WDの赤い月(前)





 甘いチョコレートが恋のしるしなら、はたして味気ないクッキーは?

 キール・ツァイベルことインフェリア一の秀才、別名体力なし男は、台所でオーブンを覗き込んでがっくりとしていた。彼のように見るまでもなく、隙間からもれる黒い煙は……と、いうことだ。
 幾度目かの失敗である。もう何度も黒い塊をつくりあげているオーブンは、もうたくさんだ! とでもいうように、ボン! と大きな音を立てて破裂した。
「何故だ!」
 と、壊れたオーブンを目前にして、彼が叫ぶ。顔には青筋がたっており、何日も徹夜をした時にも劣らないくらいに目の輝きがあやしさを増している。ドアの隙間から様子をうかがっているガレノスとリッドはその様子に笑いをかみ殺している余裕もなくなりつつあるところだ。
「…ガレノス…ありゃちょっとやりすぎじゃねぇか?」
「…やりすぎかのう?」
 小声でひそひそとなにかを言い合っていた。一枚扉を隔てたキールは、何度目かになるオーブンの修理を行っていて、まったく二人の様子に気が付くことはない。
「言い出しっぺはおぬしじゃろうて」
「あれは、ガレノスのアイディアだぜ…?」
「…なにしてるの、二人とも」
 そんなとき、向かいの部屋からファラがあらわれた。手に数冊の料理本を抱えている。
「ふぁ、ファラ…」
 突然の登場に、体が固まる二人。まるでいたずらをした子供のような表情だ。きょとん、としたファラは、そんな事を考えた。
「いやぁ、こっちのはなしじゃて。」
 務めてガレノスが、何事もなかったように笑顔で立ち上がり、ピンと立てた右手で宙をきりながら歩き去っていく。一見動きもやわらかいが、手と足が同時に動いているのをファラは見逃さなかった。――これは何かある。普段働かないファラのカンが、このときは良く働いた。
「そうだ、俺買い物ー…」
「まちなさいよ、リッド」
 ガレノスの後を追いかけていこうとするリッドの首根っこに、すかさず白い手がのびた。
「なにをしたの!? 白状しなさい!」
「い、いてててててて! ファラ! 放せ! 放せよ!」
 否定しないということは、何かをしたということだ。
「話すのなら放してあげる」
「昨日話しただろ! 放せ――」
「それだけじゃないんでしょ」
 ファラがなお、リッドを拘束しようとした。するときたえあげられたしなやかな身体ははくるっと体の向きをファラに寄せ、その拍子にファラの手は滑ってリッドの服から離れてしまう。リッドはそのまますたこら走り出してしまった。
「へへへーんだ。だれがこんな面白いことおしえるかってんだ」
 ファラに届かない声で、リッドが笑った。それをまったくもう、といった様子で腕組みをしたファラから見えるキールは、新しく直し終えたオーブンの片隅で再びクッキーの材料を計りはじめたところだった。
 幾度ともなく薄気味悪いものをつくり、そして機材が壊れては直し、またつくり直して…何度も繰り返されているこの饗宴は、昨晩の夜から始まった。





