距離。
 最初はきっと、遠かった。
 少しずつ縮まるそれが心地よくて、だから。
 そも近づくことができたのは何故だったのか、いつのまにかすっかり失念していたのだ。




近づく





 今日で一週間。
 に、なるはずだ。
 珪はあくびをかみ殺しながら、急ぎ足で校庭をゆく生徒たちの後姿を眺めていた。
 何が一週間なのかといえば、今現在もっとも親しい友人――菅原深悠と彼が、あまり話さなくなってからの日数を指している。もちろん同じクラスの友人であるとはいえ、まさか同性の友人のように始終べったりくっついているわけではないし、あいさつだけ交わして終わってしまう日もある。だから最初のうちはあまり気にしていなかったのだけれど。どうやら会話が減ったのは偶然ではなく、深悠が意図的にその機会を避けているらしいと、そう気づいたのは一昨日のことだった。
 笑顔は変わらず向けてくる。
 話しかければ嬉しそうに応じてくるし、その態度に隔意も感じられない。
 それなのに、一緒にすごす時間だけが確実に少なくなっているのだ。まるで近づき始めた距離を元に戻そうとしているかのような彼女の行動にはいったいどんな意味が込められているのだろう。珪には見当もつかなかった。
 とりあえず、嫌われたわけでないのならいい。そう思う。自分と近づきすぎることによって生じる弊害は、恐らく利益をも上回って余りあるだろうから。つかず離れずの関係を保って、踏みこみすぎない程度に友人として仲良くしていられれば、それでいい。
 彼女は、覚えていないのだから。
「葉月くん、おはよう!」
 たった今思い描いていた人物の声に、珪は弾かれたように振りかえった。数歩後ろまで迫っていた深悠がその勢いに驚いてただでさえ大きな瞳を見開く。それからゆったり微笑んで、彼女は小走りで追いついてきて珪の隣に並んだ。
 すっかり冷たくなった大気を切り裂いて、白い息が空に昇ってゆく。
「ねえねえ、数学の宿題やってきた?」
「……宿題?」
「あ、れ? もしかして、寝てた?」
「ああ」
 深悠は立ち止まって少しばかり思案していたが、やがて再び歩き出した。
「……うん、まあ葉月くんなら大丈夫だと思うよ」
「……そうなのか?」
 彼らの数学教科を担当している氷室の厳しいことは、学園中で有名だ。少しでも学生らしからぬ素行をとれば長時間のお説教と反省文の提出まで迫られるという、いまどき珍しいくらいの熱心な教師である。忘れ物などという典型的な失敗を、果たしてなんのお咎めもなく見逃してくれるかどうか。
 わずかに目を眇めて深刻な表情を作った珪を安心させるように彼女は笑って、持っていたかばんからごそごそと本を取り出してみせた。
「大丈夫だよ。えとね、問題集の二百三十ページから……三十五ページまでの、演習問題をやっておきなさいってことだから。答えあわせを授業中にやるんだって。葉月くんならその場で解けるでしょ?」
「ああ、……そんなことか」
「そう。"そんなこと"だよね」
 茶目っ気たっぷりに瞳をくるくると動かすさまが愛らしくて、思わず頬がゆるむ。会話を続けようと口を開きかけたとき、深悠は「あっ」と声を上げて大きく手を振った。
「有沢さーん!」
 先を行っていた長身の少女が振り向く。眉をひそめ、少し唇を動かし。口許に当てられた人差し指は『そんなに大声出さないで』とでも言いたいのだろうか。
「じゃあね、葉月くん。また教室でね〜」
「……ん」
 ぱたぱたと軽い足音が遠ざかってゆく。珪はのどまで出かかっていた言葉を吐息に変えて吐き出した。
 まただ。また、話を途中で打ちきられた。
 深悠は本人が思っているよりもはるかに、人の感情の機微やその場の雰囲気に疎い。だから誰かが何か言おうと思っていても、罪のない笑顔で遮られてしまうこともしばしば。けれどおそらく、先ほどの会話はわざと中断させられたのだ。わざと。
 ここ数日はずっとこんな状態が続いていた。避けられていると言ってしまえば大袈裟で、けれど積極的に近づいてこようともしない。一定時間以上ともにいることを厭うているようなふしがある。
 弾む足取りで離れてゆく後姿を珪はじっと見送った。深悠が追いつくのを待って、呼びかけられた女生徒――志穂が、前に向き直る。いつのまにやら足が止まっていたことに気づいて、彼はかぶりを振ってかばんを持ち直した。
 今しがた、つかず離れずの関係をこのまま保っていこうと思ったばかりなのに。彼女はいつのまにか、予想以上に自分の心を浸食してくれていたようだ。
「……まあ、こんなもんだろ」
 友人の距離としては、妥当なものだと。
 そう自分に言い聞かせて、珪は言葉とは裏腹に浮かない顔でひとりごちた。






