心の境界線はどこでしょう。
 どこからどこまでが自分のためで、どこからどこまでが相手のためのものなのか。
 そも領域など、あるものなのかどうかもわからないのだけれど。




廃墟の夜明け(前)





 はじめに目覚めたときよりは幾分穏やかな気持ちで、メルディはまぶたを開いた。
 まだはっきりしない頭を無理やりに起こして隣の寝台を見やった彼女は、次の瞬間声を上げそうになった。慌てて口を押さえる。
 落ち着け、落ち着け。
 さっき見たときは確かにいたんだから。
 あれは見間違いでもなんでもなかった。あまりに強い願いが見せた幻でもなかった。
 だって、自分は彼に触れたのだ。
 実態のある幻など、あってはたまらない。
 胸に手を当ててしばらく深呼吸して、メルディはちいさな寝息に気づいて枕元を見下ろした。七、八歳くらいの少年が、青い毛玉に顔をうずめてあどけない寝顔を覗かせている。その背にはさっきまで隣の寝台で寝ていた人物が使っていたはずの毛布がかけられていた。
 一人と一匹を起こさないよう、細心の注意を払いながら起きあがり、寝台脇に行儀良くそろえられている靴に足を入れる。そろそろと廊下に出ると、途端に吹きさらしの空間が目の前に広がった。
 どうやら先ほど寝かされていた部屋がこの街で一番ましな建物だったのだろう。天井は見事に崩れ落ちて、真っ暗で星も見えない空が頭上を支配している。
 深遠の、闇。
 唐突にあのときのことを思い出して、メルディはぶるりと身を震わせた。
 バリルは十年前に死んでいた。シゼルは闇に引きずり込まれてしまった。油断すると涙が零れ落ちそうで、必死に瞬きを繰り返す。
 動くもののない荒涼とした風景からは命の気配が感じられなくて。
 キール……キールはどこ?
 無意識にあたりを見まわしてから、はっと考える。
 セイファートリングは、壊れた。
 セレスティアが無事だということは、インフェリアもおそらく無事だということで、このことに関しては不満はない。
 だが。
『失敗すれば消滅する。うまくいっても……ふたつの世界は、空間的に無関係になるだろうな』
 あのときのキールの言葉がよみがえる。
 無関係。
 もうインフェリアには行けないということ?
 キールは最後の最後までメルディを抱きしめて離そうとはしなかった。闇に捕らえられそうになる自分を支える、ただそれだけのために……そのせいで、彼は故郷へ帰るすべを失ったのか?
 それなのに自分は、そばにいたいという勝手な気持ちだけを大切にして、キールがセレスティアのほうに落ちてきたということに安堵して、自分の気持ちしか見えてなくて……!
 ファラが言っていた。キールの両親は二人とも健在なのだと。リッドやファラや、メルディが失ってしまったものを、彼にも切り捨てさせる選択を強いたのは、……自分?
「……や……」
 寒さではなく、安堵と罪悪というふたつの感情にはさまれて、メルディはがたがたと震え出した。
 足から力が抜ける。けれど座り込むことはできない。
 どんな顔をして会えばいい?
 会いたい。
 会えるの? 自分のことしか考えてなかったくせに。
 そばにいたい。
 そばにいて、何ができるの? 今までやってもらうばっかりで、何かしてあげられたことがあった?
 メルディはまろびながら瓦礫の中を駆け出した。
 どうすればいいのかなんて、わからない。
 いっそ消えてしまいたい。





