WDの赤い月(後)
数時間後、もう夜も近く。ファラに手伝ってもらったクッキーがきつね色に焼けているのをみて、キールの顔がほころんでいる姿があった。
一応として、一つつまんでみたが、セレスティア料理に嫌悪を抱くインフェリア人の身としては、感想も言えはしない。これがセレスティアの味だと思い込むしか出来なかった。
「リッド、メルディはどこだ!」
激しい剣幕を帯びて居間に行くと、そこには誰もいなかった。家の気配をたどってみても、だれもいそうにはない。それでもガレノスの研究室をはじめ、トイレまで覗いてみたが、やはり誰一人としていなかった。
キールは外にでて、辺りを見回してみた。ルイシカは廃墟の村だったが、すこしずつ人が集まり復興の兆しが高まっている。夕焼けに染まった家並みから、どこかの家庭の甘い匂いがする。
「まさか、メルディがもう連れ去られたなんて…いいや、みんないないじゃないか。それに、あんな子供だましの伝承が、実際に起こるだなんて…」
キールはメルディが何をしているのか思い出そうとしてみた。けれどもここ最近はずっと研究に明け暮れ、顔を見合わせてはいなかった。その間何をしていたのかもどこにいたのかさえ、彼は知らなかった。
家並みを虚ろに歩きはじめ、キールはメルディの家があるアイメンのことをふと思い出した。アイメンにいってみよう。そこなら、きっといるはずだ。
駅へとつづく街道を歩きながら、ふと、風が彼を導いているような気がした。
おかしなもので、世界がきっちりと二つに分かれたあの時から、晶霊たちは二つの星を行き交うことができるようになり、今ではこの辺りも植物が芽を吹かすようになっているのだ。
そんな街道の脇にある小さな花も風に揺れている。クレーメルケイジ! キールは、シルフがいまメルディのほうのクレーメルケイジに入っていることを思い出した。
アイメンの駅へとたどり着いたキールは、風に誘われるかのように岬の砦へと向かっていく。
到着した事にはすっかり夜がやってきていた。
あのころ、インフェリアから初めてセレスティアにたどり着いたのが、ここだったが、流石にここも人の気配がない。どうしてくれよう。 今日中に渡さなければいけないクッキーはいまだ彼のもとにあるのだ。
その日は満月だった。星が郡を放たれた闇の中にぽっかりと浮かんだ赤い月。どこにも不吉の影は無く。雲が一片もない星空はまるでインフェリアのようでもあった。
「勘違いだったか」
がっくりとうなだれてしまったが、どうしようもなかった。
あんな子供だましみたいに、メルディが月にさらわれる。そんなことは決してないだろう。キールはそう自分に言い聞かせる。だが声がする。
――もし本当にメルディがいなくなってしまったらどうする?――
自分は答えを知っている。だが、知らない。
そうしたら自分は、自分は―生きていく事が出来るのだろうか―否、いや可
彼自身の中にいつのまにか芽生えていた感情は、大きく成長しもてあますほどになっていた。わからない。それを何と呼んでいいのかわからない――無理に気持ちをおさえこむ。こんな気持ちは、伝えることは無い。
キールは月を見上げた。心の中の自問に己自身を縛る鎖を断ち切られてしまいそうだった。
赤い月。赤い月、赤い月…?
自身の目をキールはこすってみた。まちがいない。
「赤い月が、落ちてくる…!」
だんだんと大きくなってきたそれは、キールに向かってくる。
「わあ!」
まばゆい光が、辺りに立ち込めた。
「何かあったのかしら」
ファラが、不安そうな声を出す。アイメンにてメルディと待ち合わせをしていたのだが、当の時間を過ぎても本人が現れないのだ。
井戸裏から、ガレノスがひょこっと顔を出す。
「インフェリアで道に迷ったのかのう」
「そうだといいんだけれど」
「家にもいなかったぞ」
メルディの家に立ち寄ってきたリッドが答える。
そのとき、アイメンの光を消し去るほど強い光が、空を覆い尽くした。
一面白い靄の中だ――ゆく当てもなく彷徨い歩く――ここは、どこだ?
