遠くから聞こえたその旋律に。
体が無意識に反応していた。
どうして覚えていたのか、そんなことはわからない。
だって一回、たった一回だけ。
それなのに。
無意識にこころがその記憶を、切りとってしまっておいてくれたのかもしれない。
ただ抱える願いがそうしたのだ。
いつからか芽生えて、ずっと大事に温めてきた、願いが。
旋律の向こうに(前)
「キールぅ、リッドー!」
「もう遅いよ、二人とも!」
踊るような足取りで先を行き振り返り、元気いっぱいに両手を振る少女二人に、青年たちはそれぞれ頭を掻く、肩をすくめるといった反応を返してから歩調を速めた。
あわや世界が消滅するかという危機からとうに数ヶ月経過した。時が経ったとはいえ未だそこここに残る災厄の爪あと。にも関わらず、道行く人々の表情は明るい。
セレスティアは職人の町、ティンシア。オルバース爆動の被害が比較的少なく、その上にセレスティア一の技術力と職人の数を誇るこの街は、各地の復興の重要な拠点となっている。フォッグの人望とアイラの的確な指示により奔走するシルエシカのおかげで、ここで手に入らない物資はないとまで言われるほどだ。
キールとメルディも、インフェリアとの行き来の手段を探して何度もアイメンとティンシアを往復した。そうこうしているうちに、インフェリア側にいたリッドとファラが、チャットのバンエルティア号で星の海を越えてきた。
離れ離れになったお互いの安否どころか自分たちの生命さえ守れるのかもわからなかったあの一瞬は確かに過去のものとなり、今またこうして共にいる。
今ごろチャットはアイラを含めたシルエシカの技術者たちにバンエルティア号の構造についての質問攻めを受けている真っ最中だろう。やはりその場に残って話を聞いていたそうだったキールを、ファラの有無を言わせぬ笑顔とメルディの『上目遣いついでに瞳潤ませおねだり攻勢』によって口説き落とし、この場面に至る。
数ヶ月に再会できた喜びは本当のことだし、だからこそファラとメルディがいつも以上に興奮しているのももちろん理解できるのだが。
少しばかり、はしゃぎすぎではないのか。
フォッグへの顔見せも兼ねてティンシアへとやってきた彼らだったが、ファラの「お買い物に行こう!」のひとことにより、リッドとキールはつきそい――実質荷物持ちとして彼女たちの後ろを並んで歩いていた。
「おーお、元気だな二人とも」
楽しげにおしゃべりしながら歩いていく少女たち。いつもはメルディのそばにいるクィッキーが、なぜか今日に限ってキールの肩にいる。そのことに気づいて首を傾げたリッドに、キールは苦笑してあごで前を指し示した。
「メルディの、歩き方。見てみろ」
「……ん? んー、機嫌いいみたいだなぁ」
「そうじゃなくて」
かぶりを振ろうとして肩からずり落ちそうになったクィッキーが、慌てて彼の首に襟巻きのように尻尾を巻きつける。キールは別段苦しそうな顔はしない。クィッキーはちゃんと加減がわかっていてやっているのだろう。さも当然のようなその光景に、リッドは少しだけ離れていた間の時間を思った。
「そうじゃなくてさ。……あいつ、跳ねながら歩いてるだろ? 肩の上ぐらぐら揺れて、居心地悪いんだよ」
「ほーん」
確かに、自分がクィッキーなら同じ選択をするかもしれない。うなずいた幼なじみに薄く微笑んでみせてから――これも以前ならあり得なかった光景だ――キールはローブの裾を音をたててさばいた。
ティンシアの中央部、商店が建ち並び人通りも他の場所に比べて格段に多い区画。
衣食住もままならない街もあるというのに、そこはきらびやかに飾り立てられたショーケースで埋め尽くされていた。
「……なんつーかさ」
「ん?」
ぼそりとしたリッドのつぶやきは、隣にいたキールの耳にしか届かなかった。
「王都に行ったときも思ったけど、モノって、ある所にはあるもんなんだなあ。食いもんはともかくなんでどーでもいいもんまで並べてあるんだか」
ラシュアンで手に入る食いもん以外のもんっつったら、せいぜい鎌とか鍬とか、あとラシュアン染めくらいだったのになあ、と頭の後ろで手を組んで空を仰ぐ。