「今日が何の日か知ってるか、キール」
「ぼくを馬鹿にしてるのか。ホワイトデーの日だろ、そんなこと子供でも知っている」
 話をふられて顔を上げたキールは、いかにも不満たっぷりといった表情だった。リッドは笑いながらそんな表情は無視をする。彼が出てきたのは新しい発明を終えてからで、その間三週間は部屋にこもりっぱなしだったのだから。それこそお互い急がしい日々を送っていたので、四人がそろって顔をあわせたのは、前月の丁度バレンタインデーの時だったと記憶していた。
 本日も出席者はキールとリッド、客人のガレノスだけだ。ガレノスは昨日までキールといっしょに研究をしていたのだった。
「そうだ。明日久々に、みんな集まるしなっ」
「そんなこといちいち確かめる事でもないじゃないか。いったい何が言いたいんだ」
 短気なもので、邪魔があればキールは読みかけの本に集中できない。
「だからさ、おまえ、ファラにもメルディにもチョコレートもらってたじゃねぇか。しかも手作りのものをさ」
「お返しをしろというのか。当たり前だ。さっき用意してきた」
 そういうと、キールは脇においてあったあっさりとしたラッピングされたものを二つ取り出した。ラベルには、メルディのお気に入りのお店の名が記されていた。
「あーあ、やっぱりわかってねぇなぁ」
「どういう意味だ」
 大げさにため息をつくリッド。
「キールがメルディからもらったのは、手作りだったじゃねぇか」
「ああ、ファラは時間がなかったから買ったものだったけれどもな」
 キールはなんとなく、インフェリアと違ったセレスティアのチョコレートの味を思い出す。だいぶ以前に一度食べただけだったが、インフェリアのものと違って硬く、味がどろどろとしていたのを思い出した。ファラが買ってきたのは、インフェリアのものだった。
 キールがセレスティア料理が嫌いということで、ワザワザ持ってきた向こうのものだったのだ。
「そうそれだよ。それが、インフェリアとセレスティアの違いなんだ」
 そこまでいうと、リッドの隣に座っていたガレノスが、もぞもぞと話し出した。
「セレスティア人にとって、手作りのプレゼントというのは、特別な意味をさすもんなのじゃ」
「特別な意味…?」
「それは、勿論」
「「愛!!」」
 ガレノスとリッドの声が重なって、ステレオのような大音響を発した。
「――――」
 あまりの大きさに耳をふさいでしまったキール。一瞬、意味を理解できずに、はた、とすべての動作がとまる。そして、一秒後。
「なっ!!!!!!!」
 ぼっと、火が出たようにキールの顔が赤く染まった。
「な、な、なにをいっているんだ! ばかな!」
「馬鹿とは失礼な。伝統的な行事じゃぞ」
「そーそ。インフェリアだって、義理とか本命とか差はないけれど、同じようなものじゃないか」
 赤く染まった顔は、なかなか元に戻らない。キールは自覚しているのかしていないのか、二人から顔を背けてしまった。
「な、なんだってそんな…」
 いいや、とかぶりをふる。リッドがからかっているだけだ。キールはそう言い聞かせた。――そうでもしないと、顔のほてりがなおりそうにない――
「ばかばかしい、こんな事には付き合ってられない!僕は、他の部屋で本を読もう」
「待てよ、キール。話は終ってないぜ! ここからが大事なんだ。メルディの命にかかわるんだぜ!」
 リッドがキールの行く手をふさいだ。
「なに?」
 わずかに、キールの顔に光が入る。おそらくは本人は意識せずに。
 そこにガレノスが言葉を加えた。
「古い森に住むものに伝わる伝説じゃよ。
 昔大いなる世界を礎にし、天と地がつくられた。その二つはそれぞれ違う神が支配し平和に暮らしていたが、あるとき地の神が大群を率いて天を破壊しようと目論んだ。だが長い戦いの後、天が勝利をおさめ、悪しき神となった地の神は空の一部に封印された」
「その話なら読んだことがあるな。昔あった極光戦争が古き民の中で形を変えたものだ。さしずめ、セレスティアとインフェリア二つの世界に別々の神があったということで、地を治めた神とはおそらくネレイドのことだろう。話は真実とは程遠いが、確かにネレイドはセレスティアから見た天――インフェリアに封印されていたんだからな。あながち馬鹿に出来る話ではなかった」
「それがじゃ。その古き民の間で空の一部と言うのは、どうやら月のことらしい」
「―そうなのか。初耳だ。だが、それがメルディの命といったい何に関係するんだ?」
 ガレノスはわざとらしく、セキをごほんとして見せた。
「その民に伝わるほかの言い伝えに、赤い月の伝説がある。――知っておるじゃろう、明日が赤い月になるというのは――
 地の神が封じ込められた月は魔力にむらがあり、一定周期を経てその力を失ってしまう。そのとき、月は自分がもといた地上からいけにえを捧げさせ、食らいつくしたという。そのようにして、月は赤く染まるのだということじゃ」
「そしてそのいけにえってのが、その地の神に一番近い女で、こころを通わせた奴がいないものに限るんだってよ」
 長い話を言い終えると、ガレノスは疲れたのか、いすの上にへたばってしまった。続きは、リッドが付け加えた。
「なんだか、とって付け加えたような伝説だな…」
 ガレノスを介抱しながら、キールが呟いた。
「納得いかねぇっていうのか?セレスティアがインフェリアとは異なる文化をもっているっていうことは、おまえがよく知っているじゃねぇか」
「ぼくはその、リッドが付け加えたいけにえの基準のことをいっているんだ。それがメルディだというのか!メルディには、僕たちがいるじゃないか!」
「そうさ、俺たちがいる。だけどよ。それとは違うんだ。おまえだってわかっだろう。それ以上のつながりってやつなんだとよ」
 リッドがさすような視線をキールに向けた。その強さに、たじろぐ。
「……馬鹿げている。ぼくは、部屋に行って本を読む」
 リッドにガレノスを任せると、読みかけの本を持って部屋を出て行こうとした。
「まてよ。一体どうすればいいのかわかるだろう。簡単なことなんだ」
 その眼は、何かを物語っていた。だから、目をそらした。
「おい、いいのかよ。本当にメルディが消えてしまうかもしれないんだぜ?」
「あいつがチョコをやったのは僕だけじゃないはずだ。リッドだって、手作りをもらったんだろう?」
 キールは、冷たくリッドの目を見ていった。
「それならリッドが…」
「おまえ、いったいどういった顔していってんだ。ばか」
 本当にこいつはしょうがない奴だ。頭までいかれてんじゃないのか。自分の髪をぐしゃぐしゃにしながら、リッドは笑いをこらえるしかない。
「俺とガレノスは、きちんともらったぜ。買ったものをな。つまりはキールの分だけ、手作りだったってわけだ」
「なっ!………そんな、ば」
「ばかなんて、いうなよ。メルディは一生懸命だったんだぞ」
「あ、ああ…」
 再び真っ赤に染まった顔が、うつむいた。
 長い沈黙を経て、キールがおこした行動は、部屋を出て行くことだった。




