいられたのかわからない。眉間に変な力が入るのを必死に我慢した。代わりに両手を胸の前でぎゅっと握りしめて、余計な力はすべてそこに集まるようにして、身体の強張りがユーリに伝わってしまわないようにする。
 待って、待って。
 待っても、何も起こらない。
「……?」
 さすがに不審に思って薄目を開けた途端、皺の寄っていた眉間にやわらかな感触が落ちた。そこで初めて、思惑通りに力を抜けていなかったことを自覚する。それきり気配は離れていって戻ってこない。
「ユーリ?」
「残念、時間切れだ」
「じかん、ぎれ?」
 鸚鵡返しに繰り返した拍子に、ぽろりと一粒涙がこぼれた。
 時間切れってなんだろう。もしかして、自分から動かないと駄目だったのだろうか。それともあんまりがちがちに固まっているから興を削がれてしまったのだろうか。嫌がっているとでも思われたのだろうか。何を。何を、失敗した?
 声も出さず、目も見開いたままぼろぼろと大粒の涙を流すエステルを見て、ユーリもさすがに慌てたようだった。
「うわちょっ、泣くな! 泣くなって!」
「わ、たし……なにか、」
「ああ!? いや、そうじゃねえ、そうじゃねえよ、ほんとに時間切れなんだ!」
 ぐいと抱き寄せられ、窓の下を示された。ああ、やっぱり庭木の枝の上に乗っていたらしい。やけに足元がしっかりしていると思った、大木の幹から伸びた枝はやはり太く、成人男性の体重を支えてびくともしない。地上からは相当高くなっているから、よほどのことがなければ登ろうと考える人間はいないのかもしれないけれど。身軽なユーリであれば、それほどの苦労なくここまで到達し、かつ立っていることも不可能ではなかったのだろう。
 足場の謎が解けたのち、エステルは指し示された方向に目を凝らした。暗闇の中、浮かび上がるように白いものがわずかに見えるだけ。けれど、それがなんなのかはすぐに理解した。あの模様はラピードだ。吠え声も上げず、あ、座った。くいと上げた煙管が月光を反射して一瞬だけ光った。
「で、ほら、月があそこに」
 思うより長く話し込んでいたらしい。中天から傾いた月は、城の尖塔の先にかかろうとしていた。
「毎晩騎士の巡回があるだろ? ちょうどこの部屋の真下はな、月があの位置に来るくらいの時間なんだよ。おっさんから聞いて……時間になったら来るようにラピードに頼んでて、だからさ」
 彼らしくない、早口で一気に説明される。内容というよりはその口の速さに驚いて涙は止まった。はあ、と息をついて手荒く頬を擦られる。
「焦ったぜ……」
「ご、ごめんなさい」
「いや、オレの言い方も悪かった。そういうわけだから、もう行くわ」
「あ……」
 部屋の中に入ればいいのに。そうすれば、騎士の巡回が来ようがなんだろうが一晩中一緒に居られる。
 けれど、ユーリが何を思って頑なに室内に踏み入ろうとしなかったのか、今では彼女にもわかっていた。口では危うげなことを言いながらも、はっきりと一線を引いているのはひとえにエステルを怯えさせないため。きっと気にしなくていいと言っても、気に病み続けるのだろう。だから敢えて何も言わずに微笑んでみせる。
「……そんな顔すんなよな。帰りたくなくなるだろ」
「そんな顔なんてしてませんよ」
「そうかあ? 二回目お預けにされてぼろぼろ泣き出したのはどこの誰だっけ」
「あ、あれは! そういう意味ではなくて……!」
「また今度な」
 遮るようにぽんぽん頭をたたかれて、エステルは黙った。どうせ口では勝てっこない。せめて背筋を伸ばして胸を張って、挑むように黒い瞳を見上げる。
「はい、また今度。……ずっと一緒なんですから、機会はいくらでもありますよね」
「お、言うようになったな。ま、そういうこった」
 じゃあな、と手を振って、ユーリは今度こそ身を翻した。一気に姿が見えなくなる。飛び降りでもしたのかと慌てて窓枠から身を乗り出すと、枝に手をかけて反動で跳び、それを繰り返してどんどん降りていく背中が見えた。
