6.
 夜の間に少し雨が降ったらしい。
 申し訳程度に舗装された道のそこここに、ちいさな水たまりが残っている。それらをひょいひょいと跳び越えながら、レイヴンは下町に続く長い坂道を下りていた。
 昨日は珍しく早めに寝たので、こんな時間でも頭はすっきりしている。今はまだ早朝だが、ここらの住民は基本的に早寝早起きが習慣なのだろう。商業区では濃くたちこめていた朝食の香りはすでにほとんどなく、人々は忙しげにそれぞれの仕事に没頭している。
 さて、果たして彼は部屋にいるのだろうか。それとももう起き出しているだろうか。きょろきょろと巡らせた視界の中に見知った姿をみつけて近づく。声をかけるより先にこちらに気づいた少年は、ちょっと目を見張ってから持っていた大根を桶の水の中に突っ込んだ。
「レイヴンさん、おはよう」
「おはよー、テッド君。ユーリのあんちゃんは部屋にいるかい?」
「ユーリに会いにきたの?」
 テッドは首をかしげてレイヴンの背後――つまり王城のほうを見やった。
「箒星には戻ってないよ。フレンのところにでも泊まったのかなって、思ってたんだけど……」
「ありゃ、そうなの。うーん、どうしたもんかねえ」
「オレが何だって?」
 顎に手を当てて考え始める前に、聞きなれた声が飛んでくる。テッドは振り返り歓声をあげた。
「うわあ……! どうしたの、それ?」
 市外に通じる小路を歩いてきたらしい。利き手に剣をぶら下げているのはいつものとおり。しかし、今日のユーリは右肩に鹿を担いでいた。体格は小ぶりだが角がある。まだ若い雄だ。ぴくりとも動かないのでもう息絶えているのだろう。
「あー、うっかりウルフの狩に割り込んじまってな。オレも一緒に獲物扱いで追っかけまわされて。こいつ、みつけたときはまだ生きてたんだけど……まあ、放置するのももったいないかな、と」
 ラピードも連れてきゃこんなヘマしなかったんだけどなあ。
 つぶやいてどさりと鹿を投げ出す。そこでやっとレイヴンは気づいた。あの忠実な犬は、今主人のそばにいない。ということは、下宿の寝床にいるのか。そういえば昨日も見なかった。
「おうおう、これはまた立派なもんを拾ってきたのう」
 ざわざわと人だかりができつつある。聞きつけたか、いつの間にかやってきていたハンクス老が目を細めた。鹿一頭ともなればけっこうなご馳走だ。近隣の住人に振舞うくらいの量は充分にあるだろう。誰かが肉屋の若旦那呼んで来る、と駆けていった。どうやら井戸の横ですぐ解体を始めてしまうらしい。
「ユーリ、おまえさんの取り分は?」
「オレは角もらう。根元から切り取っといてくれよ」
「それっぽっちでええんか。毛皮ならともかく角なんぞまだ生え始めじゃろ、柔らかいぞ? たいした金にもならんじゃろうに」
「ここらじゃそうだけどな、ダングレストあたりだと欲しがる奴がけっこういんだよ。あ、でも肉も味見はしてみたいから、少しは残しといて」
 わかったとうなずいて、ハンクスはそのまま鹿のほうに向きなおった。やってきた若旦那が腕まくりをしてのこぎりを高く掲げる。おおー、とお気楽な拍手がわきあがるのを尻目に、青年はあくびを噛み殺しながら歩き出した。テッドがまとわりつく。
「ユーリ、朝ごはんは? 今ならまだ残ってると思うよ」
「あー、いいよ。徹夜だから眠くてなあ……部屋で寝るわ。昼飯までにはたぶん降りてく」
「わかった、言っとくね」
 あまり珍しいことではないのかもしれない。少年はそれ以上追及することもなく、あっさりと人垣の中に戻っていった。ユーリはユーリで、レイヴンなど目にも入っていないような顔をして宿の階段を上り始める。レイヴンはつかず離れずそのあとを追いかけた。
「ちょっとちょっと、青年」
「あー? おっさん、悪ぃけどオレ眠いんだよ。話があるなら後で聞くから」
「まあ、話自体は後でもかまわんけどね」
 扉を開けて、閉めようとする。咄嗟に足を突っ込んで阻止した。眉をひそめて見返してくるのに、レイヴンは苦笑してみせた。
「黒ずくめなうえに泥だらけだから目立たないけどさ、あちこち傷だらけよ? せめて手当してから寝なさいって」
「…………いらねえよ」
 ユーリは強い力でドアノブを引く。だが、彼の思い通りにはいかなかった。レイヴンの靴は見た目より遙かに頑丈に作ってあるのだ。つま先に痛みすら感じずに、保った隙間を少しずつこじ開け、やがて人ひとり通れるだけの空間を確保する。
 部屋の中に青い毛並みは見当たらなかった。嫌そうな目で睨んでくるが、こちらも引く気はない。何度か訪れたことがあるので、一応最低限何がどこにあるかはわかっている。簡素な救急箱を戸棚から下ろし、その他こまごまとしたものを準備しながら調子っぱずれの歌を歌った。
「なにが〜、悲しゅうて〜、野郎の〜、手当なんか〜♪」
「おっさんもう帰れ……」
