追いかけろ。
何も考えずにただ、追いかけろ。
近づく(4)
人ごみは好きじゃない。
たくさんの人間の吐息と、たくさんの人間の感情が、狭く閉じられた空間の中に色濃く溶けだしあふれて渦巻いているから。
だから彼は、今年のクリスマスパーティーの招待状も、受け取りはしたものの机の上に放り出してそのままにしてしまっていた。そもそもパーティーや宴会などというものは、他人との会話やふれあい、また華やかな雰囲気に酔って楽しむためのものだ。友人と呼べる相手が皆無だった自分にとって、より孤独を思い知らされるだけの虚しいもの。中等部一年生のとき、一度だけ好奇心でのぞいてみたこともあったけれど、人酔いしただけだった。それから二回、もちろん出席などしていない。
しかし。
高等部所属一年目の十二月二十四日、一見しただけでは高校生とは思えないほどに優雅に着飾った生徒たちの間を縫うようにして、珪はあちこちに視線を泳がせながら歩き回っていた。
人ごみは好きじゃない。今だって、そら、「珍しい奴が来ている」とでも言いたげな視線をいくつもいくつも感じる。常ならば煩わしくてたまらないそれらがあまり気にならないのは、ただそれ以上に気がかりなことがあるからにすぎない。
「…………見当たらないな……」
彼はほとんど唇を動かさずにつぶやいて立ち止まった。思っていたよりも息が乱れていたらしい。止まってみるとよくわかる。珪は苛だちのままに髪をくしゃくしゃとかきむしった。スーツ姿でもおかしくない程度にと考えて整えてきたのだが、いっそ普段着で来てしまってもよかったか。着なれないよそいきの布地は肌になじまず、ごわごわしている。少なくとも、走りまわるには向いていない。
校庭でまどかにやつあたりしてから数日。なんとか深悠と話の機会を持とうとしていた珪は、自分の認識の甘さをつくづく思い知らされていた。
土曜は授業が終わるなり、飛ぶような早さで帰っていった。
日曜に電話をかけたが、うまくかわされて数分世間話をしただけで終わってしまった。
月曜は留守電で、折り返し連絡をくれと入れてはみたものの返信はなかった。
そもそも彼はおそろしいほどの口下手だ。頭の中ではめまぐるしく思考が巡っていても、それをいざ口に出そうとするとのどにひっかかって止まってしまう。なんとか飲み込まずに言葉にしようと思うのだが、すでに会話のテンポを心得ている深悠には通用しない。
何かを伝えようと思ったら、まずは直接顔をつきあわせ、黙らせておいてから一気にまくしたてるしかないだろう。
なんとしても今日中に捕まえるつもりで、苦手な人ごみにまぎれてやってきたというのに――珪は何故だか、あの少女をみつけることができないでいた。
おかしい。土曜日にしっかりたてていた聞き耳によれば、彼女がここにきていることは確実なはずなのに。深悠の笑う声なら、どれほどの喧騒にまぎれていても拾い上げる自信があるのに。
視線を落として唇を噛む。ふと内側に向いた意識を破るようにして、突然かしましい笑い声が耳に届いた。
「…………」
無言で見やる。彼女のものではない声。けれど引きずられたのは、その主が常に彼女に近い位置に陣取っているためだ。あらためて周りを見まわすも、もちろん求める姿は見当たらない。
珪は軽くかぶりを振って声の主――藤井奈津実に、歩み寄った。
「…………おい」
背後から呼びかけてみる。
「でっさあ、そのときあの人なんて言ったと思う? もう笑えるのなんのって……」
気づかない。無視をされているわけでもなさそうだ。名前を呼んでみる。
「藤井」
「や、ほんとほんと。脚色なんかしてないって。そんでね……」
気づいていない。
「…………」
ぽん。
「うおっひゃああっ!?」
少女は奇声をあげて振りかえった。
どれだけ声をかけても気づかないからこのままでは埒があかないと肩に手を置いてみたのだが、予想以上におどかしてしまったようだ。
同じ奇声でも深悠のほうが可愛いな、などと本人が聞けば即座に多量の文句が襲い来るであろうことを無表情の下で考えながら、珪は静かに奈津実を見下ろした。
見ればまだ胸に手をあてて息を切らせている。いくら突然だったとはいっても顔色まで変えるようなことだろうか。無言で待っていると、やがて彼女は落ちついたのかひとつ大きく深呼吸をしてまっすぐに珪を見上げた。
「っくりしたあ……なに、葉月?」
アンタに話しかけられるなんて天変地異の前触れかしらん。
自分で自分の発言にうけてきゃらきゃらと笑う奈津実から厭味は感じられないのだが、やはりやかましいという印象はぬぐえない。珪はぴくりと眉尻を跳ね上げたが、とにもかくにも聞きたかった問いだけを口にした。