 空いっぱいに、薄く雲が広がっている。セレスティアの夜は大抵曇り空だ。それでもたまに夜明け直前に晴れることがあって、そういう日は『幸福の雪』が見られる。
 旅をしていた間も、何回か見たことがあったっけ……
 そのたびにメルディは大喜びしてみんなを起こしてまわっていた。毎日一緒にいて、同じ宿に泊まって、野宿をくりかえしていたのだからいくら珍しいとはいえ確率的に絶対に見られないということはないのだ。それでもシゼルのことがあってからはほとんど笑顔を見せることがなくなった彼女が、本当に嬉しそうに笑うのを見られる数少ない機会だったから……だから、雲の少ない夜は夜明けが待ち遠しかった。
 今も雲は広がっているが、このぶんなら明日は晴れるかもしれない。母を失ったメルディが心から笑えるようになるまではきっと時間がかかるだろうけれど、傷は癒すもの。いつまでも血を流したままでいいはずがない。
 キールは頭を振って苦笑した。
 気づけば自分はメルディのことばかり考えている。どうすれば笑ってくれるのか、どうすれば幸せだと思ってくれるのか。彼女の笑顔こそが、自分の幸せだと思うから。
 よく考えたら自分のことばっかりだな。
 休学処分を受けたときは友人たちにずいぶん心配をかけてしまった。王国から指名手配されたときは、きっと兵は彼の自宅にも捜索の手をのばしたに違いない。両親はどれだけ驚いたことだろう。グランドフォールの真っ只中にいた時だって、心の中にあったのはメルディやファラやリッドのことばかりで、自分を想う人たちのことなんて、頭の隅にすらなかった。
 愛されているのに、愛することばかりに夢中で後ろを顧みなかった。
 あげく、故郷に帰れなくてもまあいいやなどと思う自分がここにいる。
 メルディがいればいい。
 勝手な想いだ。別に必要だと言われたことがあるわけでもないのに。
 ふいに、雲に一筋切れ目が入った。
 何気なく見上げた空。キールは目を見張って思わず声をあげた。
「あれは……」





 アイメンはまさに瓦礫の山と化していた。起き抜けにあたりを片付けていたサグラに手伝いを申し出たが、数日はゆっくり休めと言われてしまった。
 かつてのこの街の姿を知る人々が、ぽつぽつと集まってきているのだそうだ。彼らがまず修理した建物が、疲れきっていたキールとメルディに優先的にあてがわれたのだった。
 夜中だというのに明々と火をたいて数人の男たちが瓦礫を運んでいる。街の門だった――ここまで壊れてしまっては、どこがどれやらわかったものではないのだが――場所をまずは綺麗にしようということで、話がまとまったらしい。
「ああキール!」
 ゆっくり近づいていった彼に気づいて、サグラが大きく手を振った。
「なあ、本当に手伝わなくていいのか? 別にぼくは衰弱しているわけでもないんだが……」
 せわしなく動く男たちを眺めながら、キールは思案げにあごに手を当ててサグラを見やった。
 豪快に笑って首を振る。
「なあに、瓦礫くらいあっしらでなんとかするさね! そのうちキールには家の図面でも引いてもらおうかと思っちゃいるが、まずは土地をまっさらにせんことには」
「家の図面かあ……それはおもしろいかもな」
 そうだろう、そうだろうと彼は大きくうなずいた。
「それよりさっさとメルディのところに戻ってやってくれませんかね。ボンズがついてはいるが、あんたがいなきゃあの娘も不安に思うでしょうよ。なにせあの娘ときたら、起きて最初に何したと思う?」
「? 何したんだ?」
 サグラはにやりと笑った。
「がばって起きあがってきょろきょろしたかと思ったら、あっしらには目もくれずにあんたの手ぇ握りしめて、泣きながら眠っちまいましたよ。それからはゆすっても起きやしない」
「……」
 キールは真っ赤になって黙り込んだ。それで起きたときメルディに手を握られていたのか。
 サグラが彼の肩をばんばんたたく。
「ま、そういうことですから。大変なのはわかっちゃいるけども、とにかくひとつの山を越えたんだ、あんたらはね。しばらくはのんびりすればいい」
 叩かれた拍子にむせて、咳が出た。照れと混じってなかなかおさまりそうにもない。キールは動作だけでサグラに別れを告げると、逃げるようにその場を後にした。
 あんなことを言われた後でメルディに会えば、自分がどれだけ動揺してしまうのかはつぶさに想像できたが、それでも彼は急ぎ足で唯一しっかりした屋根のある建物に向かった。
 出てくる前にボンズの背にかけてやった毛布の端が変わらぬ位置に見える。よく眠っているようだ。知らず微笑んで、キールはゆっくり扉を閉めた。
「……メルディ?」
 顔がこわばる。
 見なれた淡紫の頭はそこにはなかった。
 起きたのか? どこへ行ったんだ!?
 ぱっと踵を返して外に出て、あたりを見まわす。少なくともここに来る途中では、会わなかった。サグラも何も言わなかった。
 ということは、門とは反対の方向に行った?