「帰るって、城に? んんー、おっさん今帰ったら、青年が怪我してるってこと黙ってらんないかもぉ。フレンちゃんとか〜、嬢ちゃんとか? 血相変えて押しかけてくるんでない?」
「ぐ……」
 ユーリが絶句して押し黙る。抵抗する気配がやんだのをいいことに、レイヴンは彼に濡れ手拭いを放り投げた。上着を脱いで、まずは泥を落としてしまったほうがいい。自分で見えない背中に関しては、仕方がないので手伝ってやる。
「イライラして、夜中にワンコも連れずに帝都の外に出てさ。まあ気持ちはわからんでもないけど、もういい歳なんだし別の解消法みつけたほうがいいと思うなあ、おっさん」
 黒髪の間から目だけがレイヴンを捉えた。
「…………あんた、見てたな」
「うん」
 あっさりとうなずく。“何を”見ていたのかはもちろん通じ合っていた。彼はわざとらしく肩をすくめて両手を広げた。
「だってさぁ、嬢ちゃんってば暗くなってんのに部屋に戻ってくんないんだもーん。そりゃま、勤務時間外ではあったんだけどさ。気づいちゃったらほっとくわけにもいかないっしょ? あの坊やとの話はもちろん聞いてないけど、何かあったらすぐ飛び出せる位置にはいたよ。この俺様が、可愛い可愛い嬢ちゃんとそこら辺の馬の骨をそう簡単に二人っきりになんてさせてあげるわけないでしょうが」
 王城の住人が聞けば、ユーリよりも彼のほうがよほど身元がはっきりしていると憤慨するかもしれないが。なにせ出身も経歴も素行も、傷一つない貴族の次男坊だ。
 同じ立場で生を受けながら、放蕩息子の名をほしいままにしていた自分とは大違い。
 だがレイヴンにとって、彼はただそれだけだった。大切なものを預けるには足らない。
 それに政治的な意味でいうなら、あの青年もまた微妙な立ち位置にいる。評議会議員の子息でありながら、星喰みの混乱を逆手に取って騎士の道を選んだ変わり者だと。そう揶揄されてはいるが、それは同時にエステリーゼへの影響力を弱めてしまった評議会にとって、偶然生まれた、けれどまたとない駒となり得る可能性も秘めているのだ。当人たちはごく単純で、気づいてもいないのだけれど――いやエステルは気づいていて気にしていないだけかもしれないけれど。
 べつに、二人が親しくなることで都合の悪くなるものは今のところいない。評議会の者たちは言わずもがなだし、騎士団は騎士団でフレンを頂点に頂いて以来は、重視しているのは彼女の身の安全であって行動制限や思想統制ではない。皇帝であるヨーデルでさえ、副帝の交友関係については表だって口出しをしない。
 駆け引きは今もある。だが昔日とは比べものにならない。ただ、何がきっかけで状況が変化してしまうのかはわからなかった。世界の構造そのものが変わろうとも、権力を欲してなりふり構わない輩というのは存在するものだ。下手を打てば、かつてのがんじがらめの状態に戻ってしまうこともあるかもしれない。そのようなことは耐え難い。だからあの夜も、余計なお世話と知っていながら警護という名の観察を続けていた。
「まあね、あの後はフレンちゃんも来たし。もういいやと思って部屋に戻ってすぐ寝たんだけど」
 納得いかないが、即座に言葉が出てこない。そんなところだろうか。頭の回転の速い彼が、そんな状態になるのは珍しい。
 レイヴンとしては、ユーリであればエステルと二人きりで会わせてやっても特に問題はなかった。というか、いつものことに過ぎない。だからあの時点で戻ってもよかったのだが。出歯亀してやろうとか、特別そんなことを考えていたわけでもなし。ただなんとなくついて行っていただけだ。
 その後の展開に関しては、びっくりしたような納得したような。
 薬を塗り込んだ上から当て布を貼りつけてやる。ぺしんと軽くたたくと、おおげさなくらい背中が揺れた。自分でも一応手当は続けている。くるくると器用に腕に包帯を巻き終え――ユーリはレイヴンを押しのけて、寝台にごろりと横になった。
 壁を向いているのに、ふてくされているのがひしひしと伝わってくる。
「嬢ちゃんのことだから、謝れば許してくれるでしょ」
「だろうな」
「謝るなら早いほうがいいよ? ま、理由を話さんことには解放してくれないかもしれんけどねえ。……俺もそうだったし」
 あれよあれよという間に何もかもを白状する羽目になった夜を思い返す。
 できれば思い出したくない記憶だった。ずっと封印して、ぼんやりとはっきりしない輪郭のままにしておきたかった。
 けれど彼女はそれを許さず――いや、許せなかったのはレイヴン自身だったのかもしれない。本当に嫌なら、話さなければよかったのだ。
 ただ懺悔だったのか、それとも義務感に突き動かされていたのか。ひとりの人として生きてきたその源泉を、彼女は優しく遡っていった。心の奥、やわらかい部分に踏み込まれてなお不快はなかった。