「見ぃて、た、よーん」
 廊下で志穂と別れ教室に入ると、すでに登校していた友人は挨拶もそこそこに、そんな言葉を投げかけてきた。
「奈津実、珠ちゃん。おはよ」
「おはよう、深悠ちゃん」
 窓際の席。隙間風の吹きぬける校舎において、冬場に暖を取れる貴重な場所だ。行儀悪く机に座っていた奈津実は、深悠が近づいてくるのを見計らってさっと脇の椅子をひいて腰掛けた。
「何を見てたの?」
 視線はかばんの中。せっせと教科書を取り出しながら尋ねる。毎度毎度辞書なんかよく持って帰るわね、とつぶやく友人の言に苦笑しながらがたがたと机を鳴らす。
「そりゃアンタと葉月に決まってんじゃん。公衆の面前で堂々とアイツに声かけるの、アンタくらいなもんよ?」
「……そう、かなあ?」
 深悠は手を止めて首をかしげた。彼女はひとしきり考えた後、そばでにこにこしていた珠美に顔を向けた。
「人前で話しかけないほうがいいと思う?」
「えっ」
 珠美が驚いたように目を見張るのと、奈津実が素っ頓狂な声をあげるのはほぼ同時だった。
「なに言ってんの!? なに、まさか今更人目気にしたりしてる?」
「深悠ちゃん!?」
「あいや、そうじゃないけど」
 人目などそれほど気にはならない。これは事実だ。いや、気にしたほうがいいものであることはわかっているのだが、そもそも学校で顔見知りに会ったのに挨拶もせずに無視、というほうがよっぽど問題のような気がする。
 曖昧な笑いを顔に貼りつけて黙ってしまった深悠に、友人二人が顔を見合わせる。奈津実はふと、彼女の手に握られた淡い桃色の封筒に目を止めた。
「……何コレ。また?」
「え、何が?」
 ぱちぱちと瞬きする深悠にかまわず封筒をひったくる。慌てて取り返そうとしてくる彼女を珠美が押さえている間に、奈津実は筆入れからはさみを取り出して注意深く封を切った。振る。
 かさ、と軽い音とともに、机の上に一枚の便箋がすべり出てきた。決まり悪そうにしている深悠に、無言で手渡してやる。文面を追っていた瞳に苦笑が浮かび――やがてそれは、顔中に広がった。
「いつもの?」
「……うーん、わからないけど。用件は同じ……みたい」
「っかーッ!」
 奈津実は身悶えして髪をかきむしった。
「奈津実ってば。だいたいいつもってほどじゃないんだよ? 一週間にいっぺんあるかないかくらいだもん」
「そういう問題じゃないでしょうがッ!」
 怒声をあげる友人におかまいなく、深悠は便箋を光にすかしたりしている。いくら慣れたとはいえ、あまりにあっけらかんとしたその様子には不安にもなるというものだろう。珠美は心細そうに深悠によりそった。
「誰だろうね……気持ち、悪いよね」
「うーん、まあねえ」
「怒りなさいアンタはーっ!」
 なおも奈津実は喚きつづける。クラスメイトの注目を一身に浴びても動じないのはさすがだが、あまり騒ぐと噂になってしまうだろう。そうすれば誰がささやかずとも珪は察する。察してしまったら――……
「奈津実。いいから、落ちついて」
 深悠はふわりと奈津実に抱きついた。彼女とて腹がたたないわけではないのだ。けれど、話を聞きつけた奈津実やその他友人たちが烈火の如くに怒ってくれるものだから、そちらに癒されてしまってたいした衝撃にならない。感謝をこめてぽんぽんと背中をたたくと、奈津実は不満そうにしつつもとりあえずは落ちついたらしかった。珠美に手を取られながら、憮然とした表情で床を見つめている。
「だって。最近アンタ、葉月と挨拶くらいしかしてないじゃない」
 以前は周りがはらはらするくらいにまとわりついていたのに。最近妙にさっぱりして。
 さっきだってそうだ。てっきりあのまま一緒に教室までやってくると思っていたのに。前を歩いていた志穂に声をかけたのは、挨拶以上に珪から離れる口実が欲しかったに違いない。
「……気にしてないって言いながら、けっこうなダメージになってるってことじゃないの?」
 奈津実にとっては、葉月珪は未だ好意を寄せるほどの対象ではない。ようやく嫌悪感が薄れ、隔意なく見られるようになってきたくらいだ。それでも、深悠が珪と親しくなりたいと思っているのは彼女の態度から簡単に読みとれたし――珪のほうとて嫌がる素振りを見せていないとあれば、望みのままに近づいてもいいではないかと思ったのだ。ひとの絆はそのひとたち自身の財産。周囲の思惑になどとらわれる筋合いはない。どこにも。
 それなのに、深悠がどこにいるのかもわからない"ファン"とやらに気兼ねしているように見えるのは、ときおり思い出したように届くこの手紙やその他、嫌がらせのせい。
 腹立たしい。自分から近づく度胸もないくせに、ひとりよがりな意思だけは通したいなどと。
 がたがたと扉が開く。うつむき加減の珪が入ってきたのを視界の端でとらえて、深悠は二人に目配せして話の打ちきりを伝えた。ことの顛末は教室にいたほぼ全員が聞きつけているだろうが、わざわざ彼に耳打ちするものはいないだろう、きっと。そんなに深刻な事態になっているわけでもないのだから。
 深悠は淡く微笑んでささやいた。
「……だいじょうぶ。顔も名前も見せないで、ただ影から言いたいことだけぶつけてこようとするひとになんか、わたしは負けないから」
 それは決意でも覚悟でもなんでもなく、ただ、事実だ。







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