修学旅行(2)





 二日目の団体行動は志穂が危惧したようなことも特には起こらず、つつがなく終了した。もともと問題を起こすようなメンバーではなかったせいもあるし、桜弥は珪と相性が良く、彼を不機嫌にさせるような行動をしなかったこともある。これでたとえば、深悠に想いをよせているクラスの他の男子が同行者になっていたらどうだったことか。あとで志穂にそう洩らされた奈津実はただただ苦笑するしかなかった。
 ちなみに、清水の舞台の高さに好奇心を刺激され、柵ぎりぎりまで近寄った深悠が珪にものすごい勢いで連れ戻された挙句に移動の間もとくとくと説教されていた、などというのは志穂の中では些細なできごとに分類されてしまったようだ。


 そして、修学旅行三日目。京都を自由なメンバーで、自由なスケジュールで見て回ることを許されている日。
 制服姿の若者にうめつくされた旅館のロビー。早くも寝不足になっているらしくしきりにあくびばかりしている男子の一団のそばをすり抜け、深悠は隅のほうにぼんやりと立っている珪のところまで一気に駆け寄った。
「珪くん、おはよう!」
「……おはよう……」
 なんだか目をしょぼしょぼさせている。やはり眠いらしい。いつも以上に愛想のない珪にひるむこともなく、彼女はくすくすとひとしきり笑った。
「……深悠。今日の自由行動……」
 一緒に行かないか、と続けようとしたところで甘く高い声にさえぎられる。
「深悠さん! 早いじゃないの、感心ね」
「あ、瑞希ちゃま。おはよー」
 深悠はぱっと振りかえった。話の腰を折られてむっとした珪にも気づかず、少女たちは無邪気に朝のあいさつを交わす。これが他の人間ならば彼のかもし出すえもいわれぬ空気を察したかもしれないが、相手は傍若無人で有名な須藤瑞希である。恐れを知らぬ彼女が珪に気兼ねなどするはずもなく。
「他の方々はまだ起きていらしてないのね。ミズキを待たせるなんて、なんてことかしら」
 などとぶつぶつぼやいている。
 瑞希が部屋に続く廊下のほうを向いたのを見計らって、珪は深悠にちいさくささやきかけた。
「今日の自由行動……もしかして」
「あ、うん。瑞希ちゃまとね、あと奈津実と志穂と珠ちゃんと一緒に回ろうって約束してたの」
「……そうか」
 微妙に落ちた声のトーンを、深悠は見逃さなかった。顔をそらした彼の正面に回りこみ、慌てたように服の袖をつかむ。
「え、え、もしかして誘ってくれるつもりだった?」
「………………ああ」
「うあー……わかってたら……よかったんだけど……」
 でも先に約束してしまったし。志穂はともかく残りの三人とはクラスが違うから、昨日の団体行動で一緒に回れなかったのだ。一日くらいは女の子だけで気ままに騒ごう、と言っていたのだけれど。珪と二人きりで回るというのもなかなかに魅力的ではある。いや、なかなかどころか、とても。
 珪はううう、とうなりながら悩んでいる彼女の頭をぽんぽんとたたいた。
「気にするな。我慢する、今日のところは。……明後日は」
「あ、うん! 明後日は誰とも約束してないから! 一緒に行こう!」
 ぱっと咲いた笑顔にほっとしてうなずく。しかし一瞬後にはそれは地に吸いこまれるようにして消えた。
「あ、でも……じゃあ今日珪くん、誰とも約束してないんだよね?」
「…………」
 沈黙は肯定だ。黙り込んでしまった珪を、深悠は眉尻を下げて見上げた。
 彼を一人にしておきたくないのはもちろんだが、今日ともに行動するメンバーは女性ばかり。頼めば快く引き受けてくれるに違いないとは思うものの――誰より珪が、居心地が悪いだろう。少女ばかりにかこまれていては、口さがないものたちが彼のことをどうこう言うかもしれないし。
「どうしようう……」
「深悠。大丈夫だから、俺」
「大丈夫じゃないよっ!」
 なにやら目を潤ませて叫んだ深悠に、珪はどきりとして腕を差し出しかけたが、すんでのところで思いとどまった。かわりに一歩あとずさる。それは存外大きな一歩だったらしく、彼は後ろに立っていた人物の肩にぶつかって反射的に跳びすさろうとした。
 が。
 がしっ。
 首に腕を回されて捕まえられる。どうやら珪よりも長身なようで、面食らった彼は抵抗することも忘れてすぐ近くにあるにやにや顔をふりあおいだ。
「…………姫条」
