少し早めに待ち合わせ場所に着いて。
 不審でない程度に辺りに視線を配り、望む姿を探す。
 そのうち人波の間から、見なれた彼女の頭のてっぺんがのぞいて。
 必要以上にきょろきょろしているものだから、すぐに人にぶつかりそうになってはその都度謝っている。
 こちらはとっくに気づいているのだけれど、みつけてもらえるまで敢えて声はかけない。
 目があった瞬間の、花咲くような笑顔が見たくて。慌てて駆け寄ってくる様子すら愛しくて。
 その一瞬が、いつも楽しみなのだけれど。

 その日、彼女は現れなかった。




占有面積(前)





 今まで聞こえていたはずの、塒に帰る烏の鳴き声が途絶え、ふと珪は我に返った。
 すでに窓の外は薄暗い。部屋の中に落ちる帳を染め抜く色も、黄昏どきの茜色からすでに濃い闇の色へと変化していた。
 首だけ動かして壁の時計を見上げる。午後七時。
「…………もう、こんな時間か」
 わざわざ声に出してつぶやいて、彼はベッドに突っ伏した。閑静な住宅街。ひっそりと静まり返った我が家。いつもならば心地よい静寂が、今はやけに孤独を思い知らせてくれる。
 約束をしていた相手――深悠は今日、待ち合わせの場所に姿を見せなかった。言い交わしていた時刻は午前十一時。彼女が遅刻をするなど滅多にあることではないから、初めはただ遅いなと思いながら待っていただけだった。来ない可能性など、まったく考えもしなかった。
 空腹をおぼえて時計を見て――正午をすぎていることを確認した。それでも、昼食を調達しにその場を離れたら入れ違いになってしまうかもしれない。そんな思いが珪を縛りつけ、結局彼は何も摂らないまま、西の空に夕日が沈むまでぼんやり座っていたのだった。
 どうやって帰ってきたのかは、よく覚えていない。気がついたら一人、自室の真ん中に立っていた。
 身体が重いのは、半日近く何も食べていないせいだ。けれど、それ以上に心が重い。
 深悠の律儀さは知っている。約束をしておいて、理由もなく違えるなどあり得ないこと。何か気に障ることをしてしまったかとここ数日を反芻してみても、特に思いあたらない。
 なにより、誘いをかけたときの彼女の嬉しそうな笑顔が脳裏から離れなかった。深悠は正直だ。まるで幼い子どものように、思っていることがなんでも顔に出る。人の表情を読むことがあまり得意ではない珪でさえ、そのとき彼女が何を考えているのかを推測するなど容易なこと。だからこそ、なんの疑いもなく何時間も待っていられたのだ。
 それなのに。
 不安が胸をしめつける。外せない用事ができて、連絡する暇もなかったというのならそれはそれでいいのだ。電話をしてもいいし、平日学校で会って訳をたずねてもいい。けれどそれとは別に、心のどこかからささやきかけてくる声を無視することができない自分がいる。珪は低くうなって天井を見上げた。
 本当は気が進まなかったのではないのか。それをお人好しなものだから、断りきることができずに結果忘れてしまっているのではないだろうか。朗らかで屈託のない深悠には友人がたくさんいる。二人で会うことをことのほか楽しみにしている自分とは裏腹に、彼女にとってはたいした価値もない逢瀬なのかもしれない。
 ……だから。
 どこまでも深く沈みかけた思考を引きあげたのは、携帯電話から流れるメロディだった。
 深悠からの電話だということがすぐわかる、個別に設定された旋律。大急ぎで手を伸ばす。
「はい」
「あ、葉月?」
 予想していたものとは違う声に迎えられて、高揚しかけていた気持ちがすっと冷えてゆくのを感じる。まぎらわしいことをするなと罵倒して今すぐ切ってしまいたいのをこらえて、珪は努めて冷静な声で応じた。
「……葉月だけど。誰だ?」
「なんだよ忘れてんなよ葉月! オレだってばオレ!」
 オレじゃわからない、と突っ込もうとしてから、彼ははたと気づいて一人うなずいた。そういえば聞き覚えがある。小生意気な笑顔が苦労もなく浮かんだ。姉弟だからだろうか、いつも楽しそうにしているところといい、物怖じしないところといい、共通点が数多く見出されてそれゆえにどうにも邪険にできない相手。
「……弟か」
 確かに彼ならば深悠の携帯からかけてくることは可能だろう。納得して気を落ちつかせる。受話器の向こうで呆れたようなため息が聞こえた。
「弟か、じゃねぇだろー? 名前くらい覚えとけっての。尽だよ尽、つ・く・し! 覚えたか?」
「……覚えた。土筆、だな」
「おう」
 あいにくと電話では声しか伝わらない。いろいろと間違った意味で珪の頭に記録されたその固有名詞は、後に尽自身によって訂正されるのだが、それはかなり時間がたってからのことである。
 それはさておき。
「何か用か?」
 わざわざかけてくるのだから。深悠に関わることであるならさっさと聞いておきたい。あっけらかんとした声の調子から、特に嫌な知らせでないだろうことはうかがえた。先ほど抱いた不安をさっさと消してしまいたい。
 続けて何か関係ないことをしゃべりかけていたらしい尽は、一瞬びっくりしたように押し黙り――それからばつが悪そうに苦笑した。
「……そう。あのさ、葉月今日ねえちゃんと約束してただろ?」
「…………ああ」
「実はねえちゃん昨日の夜から熱出しててさー。さっきまでずっと寝てて……」
「……そうだったのか」
 それで来られなかったのか。珪は胸の中に重苦しく凝っていた塊がすぅっと溶けてゆくのを感じた。しかし同時に、苦しげな深悠の顔を思い浮かべてかぶりを振る。違う意味での焦燥がじわりと浸透してきて、彼は絞り出すようにして受話器にささやいた。
「……具合は?」
 応える声は明るい。
「ん、もう熱は下がったよ。ただまだだるいみたいで……寝てる。さっきちょっとだけ起きてさ、それで葉月のこと聞いたんだ」
 起きた途端に泣き出したから、何事かと思ったのだ。弱みなど滅多に見せたことのない姉がぼろぼろに泣きじゃくり、話す内容は聞き取ることすら困難だった。途切れ途切れの台詞からなんとか状況を分析し、尽は自分がうまいこと伝えておいてやるから、となだめてようよう姉を寝つかせたのだった。
「たったそんだけのことでそこまでぴーぴー泣くかとか思ったんだけどさー。まあいくらねえちゃんの中にあるもんだっつってもオトメゴコロは繊細なもんらしいから? 葉月も一応感謝しといてくれよー。だってやっぱ待ってたんだよなコール音一回も鳴らないうちに取っ」
「今から行ってもいいか?」
 ぺらぺらとよく回る口は止まりそうにない。放っていたらいつまでも話しつづけるだろう。遮ってたずねると、微妙な間の後に笑いを含んだ声が返ってきた。
「……いいよ。今日うちの親いないから、人手があると助かる」
 外はもう暗い。人の家を訪問するには少々不適当な時刻だが、そんなことにこだわってはいられなかった。今すぐ、顔が見たい。
 具合が悪い深悠のことが心配だからなのか、それとも自分が彼女の顔を見て安心したいだけなのか。どちらなのかはわからない。そのふたつは珪の中で密接に絡みあって、切り離そうとしても不可能なほどに彼の思考を支配していた。
 どちらにしても会いたいという気持ちに偽りはないのだ。会えば元気になれる。自分も、そして……都合のいい願望かもしれないけれど、きっと、深悠も。
 珪は空腹であることすら綺麗さっぱり忘れて、意気揚々と上着を羽織った。
 身体は嘘のように軽くなっていた。