赤い月に遭遇して、一度目を開ければ、ここにいた。
『よく来たぞ』
光に満ち溢れた世界から、言葉が聞こえる。
「誰だ?」
そう答えた自分の声も、何処か遠くから聞こえてきたように感じられた。
『名乗る名などないものだ』
威厳に満ちたような声をかもし出していたが、女性的な響きがある声だった。聴いたことがあるような。
霧のようなものがいっそう立ち込める――脳に響く――声――
『そなたが望むものは、ここにある。それゆえわたしは、そなたをここに呼んだ』
「望むもの? ここは次元が違うところだということはわかる。だが、僕が何を望んでいるというんだ?」
…そう答えながらも、一つの答えが浮かんでいる。いや違う。
『自分が望むものを知らぬともうすのか? あまりにも愚かしいことよ。人と呼ばれる愚かしい子供』
この自分の目の前にいるものは、敬意を払うべき、人とは違うものだということをキールは肌で感じ取っていた。そうとは言えどこう何度も、自分が馬鹿馬鹿と言われていると、いい気はしない。そんな気持ちを汲むかのように、得体の知れない声がさらにつづける。
『本に愚かしきことよ。己の分もわきまえず。いまいましい』
周囲に立ち込めた霧が、水滴のような形を示した。大きくなり、キールの顔の前ではじける。いままで霧独特の湿気さえ感じていなかったが、頭から爪の先までびしょぬれになってしまった。
「僕がいったい何を…!?」
『自分の罪さえ気付かぬとはの。それでも、我らとともにあるものかと思うと、不愉快なものがあるぞ』
「僕とともにあるもの?」
『おまえの、大切なものとはなんだ』
逆にたずねられて、頭の中で考える。まず最初に浮かんだものがあった。頭の隅に追いやる。他の事を考えた。次に控えている研究、インフェリアとセレスティアを横断する新しい舟の設計―とめどないことが、流れては消えた。
『それが、おぬしの真に求めることか?』
どこかで微かな笑い声。複数の――そして、色や光、音などの洪水があふれだした。花火のような。桜のような。あまりの光景に、目を覆う。色とりどりの光が凝縮し、闇が輪郭のうちに光を内包する。
ふんわかとした、あたたかい風。
瑞々しい空気。
ポワとした、熱い熱と一瞬の電気の走りが、その形を仕上げる。
まるで霧の空間の中に咲いた花。
宙空に、ほわほわと細い肢体が浮かんでいる。
「メルディ!」
彼女はまるで、この空間に守られるように――淡い光を発している。危害を加えられていたようには見えなかった。
それでも気がつくと彼はその細くしなやかな肢体を抱きしめていた。呼吸を確かめ、その存在を確かなものにする。――壊れそうなもろい、破片を扱うかのように――
『それはどうなのだ?』
それはたしかに、キールが頭に思い浮かべたものだった――違う、とは言えるはずもない。
『どうした。違うというのならば、そなたに無用のものと見て、持って帰るぞ。それでもいいのか。おまえは二度とそれに会えなくなるだろう』
「なっ!」
キールの頭の中に、月の物語が思い浮かぶ。ガレノスが言ったこと――そう。月の化身はなんであったか。ネレイド。それ自身ではなかったのか。
「おまえは、ネレイド…! 生きていたのか? いや、そんなはずは…」
メルディを背中にかばい、あたりをうかがう。返事がない。
キールは息を詰めたが、はっとする。そんなはずはない。万が一その存在がネレイドに属するものだとしたら、いったい何のためにメルディを捕獲して彼に渡そうとするのか。つじつまが合わないではないか。
「すまない。僕が間違っていた」
何故だかそう言わなければ、返事は二度と返ってこないような気がした。
「そして確かに――メルディは、僕にとってなによりも大事なものだ」
自分の内にあった気持ちを告白したのは初めてのことだった。認めなければどうしようもない。その気持ちは――先ほどつくられたクッキーの中に、詰まっているのだから。
空間そのものが揺れる。形も色も、何もかもがはっきりとしない、そんな存在が、彼の前に姿をあらわした。
『ほんに愚かしきこと。己を識らず、我の存在を二度もおとしめた。なんとも許しがたいが。今日という日に免じて、おまえが誓いを立てるのなら許してやろう』
「誓い?」
もやもやとしたものは、彼の後ろにあるものを指さした。
『それに、己の誠の心を伝え、これからともに歩く事を誓え』
「なんだって?」
『出来ないと申すのか? それならば。我がもらいうける』
キールの背中に守られていたか弱き存在が、再び空中に上がる。
そのときふと、リッドの言葉がよみがえった。
(どうすればいいのかわかるだろう。簡単なことなんだ)
簡単なこと。そうそれは。
「まて、わかった。誓う。誓うよ!」
まどろみ。なんて心地のよいものなのだろう。なんとなくつかれた。昨夜からのクッキー作りに加え、赤い月と称する存在に翻弄されて。
だが不思議と、胸をくすぐるような心地よい感覚。まるで、解けなかった問題が解けたときのような。
だからもう少しだけ、眠っていよう。
