ときどき、思うことがある。
 求めるものは、同じなのかどうか。
 ときどき、考える。
 見つめる先の未来は、同じ形をしているだろうか。




求める未来(前)





「ヒマ〜だな〜」
 メルディは、誰にともなくつぶやいた。
 うらうらと穏やかな日差しが、窓の外の桜並木を照らしている。薄紅色の花弁がひらひら舞う様を好ましく思う人間は多いらしく、宿の部屋の中からも並木の下を楽しげに散歩する姿があちらこちらに見えた。
 学問の街ミンツ。大学のあるこの街には若者が多く、それゆえなのかなんなのか恋人同士らしい二人連れもまた多い。かすかに頬を染めて微笑みあいながら歩いていく彼らは幸せそうで、彼女のため息の回数を増加させた。
 戦いの中に身を置く必要がなくなってから、幾度星の海を往復したのだろう。
 インフェリアとセレスティアを行き来する必要性は実は、メルディにはない。ただこちらに来ればリッドやファラやアレンデなど懐かしい人々に会えるということと、セレスティアとは違うこの風景を見られるというのが表向きの理由。
 裏の理由は……キールの存在。
 もっとも、このことはリッドやファラも承知しているので「裏」というほどのものではないかもしれないが。当然のような顔でついていくメルディを、当然のような顔で連れて行くキール。お互いがお互いのそばにいることを当然のことと認識し、そのとおりに振舞う。
 なんら不満はない。
 ……はず、なのに。
 最近時々もやもやした気持ちが広がることがある。キールはずっと優しい。あんな性格だから、喧嘩することだってあるけれど、それでも大切に思われているかどうかくらいわかる程度には、一緒にいる。
 自分は彼が大切で、彼は自分を大切にしてくれる。どこに不満の種があるのかなどわからない。このもやもやした気持ちを形容するなら「物足りない」という表現が一番しっくりくるような気はするのだが、これ以上を望むのは、贅沢というものだろう。だいたい、これ以上の幸せがどんなものなのかなんて、メルディは知らない。
「ああ〜、やめやめ!」
 声に出して首を振り、メルディは弾みをつけて寝台から立ち上がった。
 階下の食堂にはリッドとファラがいる。メルディたちがインフェリアに訪れるたびに、なんやかやと都合をつけて会いにきてくれる、仲間たち。もちろん毎回というわけではないが、それでも嬉しい。久しぶりだというのに一人で部屋に閉じこもっているようでは、彼らの心遣いを無駄にするようなものではないか。ひまだと思うならおしゃべりでもすればいいのだ。久しぶりなんだし、ファラと服の話でもしよう。料理の話なら、リッドも加わってこられる。
 なんで今まで思いつかなかったんだろう。メルディは足取り軽く、階段を下りていった。




「あ、メルディ」
 食堂に下りていくと、ファラが彼女の方をむいて明るい声をあげた。
「ちょうど良かった、ねえキールにこれ届けてあげてきてくれる?」
 そう言って小さな包みを顔の高さまで持ち上げる。香ばしい香りが少し離れたところにいるメルディの鼻にも届いた。どうやら中身は食べ物らしい。
 そういえばもう昼時だ。リッドは早々と席について大口開けてパンにかぶりついている。彼は食べているときは本当に幸せそうな顔をする。メルディはおもわず吹きだしてから、にこにこしているファラに近づいて包みを受け取った。
「リッドぉ、メルディが分もちゃんと残しといてな〜?」
 テーブルの上に乗っている料理すべてを一人で食い尽くしてしまうのではないかと思うほど旺盛な食欲を見せるリッドにそう言うと、彼ではなくファラが代わりに答えた。
「大丈夫だよ。それ、メルディの分も入ってるから。キールと一緒に食べておいでよ。そうでもしなきゃキール、ずっと飲まず食わずでいそうなんだもん。研究もいいけど、倒れちゃったら何もできないのにねぇ」
「それにそのほうがキールも喜ぶだろ」
 リッドが食事を中断し、口を拭きつつにやにやしてメルディを見やる。不意打ちを食らって彼女はぽっと頬を染めてうつむいた。落とした視界にさっきまで床の皿に顔をうずめていたクィッキーがよってきて、肩に駆け登る。
「クッキュー♪」
 すっかり一緒に行くつもりらしい。上機嫌で歌うような鳴き声を出している。メルディは笑ってクィッキーの尻尾をなでた。
「ん〜、じゃあ行ってくるな」
「いってらっしゃーい」
 手を振りつつ駆け去ったメルディを見送って、ファラは振り返った。
「ファラ」
「なーに?」
「……シチューおかわりある?」
「……まだ食べるのぉ?」
 ファラは呆れて肩をすくめた。








