あの日、生まれた想いは。
 自分の中に初めてみつけた、弱さ、だった。




近づく(5)





 その姿を見たときは、思わず目を疑った。
 けれど、間違えない。間違えられるはずがない。橙色の灯りを弾いて輝く淡茶の髪。人波の間をすいすいと、かなりの速度で移動している。二人を隔てるものはわずかに数人の生徒だけで、彼がこちらを向けば、みつかってしまうことは確実だった。
 だから逃げ出したのだ。
 珪が校庭でまどかと言い争っていたときは、何も考えていなかった。ただ止めなければと、それだけの思いで彼にすがりついた。
 あのときの彼の瞳の色は、瞼裏にしっかりと焼きついている。
 途方にくれた子供のような、向かう先の定まらない瞳。心臓に素手で触れられたような錯覚さえ覚えた。
 そしてあのときの瞳のまま、彼は自分を探すのだ。近づいてこなかった数日の間にようやく計ることができかけていた距離の取り方が、一気に崩壊した。
 知らない。積極的に近づいてくる葉月くんなんか、知らない。
 珪は他人に近づきたがらない。人嫌いなのだろうとか、お高くとまっているのだろうとか、憶測から生まれた噂だけはそれこそいくつもいくつも飛び交っていたけれど。そのどれも的を射ているとは言えないということが、今の深悠にはなんとなくわかっていた。
 何故ならきっと、彼と自分は同じだから。
 いずれ訪れる別れを恐れる心。一度懐に入れたものを冷たく突き放すことができないという性質は、裏を返せばそういうことだ。
 もっとも、彼女にとっての別れというものは、いわば日常茶飯事だった。父の仕事の都合で転居の連続だったのだから。物心ついてからというもの、いつかは別れなければならないと思いながらも友人をつくっては別れ、つくっては別れることを繰り返してきた。別れのたびに泣いて泣いて、それでも次に待つ出会いに思いを馳せることでなんとか乗り越えてきた。
 いつ終わるとも知れぬ連鎖のおかげで、すでに耐性がついているはずだとばかり思っていたのに。先日さされた釘は、今ではただの言い訳に成り下がっていた。
 珪にあこがれる少女たちの気持ちを慮っているわけではない。ただ単純に、自分自身の感情に押し流されるままに動いてしまっている。他人のことを思いやることもできない、自分の気持ちしか見えていない、ちっぽけで勝手な自身を自覚する。
 近づけば近づくほど思い知らされるのだ。彼に惹かれてゆく自分のこころ。次に来る出会いなんて待てない。ただ珪と離れたくない。
 彼の一番になることができれば、そうと望まれれば、ずっとともにいられる可能性は飛躍的に増すかもしれないと考えた。けれど、あのきれいなひとがいる以上、それは望めるべくもないことで。
 つまりは、別れは確実に訪れるということで。
 それならば。
「……遠くから見てるだけでいいもん……」
 声に出してつぶやいて、深悠はえんじ色のカーテンをそっと開けた。夕方から降り続いていた雪は今はおちついているようだ。よく磨かれた窓は室内の景色を鏡のように映し出していた。
 額をくっつけて、光を遮る。そうしてようやく、きらびやかに飾りつけられたクリスマスツリーをはっきりと見ることができる。かなりの高さがあるはずの木には、けれどすべて天辺にまでしっかり輝く星の飾りがくくりつけられていた。
 思い出作り、なのだそうだ。天之橋邸の庭には何種類もの木々が植えられている。そのすべてに、高等部の三年生が総出で飾りつけをする。初等部からともにすごす生徒が大半であるこの学園で、それぞれの道が分かたれるまで数ヶ月を残すばかりとなるこの季節に。なかには七夕のように、願い事を書いた紙をひっそりぶらさげるものもいるのだと、奈津実が楽しそうに教えてくれた。
 外は寒いというのに、かなりの生徒が外套も持たずツリーのそばで談笑している。きっとみな三年生だろう。間近に迫った別れを前に、彼らはいったいどんな気持ちでいるのだろうか。
 こつ、と背後で靴音がした。はっとして窓から顔を離すと、ガラスは再び室内の様子を映し出す。長い黒髪の先が見えて、深悠は何故かほっとした。
 珪でなければ、いい。このひとの顔を見ても胸がちくちくすることは事実だけれど、痛みの度合いがはるかに違う。
 彼女は振り返り、淡い笑顔を浮かべた。
「こんばんは」
「……こんばんは。ひとりなの?」
 はいとうなずくと、やわらかな笑みが返ってくる。深悠は差し出されるグラスを軽く頭を下げて受け取り、口をつけた。
 飲み物のおかげで口をきかなくてすむのはありがたい。ちらと横目で見た窓には、自分自身の穏やかな横顔が映っている。
 ……大丈夫。
 大丈夫、わたしは今、ちゃんと笑えてる。
 内心で再確認して、けれど彼女は直後に鏡に映った姿に身体を硬直させた。






