ただ、それだけ(2)
その場を支配していたのは、焚き火のはぜる音と沈黙のみ。無言で暖かな光を見つめつづけているメルディに、キールはとうとう耐えられなくなって本を閉じた。
ばたん、と存外大きな音にびっくりしたのか、彼女が勢い良くこちらを向く。問いかけるような瞳にいらだたしげに髪をかきあげて、彼は本を荷袋にしまって脇に押しやった。
「……キール? もうおわりか?」
メルディが不思議そうに首を傾げて問いかけてくる。
夕食は終わって、テントもすでに張ってある。本来寝るべき時間まではまだ間があるし、特にやるべき仕事もない。時の浪費ほど無駄なことはないと、いつもならば食事どころか睡眠時間を削ってまで読書に没頭する彼が、絶好の機会をふいにする理由など彼女には思いつかなかった。
「何を考えてる?」
「え」
静かな瞳でひたと見据えられて、メルディは少なからず動揺した。
いつもいつも、怒鳴るような声しか紡ぎ出したことのないはずの唇からは、低いささやきが聞こえてくる。
「……何を考えてる?」
もう一度、先ほどよりも多少強い語気で同じ台詞が飛んでくる。やはり強いちからを宿した眼光とともに。
たった今まで、あたり障りのない返事で適当にお茶を濁そうと思っていたメルディは、ふとその瞳の中に込められた言外の台詞を聞き取ってしまった。
今おまえが何を考えているのかを、知りたい。
確かに、そう、聞こえた。
彼女はふるっと体を震わせて視線をそらした。闇色の帳が焚き火の光に照らされて、微妙な色合いに染められている。少しキールの目の色に似ているかもしれないな、と思う。一度そう思うと空を見つめつづけるのも落ち着かない気持ちがして、彼女はゆらゆらと視線をさまよわせた後、結局下を向いた。
「……べつに。なんでもないな」
「嘘つけ」
「ほんとだもん」
かさ、と草の鳴る音がして――運良く寝るのに適したやわらかな草地をみつけられたのだ――落とした視界の端に白いものが映った。ばっと身をひるがえしてたちあがろうとしたところをすかさず捕まえられる。確かにこの場に溢れている暖かな光を、けれど反射することもなく吸いこんでしまっているかのような深い深い色の瞳には、予想した怒りの色を見出すことはできなかった。
(……怒ってない?)
静かな迫力に気圧されながら内心でこっそり首を傾げる。
いつもなら、いつもなら彼はここで怒り出すはずなんだけれど。
総領主の居城でシゼルと会い、すべてを打ち明けたとき彼が見せたものはまぎれもない、怒りだった。あのときぶつけられた感情の波は、今彼が発しているのと同じもののはずだ。わかる。
なのになぜ、こんなにも。
知らず力を込めてしまった手の中で華奢な身体が硬直しているのに気づいて、キールはゆっくりと指の力を抜いてメルディを開放した。誰かが彼女に危害でも加えようものなら黙ってはいないクィッキーは、けれどおとなしく地面にうずくまったまま。もちろんメルディだって彼に悪意などないことはわかっている。それなのに何も言葉が出てこないのは、その表情がなぜだか泣きそうに見えたから。
どうしてこのひとは、こんなにつらそうな顔をしているのだろう。一見無表情だが、今にも涙の一粒でもこぼしそうな、思いつめた空気を感じる。
あのときも、こんな顔をしていたの?
