アイメンな街の人々A〜学士の憂鬱と女性司書の館内日誌〜
「たくっ、メルディのやつ。あんなに怒らなくてもいいじゃないか。後ちょっとのつもりだったのに」
静寂に包まれた図書館の中、本を開いてぶつぶつ呟いているのは、ダークブルーの髪をした青年――キールだ。
しかしその目は文を追うものの、内容はまったく頭の中に入ってこない。脳裏に浮かぶのは一人の少女のことばかりだ。
「キールの研究バカ! メルディの事なんてどうでもよいな!」
そういったときの泣きそうな顔がちらつく。
「あーもう!」
キールは本を勢いよく閉じる。同時にぱんっ! と空気のはじけた音が静まりかえった図書館内に響いた。だが、今周りにいるのは司書だけだ。その司書もちらりと視線を向けただけで何も言わない。先程の遣り取りも見ていただろうに、いつもならすぐさま、からかい混じりで寄ってくるのに今日に限って何も言わない。それがまたキールの気持ちを波立たせた。
いらいらとしながら、本棚に本を戻す。その時、ふとした本の背表紙が目に入った。赤い革張りのそれに無意識に手を伸ばしている。
ぱらっと音を立てて開く。懐かしさに気づき青紫の目を細めた。それはアイメンにやってきた初めての夜、開いた本の一冊だった。
メルディが読み上げた本だった。
「これはなー、氷晶霊と地晶霊の――……」
読み進めるたびに耳にメルディの声が甦る。自分がセレスティアの事に興味を示したことがよほど嬉しかったのだろう。はしゃいだ様子で自分の知っている限りのことを伝えようと身振り手振りで話していた。旅の疲れを押し隠し、笑顔で答えてくれた。最後のほうは時折船を漕ぎながら、それでも一生懸命で。
「メルディ……」
其処ここを見れば、そんな本ばかりだ。メルニクス語が不慣れな自分にいつも手を貸してくれたのは、ほかでもないメルディだ。
あの時。
「キールの研究バカ! メルディの事なんてどうでもよいな!」
そういったメルディをキールが見返すと、途端に泣きそうになっていった。あの時自分はどんな表情をしていたのだろう。メルディの言葉と顔に気を取られよく覚えていない。分かっているのは――。
「ばかだな。あいつは自分で言ったことに傷ついてどうするんだ?」
キールにとって研究は呼吸をすることと同じくらい自然なものだ。メルディも同じだ。もう彼女なしの生活なんて考えられないし、考えたくもない。どちらも捨てることの出来ない大事な物なのだ。比べることさえばかばかしい。メルディもそれは分かっているのだろう。それでも時々言葉を欲しがる。何よりも自分を好いているという言葉。その気持ちはキールとて分かっている。いや、それが自然で当たり前のことなのだ。だが、どうにも羞恥心や照れ臭さが先だってメルディに伝えられることは少ない。
「本当に馬鹿なのは僕か。いつも肝心なことを忘れてしまう」
「本当にねぇ」
突然背後から聞こえた声にキールはぎくりとする。
「あんなに可愛い奥さん泣かせてしばらく出入り禁止にしようかしら?」
「な!? そんなって、って言うか、奥さんって……」
キール少々混乱しながらその反論を言い終える前に自分の言葉に何やら、かぁと顔を赤くした。
「今更なに照れてんのよ」
呆れ半分からかい半分と言ったところだろうか。後ろに立っていたのは先程までカウンターに座っていた司書だ。彼女は微かな微笑を浮かべてキールを見返している。
「う、うるさい! 僕らまだそんなんじゃ」
「ないって?」
にっこりと笑顔で聞き返されキールはぐっと言葉を詰まらせた。「ない」そう言おうと思ったが、他人から言われたその言葉を否定するのは躊躇われた。今、彼女への思いを再確認したところでは尚更だ。
「大事なことが分かったんならさっさと行って来なさいよ。それともほんとに出入り禁止にして欲しい?」
「……まさか」
悪戯っぽく微笑む司書にキールは敵わない思いで持っていた本を微かな微笑と共に渡し図書館を後にした。
「本当っ!素直じゃないって言うか、素直すぎると言うか。面白いわねぇ、あの二人。ほんとに飽きないわ」
「お前ね……。いい加減からかうなよ」
司書は山ほど本を抱えている自分の連れ合いに持っている本を抱える本のその上に更にのっけてやりながら悪戯っぽく片目をつぶってみせる。
「だって心配だし」
「楽しいの間違いじゃないのか?」
「そうとも言うわねー!」
「はぁ、女ッてのは……」
「さぁってと! 今日の日付は――……」
楽しげに机に向かった司書に彼は再び深いため息をついて、本を抱えて歩き出した。
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