「菅原見なかったか?」
「ほえ? 深悠?」
奈津実の隣にいた珠美が何か言いたそうに胸元で手を握り締める。それを視界の端で捉えながら、珪はかすかに首をかしげて答えをうながした。
急に静かになった彼女たちのそばを、何人かの生徒がいぶかしげに振りかえりながら通りぬけてゆく。
「……さっきまでいたんだけど。どっか行っちゃった」
「ほんとうに?」
念を押す。神妙な表情は疑う余地もなかろうと思われたが、数少ない手がかりが空振りに終わったとは考えたくなかった。奈津実が嫌そうに顔をしかめる。
「ホントよ。どうせ理由はわかってんでしょ? 二年ぶりにパーティー出席してまで探しに来たくせに、知りませんなんて言わせないわよ」
「……そうか。じゃ、自分で探す。邪魔した……」
「待って、葉月くん」
踵を返しかけた背中に、控えめな声がかかった。素直に振り向く彼に、奈津実が肩をすくめる。内気そうな少女が上目遣いで見上げてきていた。なにやら決意に満ちたような面持ちで、彼女はゆっくり口を開く。
「葉月くん。葉月くん、知ってた? 深悠ちゃんが嫌がらせされてたの」
「……嫌がらせ?」
珪はわずかに目を見張った。珠美がこくりとつばを飲みこんでうなずく。
「……俺のせいか」
すぐに思い当たって、彼は低くうなった。
そう考えれば、深悠が自分と距離をとるようになったことの説明はつかないでもない。"ファン"と称して一方的な好意を押しつけてくる連中がいることは知っていたし、彼女たちがときおり深悠を刺すような目で眺めていたことも気づいてはいたのだけれど。所詮見ているだけで、手を出すまでの度胸などないと思っていた。予想は見事にはずれていたわけだ。否、自分が楽観的だっただけか。
知っている。自分は知っている。理不尽な悪意ほどつらいものはないのだ。悪いことなど何もしていないはずなのに、何かにつけて理由をでっちあげては腹が立つのだと騒ぎたてる。種など蒔いていない。肥やしを与えた覚えもない。それなのに、いつのまにやら本人の知らないところで育てられている昏い感情。
あの無垢な少女には、いったいどれほどの重荷になるだろう。
やはり近づくべきではないのだろうか。いつも生き生きとしていたはずの彼女が、ここ数日ですっかり憔悴しきって生気をなくしてしまったその事実こそが、何よりの証明だということなのだろうか。
くらりとわずかに視界が動いた。額に手をあてて目を眇める。傍らで珠美がおろおろしている気配が伝わってくるが、顔をあげることはできない。
「アンタさあ」
強い声がまっすぐこころに切りこんできた。
「深悠にばっかり、がんばらせてるよね」
「……がんばらせてる?」
気づかないうちに猫背になっていたらしい。明らかに見上げてきているはずなのに、彼女の視線はまるで見下ろしているような角度だ。腕をくんで、肩をいからせる。
「嫌がらせ自体は一学期から続いてたからね、直接的な原因じゃないと思うよ。今更だもん。アタシが言ってるのはそんなことじゃなくてさ。葉月、深悠がアンタに近づくために今までどれだけがんばってたか知ってる?」
珪は無言で奈津実を見返した。
無理をさせていたということか。彼女は自分に近づくために無理をしていたということなのだろうか。この少女は、それを責めているのだろうか。
一瞬考えた後、頭の中で打ち消す。悲観的な仮定などいくら並べたてたとて意味はない。
がんばるということがどういうことか。そんなの、誰だって同じだ。目指すものがあるから、望みをかなえたいから。多少困難なことでも億劫なことであっても、その手間を惜しむ気持ちさえ抱かないほどに求める心が強くなってしまったから。
深悠は、がんばっていた。自分に近づいてきてくれるために。だけどきっと、ちょっとだけ、息切れしてしまった。
それなら。
「……がんばる番……今度は、俺が」
声に出したつもりはなかったのに、しっかり聞こえていたらしい。奈津実は満足そうににっと笑った。
「わかってんなら、それでいいけどね。んじゃがんばっておいで」
心底から後押ししてくれているのだとわかる、声色。
珪はうなずいて、今度こそ二人から離れた。
今までこころの中に漂っていた、数多の「もしも」。
それはそう、言い訳にすぎない。深悠が受けていたという嫌がらせの数々も、自分自身の傷でさえ。
追いかけろ。
追いかけろ。
いっそ逃げ道など失ってしまえ。
後ろを振り向く余裕など、あっても邪魔なだけだ。
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