あのときは自分の感情を処理することに手一杯で、見えなかったけれど。
そっと、白い頬に手を伸ばす。
「!」
細い指先が触れるか触れないかの位置まできた瞬間、キールはばっと一気に数歩後ろに跳びすさった。あまりに激しい反応に呆気に取られたメルディを尻目に、彼は置いてあった本の入った荷袋をむんずとつかむと、「もう寝る」とのひとことを残してテントに入っていってしまった。
「………………へんなの」
おかしいのは自分もだということを充分自覚しながらも、メルディはちいさくつぶやいてクィッキーを抱き上げ、再び焚き火に向きなおって座りこんだ。
危ないところだった。
それが、彼の本音だった。
ただ安心させてやりたいと思ったのだ。
ちいさな身体に見合わぬ大きな力を抱え込んで、それでも潰されまいと懸命にもがくあの少女を、抱きしめたいと思った。なりふりかまわず、ただ幼子にするように抱きしめて頭をなでて、安心させてやりたいと思ったのだ。
実際メルディがあのまま動かなければ、思うとおりにしていたかもしれない。
手のひらには、未だ細い腕をつかんだときの感触が残っている。力を込めて握り締めたこぶしを見つめ、キールは深いため息をついた。
わかっているのだ。初めに拒絶したのは、疑ったのは自分。会った当初から辛く当たりつづけ、普段もなんの気遣いも見せてやらない自分が、たまに真摯な態度をとったからといってその不安を預けてもらえるはずがない。そんなことはわかっている。
でも。
それでも、今抱える気持ちに嘘はない。彼は、嘘つきは嫌いだった。だから自分も嘘をつくことは嫌で、なのにずっと自分で自分をだましつづけていたことに気づいたときは愕然とした。
今更、間に合わないのだろうか。もう、遅いのだろうか?
キールはかぶりを振って、浮かんだ悲観的な考えを頭から締め出した。
そっとテントの入り口の布をめくり外をうかがう。思ったとおり、メルディはじっと焚き火に向かったままだ。微動だにしない。
星も穏やかに瞬いて、セレスティアには乏しい草地に生息する虫が秋の終わりを名残惜しむかのようにときおり澄んだ音色を響かせている。
「……?」
ふと彼は空を見上げ、空気の匂いをかいで眉を跳ね上げた。
この空気には覚えがある。
ちょうど、遠くからがちゃがちゃとにぎやかな音をたてながら幼なじみが戻ってくるところだった。キールはかすかに目を伏せて、テントの中に戻って身体を横たえた。
一面の闇。
光すら差さない。
冷静に考えれば現実にはあり得ないはずの空間の中に、彼女はいた。
自分の姿は見える。指先も、つま先まで、はっきりと。
けれど、それ以外は黒一色に塗りつぶされている。
いつもそばにいるはずの青い獣の姿はなく、いつもそばにいるはずの仲間たちの姿もなく。
「……クィッキー? ……リッド、ファラ……キール!」
叫んでも声は闇の中に吸い込まれてゆくだけ。こだまさえ返っては来ない。メルディは大きく身震いした。
……ひとり? ……ひとり。
ひとり、一人、独り――――――!
恐慌状態に陥りそうな心を必死で叱咤して、足に力を込める。
これは夢だ。そう、ゆめ。
だって自分はファラと手を繋いで、キールの隣で眠りについた。付き合いが長いとは言えないまでも、すでに彼らの気性は知り尽くしている。何も言わずに消えてしまうことなどあり得ないし、それにもしもこれが現実で、自分が寝ている間に彼らがどこかに行ってしまったのならば、広がるのはセレスティアの景色のはず。しかしこの空間は明らかに現実とは言い難い異質な空気をはらんでいる。
だから、これは夢なのだ。
ならば声を出すわけにはいかない。気持ちよく眠っている仲間たちを起こしてしまうのは気が引ける。明日もまたかなりの距離を歩くのだから。
大丈夫、これは夢。
知らず震え出す手を握り締めて、メルディはぐっと前方をにらみつけた。
と、かすかに何かが聞こえて眉を寄せる。
闇の底から響くような――――
「っ、やめ……」
彼女は喉を引きつらせてその場に座りこんだ。
聞こえる。闇の底から。
深淵から、誘う声が。
両目から熱いしずくがこぼれ出した。止まらない。
声が、震える。
「やめて、やめて、メルディはそんなのやだ……メルディはちがぅっ――――……!」
ひたすら否定の言葉を吐いて狂ったように頭を振りつづける。
耳を塞ごうとした腕を強い力で引かれたような感覚があり、次の瞬間彼女は光のもとへと連れ出された。
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