世界が崩壊するか否かの瀬戸際だったあのときからずいぶん経つ。
 オルバース爆動で倒壊した建物もすでに修復され、二度目の冬をなんとか越えた。
 寒さもそろそろ緩み始める早春のこと。
 凍えていた木々がそろそろ芽を出そうかという頃のこと。




四角い布切れ(前)





 ごんごんごんごん辺り中に大きな音が響く。
 その建物の壁は金属製だから、反射音もひとしお。耳がおかしくなりそうだ。
 頭がわんわん悲鳴をあげるのを感じて、キールはそばにいた大柄な男――――その場での責任者に一言断って、逃げ出すように戸外へでた。
 外は室内とは打って変わって静かなもの。
「……まったく、よくもあんなにうるさい場所で考えながら作業ができるもんだ」
 一人ぶつぶつとごちて、思いっきり伸びをする。空気はまだ冷たいが、太陽の光はぽかぽかと辺りを暖めている。春は近い。
 なんとなくいい気分になって空を見上げた。
 子供の頃からそこにあるのがあたりまえだと思っていたセイファートリングは、今はない。そういえばセイファート教会はどうしたのだろう。信仰の象徴としてあのリングを崇めていたけれど。今はなにを象徴にしているのか。王都にいるというのに、とんと噂を聞かない。
 まあどうでもいいことだけど、と彼は首を振って苦笑した。今の自分を動かすものは知識欲と、大事な人たちとの絆だけ。それ以外のことは、どうにでもなれ、とはさすがに言わないが、たいしたこととも思わない。名誉欲やらその他のものは、バリルの論文と一緒に燃やし尽くしてしまった。
 自分たちだけではない、インフェリアだってずいぶん変わった。先ほどのうるさくてたまらなかった建物の中では、ようやく形になり始めた星の海を渡る船の試作品を建造中だ。キールや他の研究者たちはもう少しまとめてから、といったのだが、インフェリアの船大工たちが意外なほどの熱さで毎日ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返している。彼は請われてバンエルティアの研究結果を船大工たちにも教えに行ったのだ。そのついでに作業場を見せてもらったのだが、今の段階ではまだまだ。バンエルティアの装甲や気密性、出力にははるかに及ばない。それこそ天文学的な差がある。
 それでもセレスティアを蛮族の世界と考え、関わりすらもちたくないと考えていた人間が大半だったことを考えればたいした進歩だ。このまま行けば、数年後には今は一人きりしかいないインフェリア人とセレスティア人のハーフも、あたりまえのように生まれてくるかもしれない。
 そこまで考えて、キールはふと顔を赤らめた。ふわふわした淡紫の髪の毛がなびく様が、頭の隅をかすめたからだ。今この世にただ一人だけ存在する二つの世界の血をひく少女、メルディの。
 メルディは自分が両方の世界から命を受け継いでいるという思いからか、慣れ親しんだセレスティアのみならず、インフェリアの大地をも心の底から愛している。そのため彼女はふたつの星を結ぶ道を作れないかとのアレンデ王女の申し出に一も二もなく賛成した。キール自身もセレスティアで学びうることと懐かしいインフェリアの風景とどちらもを選びがたく思っていたし、なによりバンエルティアを研究できるというのは彼にとって無視しがたい誘惑だった。
 かくして、比較的身軽なキールとメルディが頻繁にバンエルティアで両世界を行き来し、定期的にお互いの研究者たちが顔を合わせて話し合う、という構図が出来上がった次第である。
 今回はアイフリードの築いた遠征の橋の中継基地まで足をのばしてきた。セイファートリング崩壊の衝撃でセイファート観測所はセレスティア側に、中継基地はインフェリア側に飛ばされていたのだ。チャットの話によるとバンエルティアで中継基地に乗り入れたとき、やはり以前のように突然改造ドックが起動してバンエルティアを改造してしまったらしい。海、空とくれば今度は宇宙だろうと考えたリッドたちが乗ってみたところ、読みどおりだったというわけだ。
 中継基地にたどりついたキールたちは試しに他の船を改造ドックに入れてみた。けれど機器類はぴくりとも動かず、それらはバンエルティアにのみ反応するものなのだろうという結論に達した。チャットを伴ってあちこち調べまわり、ある程度はまとまった。今から王立天文台に行って話し合い、そのあとはすぐセレスティアに向かう約束をしている。目が回るような忙しさだが、充実の度合いは大学時代の比ではない。
「さてと、そろそろ行かなきゃな」
 呟いてキールはインフェリア港の門をくぐり、王都に向かって歩き始めた。