「……みつけた……」
 吐息のような声に全身がしびれる。口をぱくぱくさせても、言葉は出てこない。乾ききった唇を舌で湿らせてみても、出てきたのは意味も取れない、間抜けなうめき声だけだった。
「……あ……」
 たったいま思い描いていたひとの姿が、そこにあった。
 会場中を走りまわっていたのだろうか。少し息が乱れている。珪は鬱陶しそうにスーツの襟をゆるめると、深悠をまっすぐ見据えた。それだけで足が根を生やしたように動かなくなる。
「珪……」
 隣の少女がちいさくつぶやいた。眉をひそめた彼の視線がそちらに向くと同時に我に返る。
 そうだ。もし珪が自分を探していたのだとしても、この彼女と自分とどちらを優先させるかといえば、きっと彼女のほうだろう。
 まだ平然と話すだけの心の整理がついていないのだ。今向き合えば、自分の気持ちしか見えなくなる。あふれる出る感情をそのままぶつけても、困らせるだけだ。まだ時間が足りない。気持ちを整理するだけの、時間が欲しい。
 逃げられる、今なら。
 このひとがここにいる、今なら。
「はっ……づき、くん。あっ、わたしお邪魔だよね? ごめんね、気が利かなくて。すぐにあっち行くから……それじゃ、失礼します」
 最後の言葉はかたわらの少女に向けて、深悠はうわずった声で一方的に宣言すると、するりと珪の脇をすり抜けようとした。
 手首をつかまえられる。目に見えて震えた深悠に、彼は戸惑ったように一瞬力をゆるめたが、それに気づいた彼女が身を翻す前に再び指に力を込めた。
「……誰が、邪魔?」
 ……逃げられない。
 せめてもの抵抗に目をそらしたまま答える。
「………………わたしが……」
「どうして」
 あらためて言わなければわからないのだろうか。いつもとろいだの鈍いだのさんざん言うけれど、それは彼のほうにこそあてはまるのではないだろうか。
「……わざとなの?」
「なにがだ?」
 訝しげな声。はっとする。
 そんなはずない。珪の言動にはいつも、悪意などなかった。罪のない冗談やからかい混じりのちいさな嘘はあっても、その根底にあったのは、あたたかいもの。
 そんなはずないのに、疑って、そしてわざと傷つけるような言葉を選ぶ。
 きたない。わたしのこころ、きたない。
 急速に視界がにじんできた。彼女はふるふるとかぶりを振ると、床をみつめてなんとか声を搾り出した。
「……ごめん。なんでもない」
「最近変だ、おまえ」
 珪がささやいて深悠の肩に手をかける。うつむいたままの彼女に嘆息してから、かたわらに目を向ける。鋭い視線に射ぬかれて少女はたじろいだが、もちろん深悠は気づかなかった。すっと緑柱石の瞳が細くなる。
「……こいつのせいか? ……何かされたのか」
「なっ、何もされてないよ!」
 深悠は弾かれたように顔をあげた。
「ほんとだよ、何もされてない! そんなひとじゃないって、葉月くんは知ってるんでしょう!?」
「……?」
 必死に言い募る瞳は真剣そのものだ。一瞬かばっているのかとも思ったが、最後の言葉が珪の意識の端に引っかかった。
「知ってる? なんで、俺が」
「え……だって知り合いじゃないの?」
 深悠は瞳をしばたたかせて二人を見比べた。容姿も、雰囲気も。見るからにお似合いの二人。
 本当は彼女じゃないのと聞きたかったが、それははばかられた。そんなことを聞いたところで答えが返ってくるとは思えなかったし、もし何のてらいもなく「そうだ」とうなずかれたら。
 限界、だ。
 ぽつりと涙の粒が落ちた。
「おい……」
 身体をゆらされる。感情をあまり表に出さないはずの彼がおろおろしているのは、顔を見るまでもなく気配だけでわかる。
「うっ……ひっ……」
 駄目だ。止めないと、止めないと。弱みをみせて優しさを買おうなど、そんなことはしたくない。
 したくない、のに。
 止まらない。
 珪はやんわりと深悠の肩を抱くと、自らの腕でかばうようにしながらその場から連れ出した。