 少し走ると、明かりが見えた。瓦礫を運んでいた男たちの家族だろう、中年の女性を中心に、若い娘や幼い子供の姿もちらほら見える。三方に残った壁を柱に張られた布の下で焚き火を囲んで身を寄せ合っている。
「誰?」
 それほど力も感じられない誰何の声に、キールは自分の姿がはっきり見えるように光の中に移動した。
 起きていた何人かの女性たちがぽかんとこちらを見上げている。体格のいい男たちばかり見慣れている彼女たちにとって、背は高くても細身なキールは珍しい存在だったらしい。
「……あの」
 自然集中する視線にたじろぎながらも口を開く。
「女の子が来ませんでしたか? 薄い紫のふわふわした髪の毛で、細い……」
 しばらく彼女たちの間を無言の意思が飛び交うのがわかった。じりじりとはやる気持ちを押さえながら、立ったまま待つ。
 彼にとってはかなり長い、けれど実際は一瞬の後に、一番年嵩らしい女が向き直る。
「……誰も見ていないみたいよ。そもそもここにいる連中以外に若い子を見たのは、あなたが初めてだから」
「……そうですか」
 キールは肩を落として唇をかんだ。
「なに? 迷子? あたしが一緒に探してあげようか」
 奥のほうから若い娘の明るい声がした。彼の心中を慮ってか、そばの別の娘がよしなさいよ、と袖を引く。キールは面食らって目をしばたたかせたが、すぐに首を振って頭を下げた。
「外は、危険ですから。見てないならいいんです、お邪魔しました」
 キールが暗闇に溶けて消えてしまうと、娘は頬を膨らませた。
「あん、つまんないの」
「よしなさいってば」
 何対もの目に見つめられる。
「こんなときに迷子なんて、心配で仕方ないでしょうに。あの人が怒り出さなかっただけありがたいと思いなさいな。まったく、ちょっと綺麗な男だったからって」
 なによー、と言い返しかけて口をつぐむ。向けられる視線が険を帯びたからだ。さすがに不謹慎だと思ったのか、彼女は黙って下を向いた。
「街がこんなだから……平気で魔物がうろついてるのよね。あんなことがあった後で、みつかればいいけど……」
 誰かがぽつりとつぶやいた言葉は、晩秋の風に乗ってどこかへ流れていった。





 少し雲が薄れてきたような気がする。風が出てきたからだろうか。
 からからと小石の崩れ落ちる音がやけに大きく響く。ヒアデスによって破壊され、サグラやほかの人々によって再建されかけていた町並みは、オルバース爆動で再び瓦礫の山となってしまった。紫色に美しく光っていた街灯は柱しか残っておらず、華やかに彩られていた建物も今は色あせて風に吹きさらされている。
 特に目的もなく歩きつづけて、メルディは見覚えのある階段の前で足を止めた。
 図書館。
 蔵書保存のために普通の住居よりも遥かに頑丈に作られていた建物は、ヒアデスとの死闘にもグランドフォールの生み出した衝撃にも耐えて残った。それでも本が散乱し、戦いのとき流れた血や晶霊術の爪あとをどうにかしてまで寝床に使おうと思う人間はいなかったらしい。人の気配はまったくしない。
 思い出すのは、ようやくアイメンに戻った夜のこと。目を輝かせて子供のようにはしゃぐキールにつきあって、時間も忘れて生まれて初めて徹夜した。
 多分その頃からだったように思う。距離の縮まる速度が速くなり始めたのは。
 自分がうっすらと微笑みを浮かべているのに気づいて、彼女は頭を振った。
 透明なしずくが頬をすべりおちる。
 こんなときまで。
 思い浮かべるのは彼との記憶ばかり。
 きらきら光る暖かい思い出ばかり。
 どうすればいい?
 どうすれば、この思いを断ち切れる?


 背後で砂利を踏みしめる複数の音がした。膨れあがるのは、おそらく殺気。
 ……いや、少し違うか。
 だって、彼らはお腹が空いているだけ。殺したいと思っているわけではないのだ。ただ、生きるために他の命を屠るだけ。
 振りかえる。
 予想通り、彼女は数匹の獣に囲まれていた。
 一人で、火もたかずにこんなところにいたら襲われるのは当たり前か……なぜだか気持ちは静かなまま。
 彼らは跳びかかる隙をうかがっている。

 命が消えたら、想いも消えるのだろうか?

 メルディは何の感慨も映さない瞳で、ぼんやりそんなことを考えた。








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