 潮風が二つに分けて結い上げた髪をなぶって通り過ぎてゆく。かなりの強さだが、この程度、もともと寒いセレスティアで育ったこの身にはたいしたことはない。
 王都に滞在する間の仮宿にとアレンデが提供してくれたのは王城内の客室。調度は申し分ないし、城の人々もやさしくしてくれるから、決して居心地は悪くないのだが、なんとも暇でしょうがない。アレンデがたまにお茶がてらおしゃべりに誘ってくれるほかはすることもない。
 中継基地には最初ついていくつもりだったのだが、彼女はここのところ風邪気味だったため、キールに却下されたのだ。バンエルティアが港についたと聞いてやってきたものの、肝心のキールはすでに王都に向かった後で行き違いだった。メルディは別に人見知りをする性質ではないが、大勢の研究者をかきわけてまで彼に話しかけねばならないほどの用事を持っているわけでもない。
 仕方なく、海岸をぶらついてみる。
「クィッキー? クキュクィッキ」
 ニ、三歩先を歩いていたクィッキーが振り返って質問するように鳴いた。
 近寄って抱き上げる。
「みんないそがしいなー。メルディもお手伝いしたい、なのにキールコドモあつかいする。風邪なんてたいしたことないのになー。なクィッキー?」
「クキュ」
 うんうんとうなずくようにせわしなく動くクィッキーの仕草に、メルディは思わず小さく笑いを漏らした。
 本当はわかっている。キールは自分の体調を気遣ってくれているのだ。わかってはいるが、少しくらい身体がつらくてもそばにいたいというこちらの想いはどうしてくれるのか。
「ん〜。ニブいのかな。一緒がいいよって、言ったほうがいいのか?」
 額に指を当ててうなってみる。クィッキーも彼女のまねをしてちいさな前足を頭につけた。と、前足についていた砂が耳のなかに入ってじたばたする。
「……クィッキー? あ〜あ、なにやってるか、かゆいな? ちょっとまって……」
 メルディはごそごそとポケットをまさぐってハンカチを取り出そうとした。
「あ!」
 一緒に引きずり出される格好になった白い布切れが風にあおられて飛んでいく。
 ひらひらひらひら、海のほうへ。
 それは、かなり遠くに落ちた。まだ浮いている。けれど、今の季節の波は高い。早く拾わなければ沈んでしまうかもしれない。
 冷たい潮がかかるのも気にせず、メルディはじゃぶじゃぶと海の中へ入っていった。






 結局徹夜仕事になってしまった。次はセレスティアでの話し合いの結果を持ってまたやってくることを約束し、キールは疲れて重い身体をひきずるようにして城の客間にたどりついた。
「キール!」
 予想していたのとは違う声に出迎えられて、彼は一瞬面食らった。
「……ファラ? リッドも……」
「よーう」
 窓際の寝台に腰掛けていたリッドが振り返って手をあげる。
「二人とも久しぶり……どうかしたのか?」
 旅をしていた頃の気持ちがよみがえる気がしてキールは薄い笑みを浮かべた。対してファラの表情は少し硬い。
「メルディ、熱出しちゃった」
「はあっ!?」
 キールは素っ頓狂な声をあげる。
「熱? だって外に出るなって言っといたはず……」
「海に入ったのよ」
 ファラがはあ、とため息をついた。
「お医者さんはちょっと寝てれば大丈夫だっていうから、そっちのことはまあいいとして。理由聞いても教えてくれないの」
「……メルディは奥か?」
 低い声でたずねて腰を浮かせかけたキールの腕を、ファラは慌てて捕まえた。
「キール。怒っちゃダメだからね。理由があったのよ。いい? 理由があったの。ただでさえ具合悪いときは気が鬱になるんだから、泣かせるようなこといわないでよ」
 キールは無言でうなずいて、次の間へ続くドアを開けた。
 カーテンは閉められて、薄暗い。天蓋つきの豪奢な寝台の中に埋もれるようにして寝かされているメルディの枕もとにより、そっとささやいてみる。
「……メルディ?」
 向こうを向いてはいたが、ぴくりと彼女の背が震えるのがわかった。
「起きてるならこっちを向いてくれ。なあ、なんで海になんか入ったんだ? 怒らないから、理由だけは教えてくれよ」
 彼にしては辛抱強くしばらく待つ。
 ややあって、蚊の鳴くような声で返事があった。
「……ヒミツだもん」
 秘密といわれても。いえないようなことなのだろうか。
 しばらくの間彼は何とか理由を聞き出そうと無駄な努力を続けた。






