影から顔を見せないで、悪意だけぶつける。
そんな輩には負けないと、確かに言った。
その通りだ。負けたと思ったことはないし、実際初夏から始まって今――木枯らしの吹きすさぶ冬になるまでときおり思い出したように行われていた嫌がらせの数々は、彼女にとってなんの障害にもなり得なかった。
珪に近づきたいのなら近づけばいい。同じ学校に所属している強みで、手はいくらでもあるのだから。それができないというのなら、彼女の行動に文句をつける権利などありはしない。
けれど。
忘れていた。
彼女よりも、より"彼に近い立場の人間"は、確かにその権限を有しているのかもしれないということを。
近づく(2)
「はあ……」
本日、もはや何度目なのかを数える気にもなれないため息。
西日の差し込み始めた放課後の教室で、深悠は一人机に突っ伏して物思いにふけっていた。
無意識に固定された視線の向く先は、主のいない机。すでに帰宅したのだろう、鞄も何もかかっていない席には、いつもそこに座っている人物の気配は残っていない。
「……そろそろ変だと思ってるよねえ……」
左腕にのせていた頭の向きを変えて今度は右肩に移動させ、つぶやく。
珪とあまり話さないように心がけるようになったのは、一週間ほど前のこと。はじめの頃とはくらべものにならないほど気さくに話しかけてくれるようになっていた彼が、何かに気づいたのかはたまた気を使ってか、自ら近づかなくなってきたのが昨日あたりから。
ときおりかち合う視線の中には問いかけるような光があって、微妙に態度を変えてしまった自分に対して腹をたてているわけではないことはわかっているけれど。それが苛だちに、そして怒りに変わるまで、さほどの時間はかからないだろう。
おしゃべりができないぶん、挨拶は少々強引なくらいに毎日交わしている。少ない会話の機会を充分に活用して笑顔を振りまいて、嫌いになったわけではないのだと必死で主張して。
近づきすぎてはならない。でも、完全に離れてしまうのは寂しい。なんて都合のいい関係を望んでいるのだろう、自分は。でも、思うのだ。せっかく仲良くなれたのに、いつのまにやら開いていた距離感でもって他人を見るような目で見られたら、もう立ち直れなくなってしまうかもしれないと。
「……うぅ……」
誰もいないのがわかっているからこそできること。いつもはこころの中に閉じ込めている感情を、思うがまま声にして吐き出すこと。
「…………もっと、おはなし、……したいよぉ……」
深悠は頭を抱えてちいさなちいさな声でつぶやいた。言葉にすれば想いはあふれる。枯れることなんてない。それは無限で、果てもなく、とどまることを知らない。
本当はもっともっと近くに行きたいのだ。ようやく頻繁に笑顔を見せてくれるようになって、さあこれからもっともっと仲良くなるぞとはりきっていたのに。たちまちのうちににじんだ視界を慌てて手の甲でこすって、深悠は背筋をしゃんと伸ばした。
耳によみがえるのは深く落ちついた声。まぶたを閉じれば、強い意思を宿した黒曜石の瞳もありありと思い浮かべることができる。
"珪に近づかないで"
あのひとは、そう言った。
校章の色から考えるに、三年生だったのだと思う。有無を言わせずに校舎裏まで連れて行かれて、三人がかりで逃げ道をふさがれた。そこまで行けば、いくら友人連に日ごろから鈍感、鈍感と口うるさく言われつづけている深悠でも、理由はともかくとして何をされるかの見当はつく。どうにかして逃れるすべはないものかと思考をめまぐるしく回転させていた深悠に、けれど彼女たちは何もしなかった。
ただ一言、言ったのだ。
"珪に近づかないで"
と。
正面からひたと彼女の目を見据えて、きっぱりした口調で。かろうじて友達なんですと訴えることはできたが、顔色ひとつ変えてくれなかった。
友人として親しくなるのは自由だ。同じ学級に所属しているのだから、まさか会話するななどと言うつもりはないと。
"限度を越えなければいいの。でも、あなたのは度を越してる"
あなたが珪の恋人だって噂がたったら、嫌なのよ。
リーダー格なのだろうか、さらさらと音をたてそうなほどまっすぐで綺麗な黒髪をゆらして、真剣な瞳をして、少女は言った。背後で友人らしい少女が二人うなずいている。決して刺々しくはない雰囲気で、それなのに息がつまるような緊張を強いられた。
落ちついて、大人っぽい。ごく薄くルージュのひかれた唇は、同性の深悠から見ても魅力的で。そんな彼女の口から出た彼の名前は、まるで深悠の知らないひとのものであるかのように違和感なく声の中に溶けていた。
今までは、彼に近づくなという声はすべて間接的に伝えられてきたものだった。あるときは、さわさわと流れてくるざわめきの中にまぎれて。またあるときは、靴箱の中にいつのまにか入れられていた手紙という形で。
直接言われたのは初めてだ。