 滅多に感情の現れないはずの声に、げんなりした色が混じる。姫条まどかは使っていないほうの手を目許に当ててよよ、と泣く真似をしてみせた。
「なんやなんや、せーっかく誘いにきたのにそのつれない態度は。泣くでオレ泣くで、ホレ」
 わざとらしく首を振る間にも、腕の力は弱まらない。力づくでふりほどくことをとりあえずはあきらめ、凍えるような目でにらみつける。
 この男は、よくわからない。
 それが珪の偽らざる感想だった。
 たしか、初めは深悠目当てで近づいてきたはずだったのだ、この男は。一年も二学期が始まり、中等部から入ってきた生徒と外部入学の生徒との壁がなくなりはじめた頃。愛らしい笑顔と明るく朗らかな性質が周囲に知れ渡り、珪が多少なりとも焦りを感じ始めた頃。やはり屈託のないまどかは、何の前触れもなく深悠の前に現れた。雑談していた自分を無視して、決して厭味を感じさせない、けれど観察するような視線を彼女に向けていたから、ずいぶんむかむかしたものだった。
 深悠にばかり話しかけて、しかも話がうまいものだから彼女もいつも楽しそうに応じて――一緒にいるはずなのに取り残されたような気分を味わったことは、一度や二度ではない。
 それなのにいつからか、彼は自分をもかまうようになったのだ。というより、今はもっぱら矛先は深悠よりも自分に向いているような気がする。何がまどかの心を変えたのかはよくわからないが、拒絶してもにらみつけてもしたたかな笑顔で近づいてくる彼は、あえてはっきり言わなくてもよくわからない相手だった。
「せやからな、深悠ちゃんたちは女の子だけで回るやろ? 俺らも男だけで回ろかーって話になってなあ」
「そうなんだ」
 二人のやり取りに、珪ははっと思考の海から引き上げられた。すっかりゆるんでいる戒めをうるさそうに外して腕を回す。顔をしかめながらコキコキと肩を鳴らしている彼に気づいて、まどかは愉快そうに笑った。
「あースマンスマン、すっかり忘れとったわ。力入れすぎた」
「……別に」
 無愛想に応じる。とりあえず彼を深悠から引き離してしまいたかった。今ではもうまどかから露骨なものを感じることはないけれど、それでも自分には余裕というやつが極端に不足しているのだ。
「ま、そういうわけでな。葉月は俺らと回るから深悠ちゃんも女の子同士で楽しんで来いや〜」
「いつそんなことに……」
「うん! よかったねえ、珪くん」
 反論は深悠に封じ込められた。なんだかやけに嬉しそうだ。そんなに俺と回るのが嫌か、と一瞬とてつもなく自虐的な考えが頭をかすめたが、まさかそんなはずはない。彼女はただ同性の友人が珪を気遣ったというその事実が嬉しかったのだろう。誰よりも、彼が内に抱える孤独を理解しているがゆえに。
 珪は息をついてまどかに向き直った。一人でも一向にかまわなかったのだが、おそらくは好意からの提案を無碍に振り払うこともあるまい。
「……他の奴らは?」
「もうちょいしたら来るはずやねんけどなあ。遅いなあ」
 そうこうしている間に深悠の同行者はそろったようだ。廊下の奥から志穂と珠美が駆けてくる。遅れて現れた奈津実は珪の傍らに親しげに立つまどかをみとめて口の端をあげた。からかうような視線にまどかは彼女と同じような笑みで、珪は無表情で応える。
「なあ藤井、俺らの残りのメンバー見かけんかったか?」
「あー、見てない。なに、まだ来てないの?」
 固有名詞抜きでいきなり会話を始めた二人を見て、珪は合点がいったように一人うなずいた。いつのまに相談したのやら知らないが、まどかが珪を連れていくということは思いつきではなく前もっての合意の上だったらしい。……あくまで本人の意向は無視されているが。
 なんやまだかいな、とぼやいたまどかに珠美がおずおずと声をかける。
「私、お手洗いのとこで三原くんとすれ違ったよ。ご機嫌だったみたいで、なにかの歌口ずさんでた」
 その名を聞いた途端、珪はさっと身を翻して歩き出そうとした。くんっ、とひっぱられる。
 力の出所を見れば、それは案の定。
「……放せ」
「なんや無体やな〜。王子同士仲良うしたらええもんを」
 彼はすっと目を細めてへらへら笑う関西人をねめつけた。今日これからやってくる面子の予想がついてしまってうんざりしたからこそ、そして不機嫌な自分が周囲にどれほど威圧的な空気を撒き散らすかを知っているからこそさっさと立ち去ろうとしたのに。いや、最初から予想してしかるべきだった。
