占有面積(後)





 時を少し遡る。
 深悠は自室の寝台の上で、まるでこの世の終わりを迎えたかのような悲痛な声で泣きじゃくっていた。
 座り込んだ尽が、困ったような瞳で見上げてきているのはわかっている。けれど理由を説明する余裕はないし、説明しようとすらもこのときの彼女には思いつかなかった。
 せっかく珪くんから誘ってくれたのに。
 貴重な機会をふいにしたことが悔やまれてならなかった。
 つきあう時間が長くなればなるほど、見えるものも増えてくる。珪はみなが言うような強い人ではないのだ。確かに彼はなんでもできて、およそ欠点など見当たらないくらいだけれど。涼しい顔でなにごとをもそつなくこなす姿は、人間離れした超人ととられても仕方がないものだということは理解できるけれど。
 けれど、それは表面だけだ。
 実際の珪は、とても寂しがり屋で不器用で。人一倍孤独を恐れているくせに、失うことを怖がって自分から近づくことができない。
 そんな珪が、歩み寄ってきてくれるようになったのはもうずいぶんと前のこと。寄せる好意の種類が同じものだという保証はどこにもないにしても、そんなことはどうでもいいのだと思えるほどにただ嬉しくて、嬉しくて……
 なのに信頼を踏みにじるようなことをしてしまった。これを機に、再び彼との距離が開いてしまったらどうすればいいのだろう。
 涙が止まらない。のどの痛さとあいまって、熱があがるような気さえしてくる。
「……ねえちゃん、ねえちゃん」
 耐えきれなくなったのか、尽がそっと立ちあがって深悠の肩を抱いた。
「あのさ、言ってくれないと、オレ……どうしていいかわからないし。腹減ってる? それともどこか痛い? 苦しいとか?」
 言われて初めて気づく。弟の瞳は潤んで腫れぼったくなっていた。深悠のあまりにつらそうな様子に感化されてしまったのだろう、いつものどこか人を食ったような面影は少しも感じられない。
 深悠は思うとおりに空気の通ってくれないのどをひゅうひゅうと鳴らしながら、かろうじて口を開いた。
「…………いたいの」
「痛い? どこが?」
「……けいくんが……」
「葉月?」
 珪がどこかを痛めたとでも言いたいのだろうか。脈絡もなにもあったものではない。尽は訝しげに首を傾げたが、なおも言葉を続けようとする姉に気づいて注意深く口許に耳を近づけた。
「やくそく、したのに……きっと、おこっ、てる、よう…………わたし、いくって、いった……ぜったい、いくからって、いった、のに……! も、きらわれ、かも、しれな……!」
 行くと言ったのに。約束したのに。何度もぶんぶん首を縦に振って、振りすぎて、頭がくらくらした。珪はそんな自分を見て声をあげて笑っていた。無表情で有名な葉月珪が屈託なく笑っているのを聞きつけて、何事かと教室から顔を出すものまでいた始末。それは数日も前のことではないのに。
「…………」
 尽はしくしくと泣きつづける姉から机の上のカレンダーに目を移した。今日の日付には赤いインクで大きく丸印がつけてある。
 だいたい話は見えてきた。どうやら珪とでかける約束をしていたらしい。一昨日あたりからそわそわとしていたのはやはりそのせいだったのだ。下手にからかうとすごい形相をしてどこまででも追いかけてくるものだから、ここ半年ほどは怪しいと思っても口に出して指摘することはしなかったのだけれど。
 あの無愛想な珪が、深悠だけには周りが目を疑ってしまうほどに優しく接する姿をさんざん見てきた。だから尽には、一度や二度デートをすっぽかしたくらいで彼が深悠のことを見限る可能性など皆無に思える。しかし、そんなことを冷静に考えられるようならここまで悲嘆に暮れることはないのだろう。想いの大きさゆえか、強さゆえか、少し視野が狭いんじゃないかと突っ込んでやりたくならないこともないけれど。
 尽は息をついて、ごくちいさな声でやれやれとつぶやいた。
 何はともあれ、それならそれで自分にも手助けできないことはない問題だ。もっとこじれているのならともかくとしても、これなら。
「ねえちゃん、オレが話つけといてやるから」
「……でも」
 悲しげにひそめられた眉が痛々しい。まるで弱ってしまっている姉を勇気づけるように彼はいつものように明るく笑みを浮かべてみせた。
「だーいじょうぶだって! 葉月だってガキじゃないんだし、具合悪かったんだってわかればすぐに納得してくれるだろ」
 さっさと元気になって、後でもういっぺん直接謝っとけばそれで大丈夫だよ。
 自信満々にいいきる弟に、深悠はわずかに頬をゆるませてうなずいた。確かに彼の言うことにも一理ある。
「……うん。お願いね、尽」
「まかせといて〜」
 ベッドに横たわった肩に布団をかけてやりながら尽は親指を立てた。
 やがて規則正しい寝息が聞こえてきた頃。
 彼は机の上の携帯電話を取り上げると、静かに部屋を出ていった。