だから自分は決めたのだ。珪と、必要以上に親しくはならないと。おどすでもなく言い含めるようにして伝えられる言葉は、そのまま珪と目の前の彼女の親密さを表しているような気がした。苦しくて苦しくて、再度確認するように質問してくる声にほんとうはうなずきたくなんてなかったけれど、それでも少女の瞳の真剣さに、そこにひそむ想いに、負けたと思ったのだ。
珪だってきっと嫌だろう。あの少女に深悠との仲を勘ぐられるなど。
でもきっと、彼は自分のことを友人程度には思ってくれている。せっかく手に入れた友人の座を手放すなど絶対に嫌だと思うから。
だから、近づきすぎず、そして離れず、微妙な距離を保ったままでいなければならない。
のに。
「……一週間で、挫折しかけ? 我ながら根性ないよね……」
深悠は力なく笑った。
どうやら、眠ってしまっていたらしかった。
急にまぶしさを感じて、重いまぶたを持ち上げる。光に慣れない目をこすりながら頭をあげると、覗きこむようにして顔を近づけてきていた少年と目が合った。
「………………。姫条、くん?」
「おう」
うなずく。ぱっと広がった人懐こい笑顔につられて笑い返すと、すぐそばから咳ばらいが聞こえた。
「……先生……」
呆けたようなつぶやきに、不機嫌そうな顔つきがますますゆがむ。氷室はいつも硬く口許を引き結んでいるが、今日はさらに苦虫をかみつぶしたような、それでいて困っているような、なんとも微妙な表情で彼女を見下ろしていた。
「……菅原。きみが私のところに日誌を届けに来たのは四時すぎだったと記憶しているが」
「あ、はい。そうです」
「では何故こんなところにいる? もう下校時刻はとっくにすぎている。姫条がみつけてくれなかったら、きみはこのまま学校で夜明かしをするところだったんだぞ」
「えっ!?」
深悠は驚いて窓の外を振りかえった。そういえば、室内を照らす明かりは西日ではなくさえざえとした蛍光灯の光だ。日は完全に暮れて、宵の気配すら消えている。
「い、今何時ですか?」
「七時半をまわったところだ」
「うわあ……」
深悠は頭を抱えた。うじうじと悩んでいたのが五時少し前だったとして、あのまま二時間以上もここで眠っていたことになるのか。そろそろ家族は心配しているかもしれない。いくら悩みを抱えていたとしても、人に無用な心配を与えるのは嫌だった。責めるでもなくじっと見守ってくれている氷室とまどかにも、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「あ、ありがとう姫条くん。すみません先生、すぐに帰りますから」
言って彼女は立ち上がった。ふっと視界が白くなる。
「おっと」
よろめいた深悠の肩を、まどかがさっと支えた。ふらつく足元をもてあましている彼女に氷室は気遣わしげな視線を向ける。
「私が送っていってやれれば良かったのだが。……姫条、もし都合がつくなら……」
「了解〜」
「え、いいよ……」
慌てて手を振る。その拍子に身体が机にぶつかり騒々しい音を奏でた。呆れたようにため息をついて、氷室が額に手を当てる。
「……そんな様子で一人で帰せるわけがないだろう。途中で野垂れ死んでいやしないかと心配になってしまう」
「の、野垂れ死にって……」
口をぱくぱくさせて絶句している深悠に彼は言い過ぎたと思ったのか、軽くかぶりを振ると教室の入り口に向かった。
「それでは、また明日。姫条、頼むぞ」
「ハイハイ……ホラ、深悠ちゃん」
まどかは手を差し出した。大きな手と、色黒の笑顔と。二度ほど見比べてから、恐る恐る指をのばす。力強い腕はぐらつく視界に安定感をもたらしてくれて、深悠は知らず吐息をついた。
「……ごめんね、姫条くん。うち遠いのに」
「ええってええって! ……と、帰る前にな」
「なに?」
彼は優しげなまなざしをして自分の目許を指差した。
「……顔、洗っとかんと。家族心配するで」
つられて触れた頬は確かに濡れていて、彼女はいたたまれない気持ちでうつむいた。おそらく、氷室も気づいていたのだろう。だからこそ、理由も何も問いただすことをせずに黙って去ってくれた。
じわりと目頭が熱くなる。
「深悠ちゃん?」
「……ごめん。……も、いっかい……」
深悠は両手で顔をおおった。肩を抱こうとしてくれる手をやんわりと断り、その場にうずくまる。
彼らの優しさが身にしみたのか、心配をかけてしまった自分への情けなさか。
それとも、珪への恋しさなのか。
すべてがごちゃまぜになって、しずくになってあふれだしてくる。
声もなく泣きつづける深悠をみおろして、まどかはちいさく嘆息した。
彼の視線の先で、主のいない机は、少女の嗚咽にも反応することなくただ静かにたたずんでいた。
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いわゆる「蛇の生殺し」状態を要求されたわけですね。
そして深悠は早とちりしすぎ(笑)
押してもだめなら引いてみな作戦が見事ヒットしたわけですよ(意味わかりません)
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