昼下がり。
 春特有のうららかな日和が心地よい日のこと。
 昼食をとる人の波も一段落する頃。
 表からはにぎやかな喧騒が聞こえる。




春、昼下がり(前)





「じゃあ行ってくる」
 学問の街ミンツの宿の食堂で昼食を食べ終え、キールは無表情に立ち上がった。
「おう、行ってこーい」
 気楽な調子でひらひら手を振るリッドに軽く一瞥をくれ、肩をすくめて戸口に向かう。
「メルディも行く」
 とてとてと後をついてきたメルディに向き直り、キールは彼女の肩に手を置いて息をついて首を振った。
「……メルディ。遊びに行くんじゃないんだ。頼むから、リッドとファラと一緒にここで待っててくれよ」
「やだ! メルディも行くー!」
 キールは救いを求めるような目でリッドの向かいに座っているファラを見たが、彼女はにこにこして黙っているだけだ。助けてくれるつもりはないらしい。
 別にメルディと並んで歩くこと自体は嫌ではない。むしろ彼女がクィッキーと戯れつつ弾むような足取りで先を行くのを眺めながら、やわらかな日差しの中をのんびり散歩するのはここ最近見つけた楽しみだ。
 しかし。
 セレスティアからバンエルティアで戻ってきたキールは、幼なじみたちの勧めもあり、まず最初に両親の許へ顔を見せに行った。手塩にかけて育てた一人息子が、休学処分だけならまだしも、重罪人として指名手配をかけられて行方をくらませたのだ。セレスティアにいるとわかり、指名手配も解除されてほっと胸をなでおろしたかと思えば、今度は世界の崩壊などというおおごとに関わり生死不明。ほんの一年ほどの間にすっかり老け込みやつれてしまった両親の姿を見て、いつもつんとしている彼もさすがに素直に謝り、しばらくは一緒にいることにしたのだが。
 数日後、リッドがファラとメルディを伴ってミンツ近郊の彼の家を訪ねてきた。そろそろアレンデ王女からの頼まれごと―――インフェリア、セレスティア間における定期航路の確立とそれに伴う交流―――にとりかからないかと誘いに来たのだが、どうしたことか彼の家に泊まったその一晩で、母親とメルディが意気投合してしまったのだ。
 おかげで翌日の朝食時(実は今朝である)、キールはろくに食事もできなかった。
 なにせ、母は母である。彼の生まれたときのことから、それこそ大学に入るまでの顛末を全て知り尽くしている。楽しそうにキールの子供の頃の話をせがむメルディに、これまた楽しそうに請われるまま話して聞かせるものだから、いらぬ恥をかかされるのではないかと気が気ではなかった。しかも、その場には父親と共に幼なじみ二人もいた。面白がってさらに話を詳しく補足しようとするリッドと母には、それらしい話が出るたびに大声をあげて遮るという、なんとも体力を使う手段で対抗するしかなかった。
 そんなこんなで、今から大学を訪ねるつもりでいる彼は、とりあえずメルディには別の場所にいて欲しかったのだが。
「いいじゃないキール、連れてってあげなよ」
 頬杖をついてにこにこしながらファラが言う。
「そうだぜ。だいたいもう言葉は通じるんだし、大学に連れてっても問題ないだろ」
 まだ食べたりないのかファラの分のデザートのプリンをつつきながらリッドが笑う。
「メルディも行くー!」
 子供のように握りこぶしをつくってメルディが主張する。
「クキュルルルル!」
 クィッキーがぐるぐるキールの周りを駆け回る。
 ……味方ゼロ。やはり一筋縄ではいかない。
 肩を落として出て行くキールと、上機嫌で彼の後を追うメルディ―――クィッキーは、肩だ―――を見送って、ファラが微笑んだ。
「メルディ、鳥の雛みたい」
「あいつらいつになったら進展するのかね」
 二人は自分たちのことは棚に上げ、顔を突き合わせてひそひそ声を交わすのだった。







 大学へは、何事もなくたどりついた。見慣れたはずの廊下は、久しぶりなせいかひどく懐かしく感じられる。光晶霊学部の研究室の扉を開けるときは少し緊張してしまったが、中にいたのは男子学生が一人きりだった。もちろん顔見知りである。
「キッキッキ、キール!」
「サンク、カーライル学部長を知らないか?」
 自分の顔を指差して口をパクパクさせているサンクに、キールは何事もないような口調で聞いた。
「いっいっい、今までどこにいたんだ?」
「話せば長くなる。カーライル学部長を知らないか?」
 キールが大学に来たのは、カーライル学部長に会うためだった。アレンデに頼まれたインフェリアとセレスティアの定期航路確立の実現には、とにかく人手が要る。バンエルティアの研究だけではない。もっとも安全なルートを調べなくてはならないし、長い目で見て航海士も育てなくてはならない。それぞれの専門分野を総合させる必要があり、そのための人材を確保するのにミンツ大学は格好の場所なのだが、最も権威があると言われる光晶霊学部の学部長がうんと言わなければ学生たちの協力を得ることもままならない。
 しかし、彼は他学部の学部長、元同僚のマゼット博士、はては王立天文台の台長ゾシモスの説得にも応じなかった。意地を張りすぎて引っ込みがつかなくなってしまったらしいが、そこで最後の接点として学部長の助手を務めていたキールにお鉢が回ってきたというわけだ。
 キールは、学部長が彼の説得に応じるわけはないと思った。何せ、あの学部長は意地っ張りなのである。一番最初に彼と意地の張り合いをはじめ、休学処分までくらったのは他ならぬキール自身なのだから。だが、彼の協力を得られるか否かで、研究速度は大幅に違ってくるだろう。そんなわけでしぶしぶ引き受け、やってきた次第である。さてどうなることか。
「キール、中、入らないのか?」
 後ろからぴょこりと頭を出してメルディが問う。サンクは彼女の顔に見覚えがあることを思い出し、軽い気持ちでキールをからかった。
「なんだその子、どこの誰かと思ったらキールの彼女だったのか」

 がしゃがしゃん!