 まどかには、不本意ながらもう慣れた。桜弥とは多少なりとも共通の話題があるし、和馬はあっけらかんとしていて必要以上に踏みこんでくることがない。だから、いい。
 問題は今話題になった、三原。三原色だ。
 自他ともに認める『天才芸術家』の彼は、美しいものをこよなく愛しているのだと言ってはばからない。なぜかは知らないが珪の容姿を気にいっているらしく、顔を合わせれば絵のモデルになれとうるさいから極力避けるようにしていたというのに。わかってやっているのだ、この男は。わかっていて、おもしろがっている。心底から。
「俺は……」
 地の底をはうような声でしかけた反論は、しかし明るい声によってさえぎられた。
 よりにもよって彼の最愛の少女――本人は一向に気づいていないけれども――深悠の声で。
「えー、姫条くん珪くんと色サマのこと王子って呼んでるの?」
 一歩踏み出しかけていた珪がかくり、と膝を折る。そんな彼をおもしろそうに一瞥し、まどかは調子に乗って何度も首を縦に振った。
「おう、ときどきな。まあ三原はな、王子やのうてプランス、ちゅうとるけど」
「ちょっと! 正しくは"プラァンス"よ、下手な発音で色サマのイメージを汚さないで!」
 なんだそれは。ボケツッコミ二人組と、最強お嬢と。それ以外のその場にいたものたちは全員内心でそう思ったが、賢明にも口に出すことはしなかった。
 深悠が楽しそうに続ける。
「そっかー、そうだねえ。色サマ綺麗だし、いかにも王子さまって感じするもんねー」
「せやろ?」
 いっやー、深悠ちゃんならわかってくれると思うとったわ!
「おい……」
 いたく感激した面持ちで深悠の手を握りしめたまどかに珪がまなじりを吊り上げて何かを言いかける。深悠はそんな彼の様子にも気づかず、今度はぱっと振りかえって満面の笑顔で珪を見上げた。
「うんうん、で、珪くんも"王子"なんだよね? 珪くんかっこいいもんねえ、ぴったりのあだなだねえ」
「……え、と」
 きらきら輝く瞳が無邪気に珪を貫く。珪は口を開きかけた状態のままで固まった。遠巻きに集中するいくつもの視線も、今の彼には届いていないに違いない。少し離れた場所に立っていた奈津実にも、珪の目許がほんのり染まるさまがはっきりと確認できた。どよどよ、と静かなざわめきが広がってゆく。鉄面皮葉月の照れた顔など、こんな機会でもなければ一生拝めるものではあるまい。
 やがて、彼はようやく硬直から立ち直ったものかぼそぼそ、と聞き取りにくい音量でつぶやいた。
「…………名前、呼んで。普通に」
「あ、ごめんごめん」
 深悠はぺろりと舌を出した。珪がそういう物言いを嫌っていることは知っている。けれどこれではっきりした。級友たちがひそひそと話しているときの"王子"とはおそらく彼のことを指していたのだろう。なんのことかさっぱりわからなくて、この学校には童話が好きなひとが多いのかしら、などと見当違いなことを考えていたのだが、その謎が解けたわけだ。
「ごめんね珪くん。王子なんてわたしは絶対に呼ばないから、安心してね」
「……そうしてくれ」
 大きな手のひらが、ちいさな頭の上にやわらかく降りてくる。なでられてちいさな子供のような笑顔を浮かべる深悠に、珪も優しく笑いかけて。

 そうこうしているうちに結局珪は色にみつかってしまい、追われるようにして自由行動に出発したのだった。
 全速力で駆け去ってゆくその後姿を見て、奈津実は腹を抱えて爆笑していたという。
 後日、深悠から聞いた話。








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人前でさりげにいちゃつくバカップル。あくまでさりげに。まるでギャグ。
ばんざい(何)

同級生全員の名前を出すというのもこの話の目的ですが、目立つ人はやっぱり決まってるようです。
守村くんはともかく、志穂さんはゲーム中だと別クラスだけど…
まあ、よかろ。このくらい捏造しても。

関係ないけど色サマのフルネームは「みはらしき」ではなく「さんげんしょく」といれて変換しました。
……やるでしょ? え、やらない?(馬鹿)