おちおち彼が眠っていられなくなったのは、そう決心した後だっただろうか。
何者かが、ぺちぺちとその頬をたたいている。
「――もうすこしだけ…」
ごろん、と寝返りを打つ。やわらかいと思ったのが、硬かったのでしかめつらをしたが、そんなことは気にしなかった。のに。
「キ〜ルゥ。風邪ひくよ〜おきて〜」
…その声は、甘く響いてきた。眠りを覚ますような。不思議な浮遊感覚。暖かい日だまりが差した。
うっすらと目を開ける。そしてはっとする。
「メルディ!?」
「あ、おきたか!」
目を開けて数センチのところに、メルディの顔があったのだ。キールは真っ赤になってしまった。
「こんなところで、何してるか。天体観測きたか?」
「そういうおまえこそ、どこに行っていたんだ? 探したんだぞ」
「メルディは、ガレノスがおつかいでインフェリア行ってた」
「黙って行くんじゃない。心配するだろう」
「心配? キール、メルディがこと心配したか? ほんとか!?」
メルディが、食いかかるようにキールに引っ付いてきた。
「当たり前だろう!」
「ばいば! うれしいな〜キールがメルディがこと心配したよ!」
今度は胸元に飛び込んできたクイッキーにひっついている。それをみて、キールは一安心した。赤い月のことを思い出したからだ。
それだけではなかった。メルディが笑う。それだけで幸せになる。認めてしまえば、心地よくくすぐられる気持ちになっていた。何を迷っていたのか。
「今な、メルディが光の橋を渡ってきたら、キールがねんねしてたから、メルディ、いったい何がおこーたのかって、ビックリ仰天よ!」
「そうか。インフェリアにいっていたんだものな。光の橋を使って――」
そのとき、ふとキールは思いだした。
大晶霊!
あの赤い月の中で彼が会ったのは…大晶霊たちが一堂に会した姿だったのだ、と。キールは怒りに燃えた頭で考える。
(リッド〜)
いや、この場合ガレノスかもしれない。
ということは、あの赤い月の話も――…
すっかり頭を抱え込んだキールを見て、メルディが心配そうに再び顔を覗き込んできた。
「キール? 頭、いたいか?」
どきん。再び鼓動が鳴るのだ。
キールは多少の怒りが沸きあがっていたが、その顔で、しぼんでしまう。その威力は絶大なものだ。
しかたない、これに免じて許してやろう。
やる事は、簡単なのだから。
味気ないクッキーに、こめられた想いを――伝える。それだけのこと。
「メルディ――」
キールは近づいていたそのふわふわした髪を引き寄せた。バランスをくずしたメルディが倒れこむようにしてキールの腕の中に入りこむ。包みが、その胸の中から取り出された。
「キール?」
不思議そうに覗き込んできた顔に、優しく呟く。
「すきだ」
岬の砦の屋上で遠目から見たら抱き合っているだろう二人を、リッドとファラは海岸沿いからみつめていた。岬まできたら二人が話し込んでいたので、とって返してきたところだった。
アイメンの光を押さえ込むほどの強い光は光の橋のものだということがすぐに知れたからだ。
ただ、キールがそこにいるとは二人とも思いもよらなかった。
「なんだか、うまくいったみたいだね」
「あーあ、まーったく世話のやけるやつらだぜ〜」
「ま〜たそんなこといって」
ぶつくさ文句をたれながら、幼なじみは再びアイメンの町へと背を向けていた。
そんなこと言っても、無駄なんだからね。
本当の気持ちは、その背中に現れていること。ファラはよく知っていた。
「あれ? ガレノスは?」
「年老いた体にこたえるとかいって、一足早くルイシカに戻ったみてぇだ」
「ふ〜ん」
ファラがリッドに並んだ。もうすっかり暗くなった夜道なので、アイメンの光が輝いて見えた。
「なんかさ、綺麗だね。」
「…」
「夜の海が、こんなに静かなんて、あの頃は全くわからなかったのに…」
しばしの時間が流れる。リッドが切り出したのは、アイメン近くなってからだった。
「ファラ。これやるよ」
「え?」
手渡されたのは、包みだ。
「これ…!」
「味の保障はしないけどな」
「リッド…!」
あふれんばかりの笑顔があらわれる。その両手は、自然とリッドの片腕につかまった。
「ねぇリッド」
「ん?」
「キール、あの小麦粉が爆薬粉にすりかえられていたの、本当に気づいてなかったのかなぁ?」
--END.
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紫雲英の戯言。
「ホワイトデーの赤い月」でした。
WDとはホワイトデー。で、いいんですよね?
えへへへへへ(怖)。
キルメルをくっつけるために、リドファラやガレノスどころか大晶霊まで出張るところがたまりませんなあ。
そしてなんとも苦しい(笑)嘘に結局ひっかかるキールもまた。恋は盲目なのね〜。
しかしリッド。そんなにまでして(小麦粉すり替えてまで)時間稼ぎしたかったのか。そうか…(笑)
ありがとうございましたー!
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