 あっという間に地面に到達して振り返らず一度手を振る。影のように付き従う愛犬とともに、鮮やかな黒は夜の静寂に消えていった。
 ほうっと長い息が出る。
 窓を閉めて、カーテンを閉めて、暗くなった室内をエステルは手探りで歩いた。寝台の天蓋をめくり、シーツの間に身を滑り込ませる。思い出してショールを抜き取り、丸めて枕元に置いた。
 好きだ。
 ずっと一緒なんですから、機会はいくらでもありますよね。
 ま、そういうこった。
 また、ぼろりと雫があふれる。軽く、けれど確認の意味で出した言葉は、呆気ないほどに朗らかに肯定された。後ろに込めた意味に気づかないユーリではないだろう。直截的なやりとりではなかったが、彼は確かに約束してくれたのだ。これから先、ずっと続く未来をともに歩みたいと。
 本当に。ほんとうに。
 涙は止まらなかった。悲しいのではない、嬉しいのだから自分の意思で止められそうなものを、むしろつらいときより難しい。エステルは静かに泣き続けた。
 目の周りや頬が痛いが、冷やすために起き上がる気力はない。涙は未だ流れ続けているのに、急激に眠気が襲ってくる。明日のためを思えばもう眠ったほうがいい、でもまだ夢ではないかという猜疑心も捨てきれない、でも目を腫らしたうえふらふらになっているようでは周囲に余計な心配をかけてしまう――
 まとまらない思考はどろどろと溶け、混ざり、やがてエステルを覆い尽くした。
 いつかは終わりが訪れるのだと思っていた。
 それが少しでも遅くなることを願いながら、けれど引き鉄を引かずにはいられないのだろう自分を自覚していた。
 恐れて、遠ざけて。そうしてついに訪れた終わりは、ひとつの想いが途切れたことを意味してはいたのだけれど。
 終わらなければ始まらない。それもまた真理で、知ってはいたはずなのに、どうして忘れていたのだろうと首をかしげる。
 その日見た夢は、内容は思い出せなかった。ただ、とても幸せなものだったという記憶だけは、残っていた。
--END.



一度腹を決めたら即行動。悩む暇があったら即行動するのがユーリだと思います。というわけで数日後どころか翌日に突撃した青年であった。
手の早いローウェルさんと遅いローウェルさんで迷って、手の早いほうで行ってみました。
しかし一度目は勢いでできたものの、真っ赤な顔でぷるぷる震えながらキスを待ってるエステルを見て微妙に罪悪感感じてでこちゅーですませたのもまたローウェルさん。時間切れは本当だけど言い訳でもありましたよーっていう。
翌朝ひっどい顔の副帝殿下を見て誤解したフレンが暴走しかけるも、ユーリは城関連とは別件の仕事で留守でしたとかいうオチだったりします。たぶん。
この後ラピード視点の云々かんぬんとユーリ視点のヨーデルにむすめさんをぼくにください宣言を入れようかと思ってたんですが、明らかに蛇足だったのでいったんここで終わり。
また後で別タイトルつけて書きますー。
なんていうか、相手よりも自分自身の感情に振り回されてあたふたしてるユリエスでしたが。このページなんかすごく長くなったうえに切りどころわからなくてぐっだぐだになってますが。書いててすごく楽しかったのでよしとしよう。情けなくてもいいじゃない。自己中でもいいじゃない。

ちなみに書きたかった台詞とは、読んだ瞬間に悟られたでしょうがあそこです。本編中散々エステルに言い聞かせながら、でも自身は矛盾する行動もとっててエステルを振り回して、しかも自覚してるのに見ないふりをしてる。だから行動だけじゃなく口に出してああ言えたら一皮むけるのかなとか考えてました。その妄想を形にしてみたくて書き始めたのでした。たどりつくまでえっらい長くなったけど。
(2012.12.02)