 一生のうち何度、彼女にしたのと同じ話を、誰に聞かせるのだろう。もしかしたらまたあるかもしれないし、ないかもしれない。少なくとも今、目の前の彼に聞かせる気はない。
「理由って、……ああ、あのときの。話したのか。……全部?」
「うん、全部。騎士団に入る前のことから全部」
「そんな前から……」
 さすがにそこまで予想はしていなかったのだろう。青年の声はかすれていた。多くを語ったことはないが、ユーリもレイヴンが人魔戦争の生き残りだということは知っている。あのころの思い出が、どれほど壮絶なものなのか。知らずとも、想像することは容易だろう。
「……泣いただろ」
 過去に思いをはせていたレイヴンは、低い囁きに引き戻された。
「泣いてたねえ。そりゃもうぼろっぼろに。ひどいめにあったのは自分なのにね、それでもこんなおっさんを慰めようとして抱きしめてくれちゃっ」
「はあ!?」
 口が滑った。
 ものすごい勢いで身を起こしたユーリは一瞬傷の痛みに顔をしかめたが、すぐにレイヴンを睨んでくる。その目つきの険しいことといったら、射殺されそうなくらいだ。内心で笑いを噛み殺しながら、彼は寝台から一歩離れて距離を取った。
「妙なことする余裕なんかなかったわよ〜。むしろ頭が真っ白になっちゃってねえ、びっくりしたのなんのって。結局その後もふつーに話して、それであとは知ってるとおりよ、一発罰をもらって終わり」
「おっさんのくせに真面目な……」
「どういう意味よ!」
 これでも年の割には初心なのだ。いや、年の割にはなどという表現が不適切なのはわかっているけれども。もういい加減三十路も超えて久しいのだし。
「って、今は俺の話じゃないでしょうよ」
 手振りで混ぜっ返すと、ユーリは息をついてもう一度寝台に横になった。今度はあおむけだ。右手の甲と手首を目の位置に置いて、そこを覆うように。見ようによっては涙を抑えてでもいるかのようだったが、そういうわけでないことはわかっていた。
「一生会わないってんならこのままでもいいけどね。そんなの無理っしょ? どっちに転ぶにせよ一度は話しとかないと、絶対後悔する……」
「欲情した」
「わあお」
 思わず出てきた感嘆詞は棒読みだった。
 抑揚のない声でぽつりと爆弾発言をしてくださる。
 青年の腕がぴくりと動く。口許は一瞬だけ自嘲に歪み、その後もぞもぞと寝返りを打ってまた壁のほうを向いてしまった。これは重症だ。
「おっさんが引くとかどんだけだよ。……よりによってあの箱入りに、こんなんどう聞かせろってんだ……」
「ああ、いやいやいや!」
 レイヴンは慌てて顔の前で両手を振った。
 べつに引いたなんてことはない。それに、あの夜の二人の様子を見て、その後のユーリの行動を鑑みれば答えなどひとつしかない。ただあまりに簡潔かつ直球だったので驚いただけだ。
「俺様が言ってるのはそっちじゃなくて! ……単に言葉選びの話よ、なんかこうもうちょっとソフトな表現ってもんがあるでしょ」
「生憎語彙が貧困なもんでね」
 咄嗟にそういう切り返しができる時点で説得力はないような気はするが。空気が伝わるのもかまわず苦笑する。よしよしと頭を撫でてやれば邪険に振り払われた。手をひっこめても空をぶんぶん払い続けている、よほど気に障ったのだろうか。
「軽蔑なんかしないと思うけどね」
「………………わかってる。あいつ、甘いんだよ」
「何度も言うけどね、動けるうちに動いといたほうがいいよ。……あの子ももうちょっとで成人だ。猶予はなくなってきてる」
 がたん、と。椅子を引いた音が妙に大きく空々しく響いた。
「取り返しがつかなくなったその後でさ。うっかり昨日みたいに暴発したら――」
「わかってる。……わかってる」
 その声は揺れていて、まるで嗚咽のようだった。
 これ以上つつくのは酷か。大人びていても、悟ったような口をきいても、ユーリは未だ二十歳そこそこの若者だ。自分がその年のころ何を考え何をしていたかを思い返せば――もちろん比べるのも躊躇われるほどのぬるま湯に浸かっていた自覚はあるけれども――おのずとその心境も察せてしまう。
 かすかに蝶番のきしむ音がして、風が入ってきた。
 見ればラピードが、器用に前足で扉を開けている。二人の会話などどこ吹く風、といった体でのしのしと歩いてきた青い毛並みは、レイヴンにまったく頓着せず定位置におさまって丸くなった。
「まあ、何かあったら言ってよ。おっさん、大将になら喜んで機密漏洩しちゃう」
「……必要があればな」
 返事は頭からの拒否ではなかった。その事実に満足して目を細め、レイヴンはうんとうなずいた。
 部屋から出しな振り返ると、ラピードが主人にその鼻先を押しつけているのが見えた。
...



なんだかんだでおっさんは包容力があるんだよということをユーリは知っている。
ので甘えやすい。たぶん。
(2012.11.20)