ただ、それだけ(3)





 まず見えたのは、誰かの服の裾だった。
 どこまでも落ちていってしまいそうな暗い淵から救い出してくれた手の主に、ただただ必死でしがみつく。
「っ? メ、メルディっ!?」
 裏返った声が耳に入って初めて、彼女はつかんでいる服の色を正確に認識した。
 闇の中でほの白く浮かび上がる……白。
 キールだ。
 自分を現実へと引き戻した彼に、力いっぱい抱きつく格好になっているということにようやく気づいておずおずと身体を離す。
「……あ。ごめんな」
 普段から彼にまとわりつくのはお得意のメルディだが、あまり度が過ぎて煩がられるのは怖い。しかし、いや、と首を振ったキールの頬はかすかに赤く染まってはいたけれど別段腹をたてた様子はなかった。
 ほっと息をつくと、白いハンカチが額に押し当てられた。
 のろのろと視線を上げる。
「……なにか?」
「気づいてないのか?」
 呆れたような声音で言われて手を額にやると、そこはじっとりと湿っていた。そう簡単には乾きそうにない、いやな感じの汗。もしやうなされて起こしてしまったのかとテントの中を見まわしたが、こういうときにいち早く反応するはずのファラは隣ですやすやと安らかな寝息をたてている。
 押しつけられたハンカチで顔の汗をふき取りながら、メルディは差し向かいにあぐらをかいているキールを探るような目で見上げた。
 うなされて声をあげていたというのならともかく、まさか夢まで共有できるはずはないから、彼が自分を起こしたのはずっと寝顔を見ていて異変を察知したか用があって起こそうとしたところにたまたま自分がうなされていたかのどちらかなのだろうが。
 まさか、キールが女性――彼に一人前の女性として見られているかどうかは甚だ疑問だが――の寝顔を不躾に眺めるようなことはするまい。とすれば、用があったということになるのだろうか。
 しかし、彼が自分などになんの用事があるというのだろう。
「キール、何か用か?」
「……ああ」
 まさかと思った推測は当たっていて、メルディは少々面食らって目をぱちぱちさせた。
「どうせしばらくは寝られないだろ。なら、ちょっと外までつきあえ」
「……うん」
 言って親指でテントの入り口を指差す彼に、メルディは素直にうなずいた。
 また寝たとしても同じような夢を見てしまうかもしれないという恐怖は大きかったし、それに最近のキールのそばは居心地の点ではそう悪くはない。少なくとも、一人でいるよりはずっと安心できる。
 無造作にガウンを引っ掛けた彼の後に続いて外に出ると、すでにキールは少し離れた場所でこちらを振り返って待っていた。歩き出した背中を小走りに追いかけて、横に並ぶ。
「どこいくか?」
 尋ねても、「行けばわかる」の一点張りだ。不満そうに唇を尖らせてはみたものの、気分はそれほど悪くないのがなんだか不思議だった。





 キールがメルディを連れていったのは、夕食のときにリッドとファラが連れ立って皿を洗いに来た小川のほとりだった。両岸には黒々と木立が影を落とし、珍しく晴れ渡った空からこぼれる星の光がわずかに水面に反射してきらきらと輝いている。夢の中と同じような真っ暗な空間で、けれど周りの景色と一人ではないのだという安心感からかメルディは特に恐ろしいとも思わずにぼんやりとせせらぎの調べを聞いていた。
 ふと、黙ったまま隣で突っ立っているキールに目を向ける。
「ここ?」
「……そうだ」
 彼は岸辺に転がる大きめの岩に腰掛けた。招かれるままおずおずと隣に陣取ると、わずかに肩が触れ合ったが、キールは気にした様子もなくずっと空を見上げている。
「キール……」
「しっ。……そろそろ、始まる」
「…………あ」
 ある現象特有の空気を感じとって、彼女はちいさく声をあげた。

 徐々に白んでくる東の空から、金色の雲が近づいてきたかと思うと、ふわりふわりとあたりに光が舞い始める。
 淡く染められた光の花弁が降り注いでくるのを、メルディは呆然と眺めていた。
 以前見たときとは違い、地面ではなく小川の水面に向かって落ちてゆく光は水面に触れて消える直前にまわりの光数滴と共に一瞬まばゆい虹色を放ってから、次々溶けてゆく。

