学校生活も中盤を乗り越えた二年目の秋。
大抵の生徒が楽しみにしている、『旅』の期間がやってくる。
学を修めるための旅などと銘打たれていても、彼らにとっては友人とおおっぴらに旅行ができる貴重な機会なわけで。
舞いあがらない、はずがない。
修学旅行
「静かにしなさいと言っている! きみたちは猿山の猿か!?」
修学旅行最初の目的地、京都に向かう新幹線の中。例によってアンドロイドとも噂される厳格教師は、ざわつく車内で精一杯の声を張り上げていた。常ならばその迫力に押されて黙り込むはずの生徒たちも、興奮しているのか聞き入れる様子はまったく見えない。
「一般のお客さんもいるんだぞ! 公共の迷惑を考え……」
「……ボス猿なら子分なんて一発で静かにできるはずなんだけどねえ」
だんだん枯れてきたらしいのどをおさえて憮然としている天敵の姿を座席の影から覗き見し、奈津実がいししと口許に手を当てた。二人用の座席を向かい合わせにしたボックス席の、窓際進行方向。彼女は実は、差し向かいで困ったように笑っている深悠とは別のクラスだ。席の割り当ては学級ごと、しかも出席番号順で完璧に整えられていたはずなのだが、動き出した新幹線の中で若者たちがそれにおとなしく従うはずもなく。すでに気心の知れたものたち同士が固まって、菓子をつまんだりカードを出してきたり、たわいもない雑談を交わしている。
「てゆーかさァ、そんな迷惑になるほどうるさくもしてないじゃん……何がそんなに気に食わないんだか」
ぶつぶつぼやく奈津実の隣で、文庫本に視線を落としていた志穂がふと顔を上げた。
「……私語はいっさいするなということなんでしょう。氷室先生は完璧主義だから」
「…………そんな静かな集団かえって不気味じゃないのさ……」
葬式でもあるまいし。
「ほう。不気味か」
「そうそう、不気味だってば。若者なんて元気でナンボじゃない……っ?」
はっ、と小馬鹿にしたように息をついて手をひらひら振っていた奈津実の声が、語尾で急に跳ねあがる。
見上げるとすぐそばに、氷のような微笑をたたえた天敵の立ち姿があった。ちいさくつぶやいたはずの台詞はどうやら雑音をすり抜けて彼の耳まで届いていたらしい。
「ヒヒヒヒムロッチ……!」
「……藤井。きみが乗りこむべきは隣の車両ではなかったかな? どうしてここにいる」
「えーっと、それはぁ……」
いい加減言うことをきかない生徒たちに鬱憤もたまっていたのだろう、やたら嬉しそうに追求してくる教師の攻撃をどうかわそうかと彼女が思案し始めたとき、横合いからすかさず救いの手が差し伸べられた。
「あ、あの先生!」
「なにかな菅原」
普段の素行の良さゆえか、あまり向けられる機会のない厳しい視線に深悠は萎縮しかけたが、座ったままでまっすぐに彼を見上げてこくりと生唾を飲み込む。彼女はふっと隣で眠りこけている人物を一瞥して両手をにぎりしめた。
「あの、あの、ここで言い争うと葉月くんが起きちゃうんですけど……」
それフォローになってないよ、深悠〜!
とりあえず注意のそれた奈津実が何か言いたそうに手をばたばた振るが、頓着しない。一瞬どう答えていいものやら言葉に詰まった氷室に、志穂が静かな声で追い討ちをかけた。
「……大丈夫です、先生。もし騒ぎたてるようなら私が責任を持ってこの子を追い出しますから」
「ですから、先生……」
学年を代表する才女二人にとりなされ、氷室は息をついてかぶりを振った。冷血だのゼロワンプロトタイプだの言われているが、彼も人間だ。目をかけている生徒というのはいるもので――彼女らに対しては、多少態度が軟化してしまうこともある。
「周りの迷惑にならないように。以上」
奈津実はあっさりと引き下がった背中にべえっと舌を出した。何もなかったかのように読書を再開する志穂に唇を尖らせてから、椅子に深く座りなおす。
「ったく……このアタシがこんなに静かだってのに、ヒムロッチも失礼しちゃうよね〜。だいたい志穂は本に首っ引きだし、深悠はのほほんだし、……コイツにいたっては、寝てるし」
これでどうやったら騒げるってのよっ。
つまさきで斜め前の珪の膝頭を軽く蹴る。
「奈津実っ」
慌ててたしなめる深悠ににっと笑顔を向けて、彼女はさらに靴の先でちょいちょいと珪をつついた。
「だーいじょーぶ、これくらいじゃ起きやしないって。何よねー、普段から深悠のこと独占してるくせして、寝てるときすら一緒にいろってんだから勝手だよね〜」
「そんなんじゃ……」
頬を染めてうつむいてしまった深悠に、志穂が文庫本をみつめたまま声をかける。
「深悠、ちょっと立ってごらんなさい」