 冬の大気は、澄んでいる。月影と雲さえなければ、星々は他のどの季節にもまして冴えた光を放ち、昼の弱い日差しを補うかのように輝いてみせる。
 屋敷の裏庭をのぞむテラス。やはり鬱蒼と茂った木々に律儀に飾りつけられたランプがちかちか光っていたが、庭には人の姿はほとんど見られなかった。
 どうやら穴場、らしい。
 喧騒がどこか遠くに行ってしまったような場所で、珪は急かすようなことはせず、かといって慰めるようなそぶりも見せず、ただ黙って待ってくれている。
 ひとしきり涙を流すと、深悠はぐすんとひとつ鼻を鳴らして明るい室内を省みた。
 橙色がにじんで見える。
「あのひと……ほっといて、いいの?」
 まさか自分を優先してくれるとは思わなかった。珪は優しいから、涙に動揺して気遣ってくれたのだろうけれど。そう考えると、狙っていなかったとはいえつくづく自分が卑怯者なのだと思わされてしまうけれど。
 彼はかすかに首を傾げたが、深悠が逃げないと判断して安心したようだ。彼女の腕を離して、テラスの手すりに背を預けた。
「べつに……さっき初めて会ったヤツ、だし」
 その言葉に深悠は耳を疑った。
「うそ……」
「嘘なんかつかない」
 むっと唇を尖らせて反論してくるさまは子供のようで。いつもなら微笑ましさにほころぶ口許は、けれど硬く引き締まったまま動いてはくれない。
 だって。
「だって、珪って呼んでたよ?」
「……ああ」
 違和感なく名前を呼べるのは、親しい証拠ではないのだろうか。現に、普段から人懐こいと自負している深悠とてああも気軽に男性の名を呼ぶことなどできない。一番口になじんでいるのはもちろん弟の名前だが、まさかあの少女が珪の姉であるはずはないし。
 混乱している深悠に少しだけ笑って、彼は片手で前髪をかきあげた。額には未だうっすらと汗が浮いている。この寒さはまったくこたえていないらしい。
「……日常茶飯事……」
 彼女はきょとんとして珪を見返した。
「知らない人に呼び捨てにされるのが?」
「ああ」
 嘘をついているようには見えない。確かに彼はモデルなどという派手な仕事をしているわけだし、ファンが芸能人を呼び捨てにするのと同じような感覚だと思えばわからないでもないが。
 しかし、同じ学校に通っている身で、そういうことがあるのだろうか。もしそうならば、あの少女は珪の近くにいたわけではなく、それどころか彼が自分の"後輩"なのだという意識も希薄だったということになる。
「……………………なーんだあ……」
 深悠は一気に脱力して手すりにもたれかかった。薄く積もった雪の冷たさが剥き出しの肌を刺すが、効きすぎた暖房にさらされていた身にはむしろ心地よい。いつのまにやらぐるぐるとかき混ぜられて妙な方向に向かっていたはずの思考が、何故か一気に鮮明になったような気がした。我ながら現金なものだ。
 すっかり緊張が解けて、いつもどおりの自分が戻ってくる。雪をくっつけた腕をあげてがりがりと頭をかくと、ふっと視界が動いた。
「あ、れ?」
 首を回そうとしても、何かに固定されて動かせない。
「……俺から離れていかないでくれ」
 驚いて目を見張ると、頭上から低い声が聞こえた。温かい風が後れ毛を揺らす。それが珪の吐息なのだと理解した瞬間、全身が沸騰した。
「へ、あっ、ええぇっ!?」
 抱きしめられている。
 今までせいぜい頭をたたかれるとか、たまたま手が触れ合うとか、その程度の関係だったはずが。
 どうして一足飛びにここまでくるのだろう。動揺のままにじたばた暴れると、珪はむっとしたように腕に力を込めて、彼女の抵抗を封じこめた。
「おとなしくしろ」
「……ハイ……」
 なんだか台詞だけ聞くと悪役みたいだなあと、およそ状況に似つかわしくない言葉が浮かぶ。上目遣いにうかがうと、珪は苦しげに眉をすがめていた。
「……葉月くん?」
「風除けになる、俺が」
「風除け……?」
 心底不思議そうな深悠の瞳は、そこだけ光を反射して暗闇の中に浮きあがって見えた。ただ繰り返す。珪は言葉を操ることが得意ではない。彼女の納得いくような説明を今すぐしろといわれても、おそらく無理だろう。
 だから、伝えたいことだけを繰り返し告げる。それしか、方法がない。
「俺が守るから。だから、離れていかないでくれ……」
 そのためなら、なんでもするから。どんな苦労も、厭わないから。
 やがて深悠はゆっくりとうなずいた。
 風除け。守る。それらの単語から連想できることといえば、ひとつしかない。友人の誰かから聞いたのかもしれない。そして彼なりに悩んで悩んで、出した結論が「俺が守る」だったのだろう。
 ……だとしたら。
 深悠はおそるおそる珪を見上げた。
「……一緒にいて、いいの?」