「よう葉月」
 出迎えてくれた尽は、記憶の中と寸分たがわぬ小生意気な笑顔を見せて珪を招き入れた。もっとも、最後に会ったのはほんの一週間ほど前のことだったが。挨拶もそこそこにあがりこみ、二階への階段を登る。身軽に跳ねるちいさな背中をぼんやりと眺めながら後に続いていると、少年が唐突に振りかえってにやりとした。
「たぶんねえちゃんまだ寝てるからさ。起こさないように、しずか〜にしといてくれよ?」
 その代わり寝顔は思う存分見てくれてもかまわないから。
 言われて素直にうなずく。やがてたどりついた扉の前で、尽はくるりと向き直って階段の手すりに手をかけた。
「じゃ、オレ下でごはん作ってるから。なんかあったら呼んでくれな」
 とんとん、と軽快な足音が完全に去ったのを確認してから、珪は音をたてないよう細心の注意を払いながらノブを回した。
 まずは、顔だけ入れてみる。まぶしくないようにとの配慮だろう、豆電球だけがつけられた室内が薄暗く浮かび上がる。パッチワークのベッドカバーがこんもりと盛り上がっているのが見えた。おそらくあれが深悠だ。
 珪はゆっくりと寝台に近づくと、息を殺して少女を見下ろした。豆電球のオレンジ色の光の下ではよくわからないが、若干頬が上気しているような気がする。熱は完全には下がっていないらしい。呼吸がしづらいのか、半開きになった唇から歯列がわずかにのぞく。
 あからさまな風邪の症状こそ見えるものの表情はやすらかで、珪は思わず安堵の吐息をついた。弓なりに整えられた眉も優しげな弧を描いているのみで、苦痛の片鱗は見うけられない。数日もすればすっかりよくなるだろう。
 もろもろの要素に、こわばっていた心がやっとのことでほぐれる。不安に思ったことも、尽の言葉によってすでに流れてしまっていた。それこそ、おかしいくらいにだ。
 泣いたのだと、言っていたから。
 寝こんでしまったために結果約束を破ることになり、泣きじゃくったのだと言っていたから。
 深悠が泣くのを見るのは嫌だ。どうしていいのかわからなくなる。けれど、先ほどそのことを聞いたときはいつもと違った。喜びとも取れる感情がわいてきたのもまたまぎれもない事実だった。
 彼女が涙を流したのは、自分を想っているが故だと思うことができたから。想っているのは自分だけではなくて、深悠も同じだけの不安を抱えているのだと信じることができたから。だから。
「……勝手だな、俺」
 一人ごちて、珪は深悠の目じりにたまった涙を指でぬぐった。それからすぐに手を引いて、濡れた指先に口づける。わずかに塩の味がした。声も出さずに、苦く笑う。
「…………ん……」
 荒れて乾いた唇から、細いうめきが洩れた。ぎくりとして見守る珪の目の前で、もぞもぞと布団のかたまりが動く。頬に影を落としていたまつげが、かすかに震えた。
「……珪くん?」

 見開かれた大きな瞳に、不思議そうにつむぎ出された名前に。
 おさえきれないほどの切なさを感じた。








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