「え?」
反応してぱっと反射的に立ちあがる。すかさずぐい、と手首を引かれて深悠はよろめいた。
「ひゃっ?」
ひっぱられるままに倒れこみ、何かに顔をぶつける。ぼすん、と枕のような音がした。
慌てて顔を上げると、至近距離に緑柱石の瞳。自分の手のひらは彼の胸にあてられていて、身体はすっぽり腕の中。彼女は一瞬ぽかんと口を半開きにし――事態を理解すると、みるみるうちに耳まで赤くなった。
両手を引きぬいて手すりに体重をかけなんとか立ちあがろうとするのだが、がっちりと腰にまわされた腕がそれを許してくれない。
「け、珪く……!?」
「…………………………どこか、行くのか?」
「へっ、え? え、あの、えと……」
「荷物を取るために立ったのよ。どこにも行かないわ」
しれっとした志穂の言葉に、珪はかすかに首を傾げ――眠そうに半分閉じたままのまぶたをしばたたかせて、深悠を見据えた。
「……そうなのか?」
「うっ、うん、そうなのっ! ……だから、離して、……ほしいんだけどなあ」
「ん」
どんなに力を入れてもかなわなかったのに、あっさり解放されて息をつく。笑いをかみ殺している奈津実をぎっとにらみつけると、彼女は親指をくいっと回転させて隣の志穂を指差した。
「……元凶は志穂、でしょ?」
「う」
「……別に、他意はないわ。早めに自覚しておいたほうがいいんじゃないかと思って、それだけ」
「……自覚?」
きょとんとしてたずね返してくる深悠に、志穂が読んでいた本を今度こそ完全に閉じる。
「明日と明後日の団体行動、私たち同じ班よね?」
「うん」
深悠はうなずいた。団体行動とはいっても、まさか百名近い規模の行列のままで各名所を回るわけにはいかない。移動こそ全員で行うものの、施設の中では小人数行動が原則だ。当初担任の氷室は班のメンバーまでも出席番号順に組もうとしたのだが、生徒たちの猛反発が出たことや他のクラスはみな自由だったという事実も手伝って、このことに関しては意見を強硬に押し通すことはなかった。
深悠が組んでいるのはこの場にいる珪と、志穂と、それから少し離れたところで談笑している守村桜弥。志穂も桜弥も深悠と珪にとっては気心の知れた相手だから、楽しく穏やかな旅になるに違いない。何も問題などみつからない。
……と、思うのだが。
大きな瞳をまん丸に見開いて自分を見つめる深悠に、志穂は苦笑した。
「わかってないわね。……まあ、あまりふらふらして葉月くんに心配かけないようにしなさいってこと」
「なにそれ、わたしが迷子になるって前提で話してるの?」
深悠は子供っぽく頬を膨らませたが、そんな彼女を眺めていた奈津実には志穂の危惧はもっともなものだと思えた。なにしろ深悠はぽけっとしている。何かに気を取られて立ち止まり、気づいたら姿が見えないという事態も容易に想像できる。もちろんはぐれた場合の対処法は教師陣から生徒一人一人に叩きこまれたけれど、とにかく彼女の場合一人にしておきたくないような危なっかしさがあるのだ。
ともあれ、珪がいるのだからそんなことにはならないのだろうが。
そこまで考えて、奈津実はふとむずがゆいような妙な表情をした。気づいてしまったからだ。あることに。
ああ、はぐれることは確かにないだろう。……ないだろうが、問題はその前だ。少しでも深悠が危なげなことをした場合の珪の反応こそを、志穂は恐れているのだ。
深悠がちょっと身動きしただけで、本人がその気にならない限り天地がひっくり返っても起きないと言われている眠り王子が目を覚ましたのだ。しかも、公衆の面前で堂々といちゃついて。おそらく志穂はこういうことにならないように自覚しておいて、と警告したつもりなのだろう。深悠はまったく気づいてもいないけれど。
いや、そもそもいちゃついているという感覚すらないのかもしれない。
奈津実はため息をついてシートに深く身を沈めた。にぎやかさがうりのはずの自分が、目の前で仲睦まじく昼寝をしている(いつのまにか深悠も寝ていた)バカップルの前でただ悶々と黙っているだけなんて。まったくもう、どうなっているのやら。
けれど決して不快ではない静けさに、彼女の意識もまた闇に落ちていった。
ざわつく新幹線の中、そこだけひっそり全員が寝静まったボックス席。後で見回りに来た氷室が意外そうな顔をしたことは言うまでもない。
|| INDEX || NEXT ||
だらだらと続きます。
しかし書いていて気づいた。
はば学はバスで旅行に出ていたということに…!!(笑)
自分が新幹線とフェリーだったもんで、なんの疑問もなく書いてしまっ(強制終了)
|