 キールがいなくなった部屋で、椅子にもたれてだるそうにしていたガレノスが、片目をひらいた。
「ふー。さて、どうするかのぉ」
 ガレノスは先ほどまでの様子は何のその。はきはきと体を起こし、軽く柔軟なんぞ始めた。
「あの様子じゃと、完璧に信じてはいぬが、それでもだまされてくれそうな気配じゃのう。楽しくなりそうじゃて」
 どことなく嬉しそうである…
「おい、リッド?聞いているおるのか」
 返事をしない相方の肩にその手を置くと、小刻みに震えている。
「リッド?」
「ぷぷぷ。あははははは!」
 大爆笑だ。リッドは、大口を空けて笑い始めた。
「み、みたかよガレノス! あの顔! 可笑しいったらありゃしねぇ! ひ、はははっはは」
 そのまま、リッドは腹を抱えて笑い出した。いったい、何の事だか。
「あれか。メルディのチョコの件のときか」
 惜しい事をしたなぁ、と、ガレノス。
「あいつ、すごい情けない顔してんでやんの!」
 思い出すたびに、リッドは笑っているのである。だいぶ大きな笑い声があたりに響き渡っていた。だが、もうすでに台所に向かっているキールに、知る由もない。
 代わりの人物がはいってきた。ファラだ。
「いったい何笑ってるのよ、りっどぉ」
「ふぁ、ファラか…」
「すごい声ね。外まで響いていたわよ」
「あ、わりぃ…」
 お盆に載せて盛ってきたお茶をガレノスに渡す際、ファラはキールがいないことに気がついた。お盆の上にはお茶が四杯乗っている。
「キールは?」
「それが、ホワイトデー大作戦だ」
「なに? それ」
 ガレノスが、熱いお茶をすすりながら、舌をやけどしてヒーヒー言っているのを尻目に、リッドがファラに説明する。
 2月14日にメルディがワザワザつくった手作りインフェリアチョコレートのおかえしに、キールに手作りのクッキーをお返しさせるのが、今回の目標。そのために、ありもしない伝説や文化を作り上げて、メルディが危険と思わせる。
 メルディはガレノスの使いですでに明日の夜までは帰らないことになっているのだ。
「またそんなことして。キールにばれたって知らないよ」
「あいつなんて怖くねぇよ。夜中にひーひー泣いてるような奴なんか」
「それは昔の話しでしょう」
 ガレノスはそんな二人を見て、若いのはいいなぁ、とぼやいた。それが耳に入った二人は、ぴたっと口論を止めて、あらぬ方向を見ている。二人とも耳まで赤くなっていた。
 この二人は、すでにお互い出来上がっておるからのう。ガレノスの勝手な思い込みだったが、二人の仲むつまじい様子はどんなに言葉をつくろおうとも雰囲気が示している。お互いがいて自然。そんな、気にさせる。ところがあの二人は…
「なんというか、時々ぎこちなくなるから、困ったものじゃ」
 二人は自分自身の気持ちを意識すれども、相手の気持ちまでわかってはいない。そんな感じ。とくにキールは…
「ばかなのはキールだよな。どうあっても自分の気持ちを認めようとしやがらねぇ」
「せっかくメルディがバレンタインデーにキールのためだけにチョコを作ってたんだもんね。私だって上手くいかせてやりたいなぁ」
 ファラが立って、窓をあけた。ずっと遠くにいるはずの、メルディが見える気がする。
「ああ。お互いを必要としてんだからな。うまくいく。味方もバッチリつけたしな」
 こんな風に冗談のようにかたづけていたが。
 こんなときに、言葉にしなくてもよかったのだろう。
 三人は二人の友のために空を見上げた。満天の星に祈るために。
 冬の冷たい風がふきこんで、春の息吹を感じた。