「時間かかってるねえ。キールにも言わないとなると……いったいなんなんだろ」
「さあな。いいじゃねえか、もう。メルディだって暇でしょうがなかったんだろうしよ」
「それはそうだけどさ……あ? はーい、どなた?」
 ひそやかなノックの音を聞いてファラは扉に駆け寄った。訪問者の顔を見て、ああ、と笑みを浮かべる。
「こんにちは。メルディのこと助けてくださってどうもありがとうございました」
 礼を言って頭を下げる。
 いやいや、と手を振ったのは年配の漁師だった。海に入っていくメルディをすくいあげてくれた人物だ。港に停泊していた船の掃除をしていたときに彼女を見つけたのだと聞いた。
「何か御用ですか? 心配してきてくださったとか?」
「あ、いや。まあ心配は心配だが別の用事があって。これ」
 目の前に差し出された白いものを、首を傾げて受け取る。
「どうもこれを追いかけて海に入ったみたいでな。よっぽど大事なもんなんだろう、渡すの忘れてたからなくしたと思って落ち込んでるんじゃないかって気になってな」
「……はあ。そうですか。ありがとうございます」
「なんだ?」
 漁師が行ってしまうと、リッドは首を伸ばしてファラの手の中を覗き込もうとした。
 ファラは受け取ったものを握りしめてくすくすと笑っている。「な〜んだ、そうかそうか」と言いながら、しきりにうなずいている。
「なんだよ」
「んー? なんでもないよ。秘密〜」
 教えてくれるつもりはないらしい。そのままメルディたちのいる奥へ進む後姿を、リッドは肩をすくめて見送った。





「なあ、メルディ……」
「……」
 次の間では、相変わらずキールがメルディをなだめすかそうとしていた。メルディは貝のように口を閉ざして一言も喋らない。
 キールはだんだん苛ついてきてつい傍らのチェストにこぶしを叩きつけてしまった。
 どん、という音にメルディがびくりと身をすくませる。
「言ってくれなきゃわからないだろ? それとも……」
「クキュ」
 キールはクィッキーの気遣うような鳴き声に気づいてはっとメルディを見た。
 大きな瞳が潤んで今にも泣き出しそうな表情をしている。おろしている髪の毛と熱のために上気している頬の赤さとあいまって、その顔はいつもの彼女より数段色っぽく見えた。
 何か熱いものが、全身を駆け抜けたような感覚を覚えて。
(やば……!)
 途端にばくばく騒ぎ出す心臓に加えてなりふりかまわず抱きしめたい衝動にかられる。その彼を救ってくれたのは背後から聞こえたファラの場違いなほど明るい声だった。
「キールー? ちょおっと出てってくれる? メルディとお話がしたいんだけどなあ〜」
「ファ、ファラ?」
 慌てて振り返る。ファラは二人の表情を見比べて、「あらら」と言わんばかりに目を丸くした。
「お邪魔だった?」
「ま、まさか! それより話って何だ、ぼくは席をはずしたほうがいいのか?」
 耳まで真っ赤に染めてキールはあたふたと立ち上がった。ファラがうなずく。
「うん。女の子同士のお話するから。キールはリッドと一緒にごはんでも食べてくればいいよ」
「そ、そうする」
 逃げるように部屋を出て行くキールの背中をぼんやり眺めてから、メルディはファラに視線を移した。
「……なにか?」
「これ」
「!」
 漁師から受け取ったものをしめすと、メルディはがばっと起き上がって手をのばした。その勢いにびっくりしながらも手渡してやると、彼女はそれを胸に抱きしめた。
「いきなり海に入ってったっていうから、何事かと思ったんだよ?」
「……なくしたかとおもったよ」
 ファラは泣き出すメルディの肩を抱いて再び寝台の中に寝かせてやった。
「ねえ、でもメルディ? 本当に大切なのはそれじゃないでしょ?」
「……はいな。でもな、いつも一緒にいられるワケじゃない。とこしえにおもうことこそともにあるということ、シゼルがいったこと、それはわかってるよ。考えるだけで幸せになる、ソレはほんとう。……でもな」
 今しがた手元に戻ってきたそれを肌身はなさずもっていることに、特に意味があるとは思っていない。ただ持っていれば、想いが簡単に形になっているようですこしばかり心強いような気がするだけだ。
「あのな、キールにはいわないでほしいよ」
「ん。いいけど。心配してたよ?」
 すこし首をかしげて言うファラに、メルディは上気した頬をますます赤く染めて縮こまった。
「だって……」
「わかってるわかってる。いわないよ」
 ほんっと、可愛いんだから。そう思いながらファラはメルディの布団を直してやった。
「ファラ、何か歌って」
 せがむメルディに微笑んで、うっすら覚えている子守唄をちいさな声で口ずさむ。
 一曲歌い終わる頃には、メルディは安らかな寝息を立てていた。








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