 伝え聞いていた、また以前とは違うその光景に、メルディはうっとりと口許に微笑を浮かべてため息をついた。
 そして、その気持ちのまま隣の蒼い瞳を見やる。彼もまた、嬉しそうに微笑んでいた。
「格別、だろ?」
 こくりとうなずいて、気づく。
 リッドとファラは。
「バイバ!」
 突然立ちあがったメルディに、キールはびっくりして身体をのけぞらせた。
「ど、どうした?」
「リッドとファラに、見せてあげなくてよいか!?」
「……ああ。いや、ずいぶん気持ちよさそうに寝てたしな。起こすのも気の毒かと……」
 適当に視線を泳がせつつ、もっともらしいことを言ってみる。
 少し歯切れが悪い。言い訳でしかないのを自覚しているからだ。
 本音は、メルディと二人きりで見たかっただけなのだが、それを今打ち明ける気はなかった。
「それに、今から呼びに行っても行ってる間に終わってしまうだろうし」
「ん〜……それもそだな〜……」
 思案げにうなずいてから、メルディはまた空を食い入るように見つめた。
 同じようにキールも空を見上げながら、ちいさな、けれどしっかりした声でささやく。
「……あのさ」
「ん?」
「笑いたいときは笑えばいいけど……泣きたいときは、我慢しないでちゃんと泣くんだぞ?」
「……ふぇ? え、あぅ、うん」
 メルディはどきりとしてキールの横顔に目を移したが、彼は正面を向いたままだった。
「……無理してまで笑わなくたって、泣いてても怒っててもおまえがおまえだってことに変わりはないんだ。何があっても、ぼくたちはおまえを見捨てたりはしないから。……だから、おまえはやりたいようにやればいいんだ」
「…………………………」
「メルディ?」
 うつむいて黙ってしまった少女の顔を覗きこんで、キールは絶句した。
 その滑らかな頬にはいつのまにか幾筋もの涙が伝っていた。
(泣いて……る?)
 慌てて肩に手を置くと、メルディが顔を上げる。
 その拍子に落ちずにあごの先を濡らしていたしずくが数滴、勢いよくそこを離れる。
 ぼたぼたとラシュアン染めのワンピースに染みを落としながら、それでも彼女は笑っていた。
「……………………えーと」
 対処に困り、キールはがしがしと乱暴に頭を掻いた。
「悲しいのか? それとも嬉しいのか?」
「…………うれしいんだようぅ〜……」
「なら、なんで泣く?」
「……しらない……けど、うれし……っう」
 メルディは声もなく体を震わせた。
 キールは苦笑して肩の力を抜いた。両の瞳からあふれる涙は止まる気配はない。しかし、今目の前にあるのは正真正銘引き出したいと願った、心からの笑顔であることは直感できたから、だからこれでいいと思った。
 蒼い瞳が優しげに細められる。
 メルディはそれを見て、彼が夕食の後に見せた表情の理由を、今思い知った。
 なんのことはない、自分に対する気遣いだったなんて。
 最初は怖かった。ずっと嫌われていると思っていたのに。信じたかったと言ってくれて、信じてると言ってくれて。欲しい言葉を的確に見抜くのは、リッドでもファラでもなく、いつもこのひとだった。きっと、これからもそうなのだろう。
 これからも。
 自分の中に自然にわきあがった思いに、彼女はあの黒い夢が溶けてどこかへと流れてゆくのを感じた。
 このひとは。
 未来へ進みたいと思えるちからをくれる。
「……そろそろ帰るか」
 差し伸べられた手を当然のように握り返してメルディはにっこりした。
 自分が今浮かべているのが、間違いなく今までの旅の中で最高に輝く笑顔であることを確信しながら。





 ただ、受け止めたいと思ったのだ。
 その抱える闇と惑いを。
 誰も受け止めようとしないのなら自分が、いや、他に誰か受け止めようと望むものがいるのだとしても、自分こそが。
 彼女のすべてを認め、受け入れて包み込んでやれたら、どんなにいいだろうと思ったのだ。
 ただ、それだけだったのだ。







--END.




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あとがき。
なんちゅうか、キャンプファイヤーが生み出すあったかい光と濃い影をイメージできるような話を書きたかったのでスが。
…見事に玉砕しましたv 今までに増してわけわからん度の高いシロモノになっております。
想像してください、ぱちぱち火が目の前で穏やかに燃えてて、虫の声が途切れ途切れに聞こえるの。
んで、遠くのほうからはかすかに小川のせせらぎとか聞こえたりしてー。
空は満天の星空。空気が澄んでくる季節の、陽が沈んでからもう夕焼けが消えた後、でも完全に夜にはなってないときの。
冬の午後7時ごろね。
で、周りにいる人も静かにぼーっと空とか眺めてるのよー。
…………………………。
はい、ドリーマーですともよ!
文章中でうまく表現できなかったから苦し紛れにここに書いてみたりして。
しょうがないじゃんよー、逃避エネルギー発動してても表現できないもんはできないんですよう。

この後メルディはおそらくキールの隣ですやすやと眠りにつくのかと。
さりげにキールの服の裾握り締めてたりしたら悶えます。
そんで、キールはキールでさっき自分が言ったこともあるもんだから「離れろ!」とか邪険にできなくて。
あ、最後のシーンで見てるのは幸福の雪ですが。
ゲームの「幸福の雪」と、アニメの「クレーメルダスト」って……一応違うもんだよねえ?
幸福の雪はセレスティア特有の現象だってキールさん言ってたし。
クレーメルダストはインフェリアであったわけだし。
落ちてくるのと昇っていくのとの違いだけだったりしたら笑えるなあ〜。
まあ住んでる晶霊も違うわけだから同じじゃないでしょーけどねえ。
こういう設定って、つきつめて考え始めるとキリがない…(笑)