 研究室に入ろうと足を踏み出しかけていたキールは、入り口近くに置いてあった椅子やら模造紙やらを巻き込んで派手にすっ転んだ。
「キール! 大丈夫か、痛いか?」
 あまりと言えばあまりな音に、メルディが悲鳴をあげて彼のそばにしゃがみこむ。
「……い、痛みはそれほどでもないが……こけたのはずいぶん久しぶりだ……」
 痛みよりも何よりも、そちらのほうがショックだったりする。キールの言葉に、メルディはそういえばそうだな、とうなずいてからサンクを見上げた。
「ところで、『カノジョ』って何か?」

 がしょがしょん!

 起き上がりかけていたキールがまたもや何かにつまずいてひっくり返る。
 あーあ、と苦笑してサンクはメルディに向き直った。
「彼女っていうのはね」
「『彼女』とは!」
 いつの間にやら起き上がったキールが、彼を遮って大声を上げた。
「通常話し手がその場にいない女性のことを名前を使わずに指し示す言葉で、たいていは話し手聞き手共に、その『彼女』が誰のことを指すのか承知している場合に用いられることが多い。他にもいろいろな使い方があるが、もっぱら話し言葉よりも書き言葉で使われることが多い! わかったか、メルディ?」
「はいな! ばっちり!」
 一気にまくし立てたキールと元気よく返事をしたメルディにサンクは一瞬あっけにとられてぽかんとしたが、次にはなんともいえない表情をした。
「おまえさあ……」
「なんだ? ぼくは何か間違ったことを言ったか?」
 間違いも何も、と言おうとして口をつぐむ。目が据わっている。余計なことは言わないに越したことはない。
 キールが口を開きかけたとき、廊下の端からまた別の声がした。
「なあに? なんの騒ぎ?」
 彼らの会話を聞きつけたのか、のほほんとした雰囲気の女性徒がひとり、研究室に入って来た。同じ光晶霊学研究室に属する学生の一人。キールやサンクにとっては馴染み深い顔だ。
「……アニスか」
 開きかけた口からそのまま女生徒の名を呼ぶ。アニスはキールの姿を見て、わずかに表情を動かして驚きの感情をあらわした。
「キールじゃないの。どこ行ってたの、みんな心配してたのよ」
 表情こそ動いたものの、声の響きは相変わらずのほほんとしている。
「それが、こいつさあ……」
「ちょうどいい、今暇か?」
 余計なことを言われる前にと、サンクを押しのけキールが問う。
「良ければ少しの間こいつの話し相手になって欲しいんだが」
 言ってメルディの肩をつかんで前に押し出す。
「いいけど? なにかあるの?」
「カーライル学部長に会いに来たんだ。さすがにこいつをそこまで連れてくわけにはいかない」
「いいわよ」
 頭上で交わされた会話に、メルディは抗議の声をあげた。
「メルディも行く! 邪魔しないから、メルディも行く!」
「やめといたほうがいいと思うよ」
 サンクが苦笑してメルディを諭す。
「ほら、君も覚えてるだろ? 始めてここに来たとき、研究室に飛び込んできたおじさん。キールはあの人のとこに行くんだ」
「バイバ!」
 メルディは思わずクィッキーを力いっぱい抱きしめた。クィッキーが窮屈そうにじたばた暴れる。
「あの怖いおじさん!?」
「そういうことだから、ここで待ってろ。いいか、この部屋から動くんじゃないぞ」
「……はいな」
 しおらしくうなずいたメルディにキールはわずかに目を細めると、今度は様子をうかがうように自分のほうを見ていたサンクとアニスに向き直った。
「どうでもいいが、くれぐれも変なことだけは教えてくれるなよ」
「へんなことってなにかしら?」
「普通に話し相手になるだけだよなあ」
 やけに楽しそうな二人に不安を覚えないでもなかったが、かといって大学の中でメルディを一人にしておくのも気がひける。とりあえず軽く睨んで、釘だけはさしておく。
「……じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃーい」
「がんばれよー」
 お気楽な友人たちの声援を背に受けて、キールはカーライル学部長の研究室へと向かった。






「失礼します」
 ノックをして、扉をくぐる。窓に面した机に向かう後姿。過去幾度となく見てきた光景だ。
 あの頃と比べて、自分はずいぶん変わった。リッドにからかわれるまでもなくそれは自覚しているし、変わったことに対する後悔の気持ちなどもない。あれだけの体験をしておきながら、ほとんど変わらないファラやメルディのほうが彼にとっては驚きの対象だった。たとえそれが表面上のものでしかないとしても。
 学部長は変わっただろうか。それとも変わっていないのか。あの頃は説得できなかったけれど、変わった自分の話には耳を傾けてくれるのだろうか。
 キールは一度大きく深呼吸してから、まっすぐ前を見据えた。
「キール・ツァイベル、カーライル学部長にお願いがあってまいりました」








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