 あなたの一番を目指していいですか。

「いて……」

 目指してください。

 そう、聞こえたような気がした。
 途端に涙があふれる。
 そうだ、思いあがりでもいい。やっぱりあきらめきれない。まさに今示されている可能性を前に、それを放棄してしまえるはずがないのはここ数日ではっきりした。
 いつか別れなければならないかもしれないのにと、訴えかけてくる声が聞こえないわけではないけれど。それをわかっていてもなお、捨てられないものはある。
「……うん。一緒にいる」
 深悠は微笑んで珪の背中に腕を回した。
 いつのまにか冷えていた身体に、そのぬくもりが心地よかった。






 距離。
 そも近づくことができたのは何故だったのか、近づきたいと思ったのは何故だったのか。
 恐れる心より何より、すべての根底に流れる想いをこそ大切にしたいと。







--END.




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コトミさまより、挿絵をいただきましたv→コチラ

あとがき。
何しに来たんだろう先輩。
いや、嫌味のひとつでも言っていただく予定だったんですが、王子にみつかるの早かったもんで(笑)

長かったです…!! しかも文章のつながり方なんだか唐突です。
いえ、最初は彼女がいるのかもーだけでヤキモチで悩む主人公ちゃんのハズだったんですが。
別れが云々を入れてしまったために当初の予定の1.5倍ほどに膨れあがりました。
王子の怖がってるもの、主人公ちゃんもきっと分かってると思うんですよね。
まあそれは置いといて、この後王子は攻めモードにチェンジするわけです(笑)
おおっぴらに溺愛しはじめる転機がこのお話。
早いとか言うな。それはわかってるさー!!
つてもはっきり告白とかしたわけじゃないので、くっついてはいません。
想いを自覚して、好きになってもらえるようにがんばろう、って決心したと。そういうことで。

で、実はこの話。一番最初に思いついた単発用のネタが発端になっているのですねー。
その単発ネタに至るまでにどんなことがあったのかしら? と思って書いてみたらこんなに長くなっちまったという…なんなんだ一体(笑)