 夢を、見ていた。
 願望がかたちをとって現れたものだったのか、それとも現実にあったことだったのか。
『……泣かないで』
 ちいさな男の子が舌足らずの声で、それでも優しくささやく。自分はうなずいて、泣いちゃいけないと必死にこらえるのだけれど、どうしても、涙は止まってくれなくて。
『……かならず迎えにくるから』
 男の子は、ふくふくした手でそっと頬をぬぐってくれた。






「……珪くん?」
 ふと見上げると、傍らに整った容貌が寄り添っていた。それが誰なのか認識するよりも前に、唇が動く。
「……深悠」
 低く響いたささやきに、目の前にいるのが珪なのだとようやく頭で理解できて、彼女は勢いよく身を起こした。
「けっ、珪くん!?」
「ああ」
 こちらはひどく驚いているというのに、少しの動揺も見せずに同意する。薄明かりの中で、緑柱石の瞳はいつもよりも深い憂いの色をたたえて揺れていた。
 瞬間、涙があふれる。
「ごめっ……ごめんなさい! ごめんなさ……」
 傷つけた。やっぱり、彼は傷ついていた。
 言葉が続かない。そのまま両手で顔を覆ってうつむく。指の間をすり抜けてしずくが流れ落ち、ぼたぼたとたて続けにシーツに染みをつくった。視線を感じる。静謐な、透明な、視線。宝石のように綺麗な瞳から、まっすぐに自分に向かってきている。
 見つめられることすらつらくなって、深悠はおもむろに布団を頭からかぶろうとまくりあげた。間一髪、手首をつかまえられる。
「深悠」
「け……」
「深悠。怒ってない。怒ってない、俺」
「え……」
 真摯なまなざし。正面からひたと見据えてくる。珪はこういうときに嘘をつくたちではないから、本当に怒りをおぼえているわけではないというのはすぐにわかったけれど。けれど、ならどうして。
 ならばどうして、こんなに強い力でつかまえられているのだろう。深悠はおそるおそる至近距離にある瞳をのぞきこんだ。
 何か我慢をしているのではないの? 押し込めて表に出せていないものが、まだ何かあるのではないの?
 ……だから、そんな泣きそうな顔をしているんじゃないの?
「……いたい、よ」
 蚊の鳴くような声で訴えられ、珪ははっとして指を解いた。ほっとしたような顔でさする手首は、暗くてもはっきりとわかるほどに赤くなっている。彼は恥じ入るようにうつむいた。
「…………悪い」
「ううん。わたしこそ約束守れなくてごめん」
「っ、だから、それは……!」
 弾かれたように顔をあげると、深悠は儚げに微笑んだ。どきりとひとつ、珪の心臓が鳴る。深悠はもちろん、気づかない。気づくはずもない。
「……うん。わかってる。でもね、ごめんね」
 本当に。
 泣き止む兆候すらない彼女に、珪は嘆息してまばたきを繰り返した。
 ちいさな肩を震わせる少女は、やはりあの日別れを告げたときの幼い少女そのまま。泣いてはならないと自分自身に言い聞かせながらも、あふれ出る感情をもてあましてどうすることもできない子ども。
 深悠がおぼえていなくとも、彼ははっきりと思い出すことができる。姿が、ぶれて、重なった。
 あのときはどうしたのだったか。泣きつづける女の子をなんとか笑わせたくて、一生懸命に考えた自分がとった行動はどういうものだったか。
 答えは記憶から、至極簡単に導き出せた。
「……泣くな」
 華奢な身体を引き寄せて、腕の中にすっぽり包み込む。緊張しているのか硬くなった背をなだめるように叩くと、深悠はすぐに力を抜いて身を預けてきてくれた。未だ熱の下がらない深悠の体温が、布越しにじわりと伝わってくる。人肌の暖かさに、彼女のみならず珪の気持ちも少しずつ落ちついてくる。