確かに、とキールもすぐそばに展示してある楽器らしきもの(演奏の仕方は不明)をものめずらしそうに眺めた。
食糧、衣服などは人間が生活する上で必要不可欠なものである。しかし、文化は人々に精神的、経済的余裕がなければ生まれないし、発展しない。今目の前にある楽器などは、いわゆる『余分なもの』の最たる代表だ。グランドフォールが人々に与えた恐怖が軽いものだなどと言うつもりはないが、もともとのセレスティアンの気質なのか、人々はただ生命をつなぐだけでなく日々を楽しむことも決して忘れてはいない。
たくましく生きている彼らを見ると、自分まで感化されてしまうような気がしてくる。
「まあ……セレスティアンはどうもお気楽思考らしいからな。それにティンシアはグランドフォールの影響をあまり受けなかったんだ。被害が特にひどかったのは山脈のように海抜の高い場所を除けば遠征の橋周辺の地域で、おそらくそれはインフェリアセレスティア間を繋ぐ役割をしていた機関に近かったがゆえのオルバース界面との関わりの強さが……」
例によって始まった薀蓄を半ばうんざりしながら聞き流していたリッドは、キールの声が途中で途切れたのに気づいて訝しげに彼のほうを向いた。
「キール?」
名前を呼んでも、反応しない。青い瞳はぼんやりしていて、見つめる方向にあるいろいろなもののうち、何を見ているのか推し量ることはできない。
「おいキール」
肩に触れると、キールはびくりとして勢いよく振り返った。
「あっ? ……あ、すまない。何か言ったか?」
「いや、別になんも言ってないけどよ」
「キールぅー!」
どうかしたのか、という質問はぴょんぴょん飛び跳ねながら叫ぶメルディの声に遮られた。今行く、と返して離れていくキールの背中を見送って、リッドは、首を傾げた。
(メルディ……を、見てたわけじゃないよな? 方向違うし。あいつがぼーっと眺めるようなもの……? なんだ?)
「ちょっと出かけてくる」
買い物を終え、宿に落ち着いた途端にそうきり出したキールに、残りの三人は不審げな目を向けた。
ちなみにファラとメルディはそれなりにいろんなものを買い求め、だから男二人はそれなりの量の荷物を持たされてそれなりの距離を歩いた。いつもなら真っ先に「疲れた」とソファに座り込むはずの彼が、休憩もとらずに「出かける」?
おかしいと思うのも、無理からぬこと。メルディはちょっと考えるような素振りを見せてからちょこちょこキールの正面に歩いていって、その顔を下から覗きこむようにして見上げた。
「メルディも一緒行ってよいか?」
「悪いが、一人で行きたいんだ」
即答されて微かに頬を膨らませる。ぷう、と口から息を吹き出す音が聞こえた。なにか言いたいのだが言葉が見つからずに細い腕をぱたぱたさせている彼女に、ファラが助け舟を出す。
「キール、どこに行くの?」
「ちょっとそこまで」
やはり即答。いかにも詮索無用とでも言いたげな彼の口調に、メルディは胸の中がざわりと騒ぐのを感じた。
キールは、一人で行きたいと言う。
行き先も目的も、教えてくれなくて。
キールは気づいていないのだろうが、彼が買い物の途中で何かを見て以来、ずっと考え込んでいたことを、自分はちゃんと知っているのだ。何を眺めていたのかまではわからないけれど、なんだかぼんやり遠い目をしていた。
今彼の心を占めているものは、いったい何なのだろう?
「……メルディも行く。行きたい」
「駄目だ」
メルディはぎゅっとこぶしを握り締めた。
それなら、せめて。
「……じゃあ、どこ行くか教えて」
「どこだっていいだろ」
じゃあ。
「……なにしに、いくか?」
声が震えるのをなんとか抑えて最後の頼みとも思える質問をぶつける。
これに答えてくれないのなら。
そんな彼女の心理状態を知ってか知らずか、すぐに返事が返ってきた。
「――――――――――――――……」
「ッ! ――――っ、っキールのばかああぁ〜ッ!!」
涙声で捨て台詞を残して、メルディは隣の寝室に駆け込んだ。
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