 台所で繰り広げられる戦いに、ファラはあっけにとられてしまった。今の今までキールが昨晩からクッキー作りをしていたということを知らなかったので、その惨状には思わず眼もくらむ思いだ。
 だがそのひたむきな真剣さに、普段感じとられないキールのメルディへの想いがつまっているのだろうか。
 ファラが軽くノックをしても、キールは気付かなかった。
「キール。手伝おうか」
 目の前に立たれて初めてその存在に気がついたキールは、砂糖を量っている手を止めた。
「あ、ああ…。よろしくたのむ」
「久しぶりだねー。研究は上手くいったの?」
 たわいもない世間話をしながら、ファラは手を動かしていたが、キールの方はそれに相づちを打つだけで、クッキー作りのほうに専念していた。
 ま、しかたないわね。と、今日何度目かになるのかファラは肩をすくめた。
 ファラも少々おかしいと思うのだ。キールは料理があまり上手くはないが、こう何度も料理を爆発させるようなことはしない。ずっと一緒に旅をしてきたので、それはリッドも承知していること。
 さっき、なにかいわなかったのは、キールの失敗にリッドとガレノスが何か手を加えているからなのだろう。キールとメルディを上手くいかせる案には納得したが、流石にそれには納得がいかなかった。
 だがいまのところ、二人の妨害はみあたらない。
 ファラは常温に戻したバターを取り出し、今しがたキールが量り終えた砂糖をいれた。その間キールが卵を黄身と白身にわけて、黄身だけ混ぜていく。
「あれ? 白身はいいの?」
 キールは、頭だけうなずいて、今度は小麦粉を量りはじめている。
「わかった! これ、セレスティアのクッキーなんだ!」
 白身を使うのが、インフェリアクッキーの特色だということを「みつぼしコック」ファラが、知らないわけはない。
 つい声に出しちゃった、とおもってキールの様子をうかがったが、何の変化もみられない。ただ、耳がほんの少し赤く…
「…チョコが、インフェリアのだったからな…」
 小さい声だったが、聞こえぬほどではなかった。
 …心配するほどのことは、なかったのかもしれなかった。
 やがて小麦粉を抜かした材料を混ぜ終えると、キールは小分けにした小麦粉をふるいにかけていた手をやめた。
「足りなくなってきたな…ちょっと、買いにいってくるよ。手伝ってくれてありがとう」
 キールがノブに手をかけると、ノックの音がした。返事も聞かずに入ってきたのはリッドで、その手には小麦粉が乗っている。
「ん」
 とだけ言ってキールに渡すと、リッドは去っていった。
「…? 何か悪いものでも食べたのか?」
「キール、いくらなんでもリッドに悪いよ。きっと、キールのクッキーが上手くいくようにって、かってきてくれたんだよ! ね!」
 ファラはキールのふるった小麦粉を使うことにして、それを手にとった。そして、その小麦粉をつかんで…
「あああああああ!!!!」
 ファラは思わず、その小麦粉を投げ捨てた!
 驚いたキールが、ふりかえる。
「ファラ、もうすこし静かに…」
「キール! 私ちょっと用事思い出した! またね!」
「ファ、ファラ…?」
 ファラはキールがつかんでいる小麦粉に一瞥をくれると、風のように去っていった。




「もう、いったいなにやってるのよ!」
 午後、怒声とともにリッドを探しまわる姿があった。が、これもキールの知らぬところの話である。








|| INDEX || NEXT ||