 カチカチと、無機質な時計の音。

 蛍光灯の豆電球がじりじりと淡い光を放っている。

 カーテンの隙間から、車のライトが差しこんでは壁を照らしてすぎる。

 薄暗い室内で、二人はしばらく無言で抱き合っていた。
 ふいにくすくすと笑う気配がする。視線を落とすと、案の定楽しげな深悠の笑顔とぶつかった。
「……抱っこで泣き止むなんて、赤ん坊みたいだな」
 独りごとをつぶやくと、すかさず反撃が返ってくる。
「誰のこと言ってるんですかぁ? 珪くんのほうがよっぽど赤ちゃんみたいな性格してるくせにー」
「……そう、か?」
「そうだよ。だって……」
「葉月ー、ねえちゃん起きた?」
 突然ばん、と扉が開いた。
「つっ、尽ッ!?」
「あれ、お邪魔だった?」
 能天気に顔をのぞかせる弟に、深悠が慌てて身体を離そうとする。それを阻んでさらに力をこめた珪を尽は呆れたように眺めた。なにやら意地になっているらしい。
「家族の目の前で何やってるかね」
「ちちち違うのよ! こ、ここここれは……」
 逃れようとするのにがっちりおさえつけて離してくれない。じたばたと手だけ振り回す姉を気にする様子もなく、尽が手に持った盆を掲げてみせる。
「はいはいはい葉月、そのくらいにしといてやって。ねえちゃん昨日から何も食べてないからさ、そろそろ何か胃に入れてやんないと」
「……わかった」
 あっさり腕が解かれる。何やら低くうなりながらにらみつけてくる姉の視線を薄ら笑いで受け流してやると、少し離れたところに座りなおした珪の腹がぐうう、と鳴った。
「………………葉月?」
「……腹減った」
 そういえば朝から食事をしていないのだった。湯気の立つ粥を眺めていると、今まで忘れていた食欲が急速に呼び覚まされてくる。無言で見上げると、尽は苦笑してうなずいた。
「わかったよ。葉月も粥でいいな?」
「ああ、悪い」
「別にいーよー」
 ひらひらと手のひらを振りながら少年がドアの向こうに消える。

 それから数時間。結局、心情的にすっかり回復した上に満腹になった年長組二人は、話しこんでいるうちにそのまま眠りこけてしまったのだった。






「……あーあ、寝ちゃってるよ……。ま、いいけどね、明日休みだし」
 丸まって眠る二人の姿は、恋人同士というよりはまるで遊びつかれた仔猫かなにかのようで。
 これじゃどっちが年上なんだかわからないなあ、などとぼやきながら毛布をかけてやる尽の姿があったとか。







--END.




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あとがき。
尽くん… どうしたの尽くん……!(笑)
よくVS王子とかの図を見る彼ですが、うちの尽こんなんです…あわわわわ。
抱きつくくらいだと許してあげられるらしいです。それ以上はさすがに邪魔するだろうけど。
その夜はきっと隣の自分の部屋で聞き耳たてて、妙な物音がしようもんなら突入するに違いない。
シスコンですし(強調)
ってか普通の兄弟はだいたいそういうもんだろう(弟持ち)

元ネタはもちろんゲーム中から。
お見舞いイベント見ようと思ってストレスあげてたら、100行く直前に「日曜、予定あるか…?」て。
えええええ、王子の誘い断るなんてできやしませんよ私にはッ!(馬鹿)
かくて、ステキにすっぽかしてしまうことになったのでした。
…ひっぱったわりにたいしたオチなくてすんまそん。
内容どころか題の意味もよくわかんなくてすんまそん。
適当に読み取ってやってくだされ。