 軽い傾斜になった道を、メルディは小走りに駆け上がった。門をくぐり、扉を開け、すでに顔見知りになっている受付嬢に軽く頭を下げる。走り去りざま「廊下を走っちゃダメですよー」との声が聞こえたが、笑顔で応酬した。怒っているというより心配しての言葉なのだろう、ちらりと見た彼女は笑っていた。そのままペースを緩めず廊下を抜け、ひとつの扉の前で立ち止まる。
「はい、どなた?」
 ノックの返事は知らない青年の声だった。あれっと首をかしげて待っていると、やっぱり知らない顔が扉からのぞいた。
「……君、誰?」
 ぽかんとたずねてくる彼に、メルディは手をじたばたさせて動揺の気持ちを表した。
「あー、うー、えっと、キールはどこか?」
「キール? やつなら図書館に行ったよ……君、キールの妹か何かかい?」
 思ってもみなかったことを言われて、彼女は面食らって目をぱちぱちさせた。
「違うよー。……似てるかな?」
「……いや」
 目の前の青年はじっとメルディを見つめてから、頭を掻いて苦笑した。
「よく見たら全然似てないな。気にしないで、別に深い意味はないから。キールなら図書館に行ったよ」
「ありがとな」
 なんとなく釈然としない気持ちを抱えたまま、それでもメルディは微笑んで礼を言った。今度は歩いて図書館への小道をたどる。クィッキーが気遣わしげに頬を舐めたが、何に気を使っているのかわからない。クィッキーはメルディの心の動きに敏感だから、自分が何か気を使われるような気持ちを抱えているのであろうことは理解できたが、なんなのかまではわからない。
 たいしたことじゃない。キールの顔を見れば忘れてしまえるだろう。
 そう思って早足で図書館の中を歩き回る。奥から話し声が聞こえた。間違うはずもない、キールの声だ。本棚を回り込むと、彼の暗青色の頭が見えた。呼びかけようとして、けれど同時に目に飛び込んできた赤毛の頭に、声は言葉にならず息の形で喉から滑り出た。
 赤毛の頭の主は、女性だった。不自然なほどキールに身体を寄せて、二人で同じ本を覗き込んでいる。それだけではない、彼女の頬がかすかに染まっているのを見てとって、メルディは激しい動揺を感じた。こんなの見たくない、はやく呼びかけてキールの意識をこちらに向けてしまいたいのに、舌が喉に絡まってうまく声が出ない。
「クィッキー!」
 メルディの様子を察したのか、クィッキーが一声高く鳴き声をあげた。二人が同時に振り返る。
「あれ、メルディ」
 キールが意外そうな声をあげて近寄ってきて、優しく微笑んだ。凍りついていた時が動き出す。メルディは思わず泣きそうになったが、必死で動揺を押し隠して持っていた包みを差し出した。
「おべんと。……ファラの、つくった」
「ん? ……そういやもう昼か」
 ここ数日、よほどうるさく言わなければ食事も忘れてしまうキールのために、ファラは宿の厨房を借りて毎日のように彼の好物ばかりを詰め込んだ弁当を作っている。メルディに届けさせれば食べないわけにはいかないだろうという、駄目押しの作戦つきで。
 今日は何かなー、と嬉しそうに包みを覗き込む彼の背後から、赤毛の女性が顔を出してにっこりした。大学の制服を着ている。研究室の仲間だろうか。
「あら、可愛い! キール、妹さん?」
 さっきと同じことを言われて、メルディは気づかれないように顔をしかめた。自分が実際の年よりも多少幼く見えることは自覚しているけれど、こうも立て続けでは気が滅入ってくる。
「あ? いや、そういうわけじゃないけど……」
 曖昧な物言いが驚くほどの鋭さでメルディの心臓に突き刺さった。

 そういうわけじゃないけど。

 なに?

 その後に続く言葉として一番想像しやすいものは。
 妹みたいなものだよ。

 ……聞きたくない。

「……おべんと、ちゃんと食べてな。じゃ、メルディ帰るな」
「あ、待てよ! 量が多いぞこれ、一緒に食べろって言われたんじゃないのか?」
 言い終わらないうちに淡紫の頭は見えなくなってしまった。ため息をつく。
「……ぼくひとりで全部食べろって? この量を? ……リッドじゃあるまいし」
「おいしそう。私も手伝っちゃおうか? ……で、あの子妹さんじゃないの?」
「あ? ああ。同居人、かな……?」
 妹ではないが、一緒に暮らしている。そう言おうとしたのだが、メルディに遮られてしまって最後まで言えなかった。
 すっとんきょうな叫びが耳を打つ。
「ええーっ!? なに、じゃあ奥さん!?」
「違……! なんでそうなるんだ! 同居だ同居、同棲じゃない!」
 顔を真っ赤にして言う言葉のどこに説得力があるか。
 ……もちろん、ない。
 彼の失敗はインフェリアとセレスティアの男女関係の習慣の違いを綺麗さっぱり忘れていたこと。
 インフェリア人の感覚はセレスティア人のそれほど開けっぴろげではない。
「とにかく! 別にいかがわしい関係とかそういうのじゃない! ……それに、妹ってのも間違っちゃいないかもしれないし」
 急速にしぼんだ気持ちが声をも小さくさせる。
 そう、兄と妹のようなものかもしれない。
 すくなくとも、メルディにとっては。
 自分が彼女に向けるものと求めるものは、妹に対してのものとは違う。それははっきり自覚している。成り行きで始まった共同生活の中で、否応なしに自覚せざるを得なかった。彼女が自分に向けるものが兄に対してのものなのかそれとも自分と同じ種類のものなのか。そんなことはわからない。急ぎすぎて失うのが怖くて、確かめようと思ったことはなかった。
「……まあ、どっちにしてもキールはあの子が好きなのね?」
 はっきり言われて頭に血が昇るが、素直にうなずく。彼女はどこかすっきりしたような表情で笑った。
「なら、あとでちゃんと誤解、解いとかないと。あの子勘違いしたかもよ? 私結構あなたに密着してたからね」
「……密着? してたか?」
「気づいてすらなかったの?」
 赤毛の娘はため息をついた。どうやらこの青年、自分が人に向ける気持ちはしっかり見えているにもかかわらず、自分に向けられる気持ちというものにはとことん疎いらしい。彼女自身のものも然り、あの砂糖菓子のような少女のものも然り。
「……あとで、じゃないわね。今すぐ行って来なさい」
「え、だってまだこれ」
「いいからいってきなさい!」
 明らかに納得しきれていないキールの背中を無理やり押して扉を閉めてから、彼女は天をあおいで肩をすくめて笑った。
「……失恋……って、いうのかしらこれ?」
 それでも、不思議と悲しいとは思わなかった。








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