伝えたい。

 つたえたい。


 そう願いつづけて、まだ、つたえられていない。




きっと、つたえきれない





 海沿いの土地というのは、一般に温暖なものだ。
 山地より一足早く訪れる春の気配は花たちの蕾を急かしたて、道端には目に見えて明るい色合いが増えてゆく。
 風自体は未だ冷たいから、窓は閉めたままで――それでもよく磨かれたガラスは外の風景をあますところなく伝えてくれる――深悠は窓際の席から遠くに広がる海をぼんやりと眺めていた。
 本来ならその場所は、彼女の席ではない。だが、三年生はすでに自由登校となっている上に、先日に国公立の前期試験が終わったばかり。わざわざ学校までやってくる生徒は全体の半数ほどで、席割りどころか所属する学級すらもほとんど意味がなくなっている。ぎりぎりまで粘る生徒のために開かれていた補習も昼までで終わり、今までともに授業を受けていた志穂などは早々に帰宅してしまったのだが。
 山をひとつ越えたとの思いからだろうか、そこまで熱心に勉強する気にもなれない。深悠はふと腕の時計を見下ろすと、向かい合うように座って机に突っ伏していた友人の肩をそっとゆすった。
「……珪くん、珪くん。そろそろ起きないと遅れちゃうよ。今日、お仕事なんでしょう?」
「………………ん」
 反応は芳しくない。睡眠時間を削ってでも勉強していた、というならばまだ理解はできるのだが、もちろんそんなことが彼に当てはまるはずはないのである。相変わらず寝汚い。もっとも、受験真っ只中の珪に仕事を入れるなんて、いったい何を考えているのだろうとも思うけれど。彼はあくまでアルバイト扱い、優先すべきなのはもちろん学業だ。いくら後期試験まで二週間以上の間があるとはいえ、少々常識外れではないのだろうか。
 まあ、どうせ珪くんはもう受かってるだろうけどね……
 深悠は肩をゆすっていた手を一時休めて嘆息した。代わりに指どおりのいい金髪をさらさらとかきまわす。
 試験日に彼は約束したのだ。居眠りせずに真面目に試験を受けると。"超能力者"葉月珪においては、それはつまりはイコール合格を指す。温度の低いまなざしに態度、寝ること以外のさまざまなことに対する執着も薄い、となればいい加減な印象を受けがちにもなるものだが、珪は根は誠実だ。進んで約定をたがえることはないし、確実に望む結果を得られるだろう。彼をあの世界に引っ張り込んだ張本人がそこまで見越してスケジュールを組んだのかどうかまでは、わからないとして。
 無意識に動かしていた手が止まって、彼女は窓の外に投げていた視線を元に戻した。見れば、珪が片手で手首をつかんでいる。まぶたは多少重たげに見えるものの、意識のほうははっきりと覚醒したようだった。ゆするよりもなでるほうが効果があったらしい。
 深悠は手首をとられたままでにぱっと笑ってみせた。
「おっはよー」
「……はよ」
 寝起きで喉が乾燥しているためだろう、少しいがらっぽい声はいつも以上に聞き取りにくい。
「ねえ、お仕事……」
「あと二時間ある」
「えっ」
 珪は猫のように伸びをして、椅子に深く座りなおした。
「余裕、みてた。寝過ごしたらいけないし」
「……受験なのにねえ」
 今度は深悠が机に突っ伏する。ぽんぽんと頭をたたかれ、彼女はふにゃあ、と判別不能なうめき声をあげて目を細めた。もう一度窓の外を見やる。
「いまごろ……みんなも勉強してるのかなあ。まだ後期もあるしねえ」
「みんな?」
「んー? 真理ちゃんとタカとー……あ、会わなかったけど岡くんも一流受けるんだって言ってたなあ」
 ぽつりとしたつぶやきに返った気のなさそうな疑問符に、顔を動かさないままぼんやりと答える。みんなとは志穂や桜弥らはばたき学園の進学組のことだとばかり思っていた珪は、わずかに眉を寄せて、探るように深悠を見つめた。
「…………誰だ?」
「うん?」
 茫洋とかすんでいた瞳が色を取り戻す。その中に自分の顔が映っていることを確認してから、彼はもう一度同じ質問を繰り返した。
「だから、その……ま、り? ……とか、タとか岡とか」
 最後に出てきた男のものらしき名前だけ正確に聞き取ったのは自分でもどうかと思ったが、鈍い深悠のことだ、そんなことには頓着しまい。少しばかり周囲の気温の下がった珪にもやはり気づく様子はなく、彼女はまた遠くを眺めるような目つきをした。
「ん……あのね、中学のときの友達。去年一流受けるって言ってたから、また一緒の学校行こうねって約束したんだあ」
 そのときのことを思い出しでもしたのか、くすくすと笑い出す。
「連絡だけはとってたんだけど……まさか本当にまた会えるとは思ってなかったからね。嬉しくって約束したんだ。大学でまた会おうねって」
「……そうか」
 ざわ、と。
 不意に胸をなであげる何かを感じて、珪は軽く制服の胸元を握りしめた。
 約束。彼にとっては、特別な意味をもつ言葉だ。他ならぬ目の前の少女と交わしたそれは、事実だけを見れば果たされたと言ってもいいのかもしれない。けれど彼女は覚えていなくて、自分もそれを打ち明けられなくて、ずるずるとすごした三年間――もうすぐ終わりを告げる、三年間。
 なにやら言っているのが聞こえる。本当に嬉しそうに、まあ絶対守れるって保証はないんだけどねと、照れ笑いしているのが聞こえる。
「……珪くん?」
 うつむいた珪にようやく異変を感じ取ったのか、深悠が不思議そうにのぞきこんできた。顔を上げると、視線がかちあった。
 くもりのない、まっすぐな瞳。
 この瞳で、彼女は、彼以外の、彼の知らない相手と、約束を交わした。
 自分と異なり、深悠は至極容易に他人との絆を結ぶ。あの日離れてからも、たくさんたくさん友人をつくったのだろう。人として生きていく上で自然な行為であるそれを咎めるなど、もちろん大いなる筋違いだ。
 けれど、けれど。
 俺との約束は忘れているくせに、そいつらとの約束は覚えていて――果たすのか。
 常ならば押し込めて表には出さずにすんだはずの不安と焦燥は、しかし"約束"という言葉だけで簡単に堰をきってあふれ出てきた。
「……果たせないかもしれない約束を、したのか?」
 皮肉、ひとつ。
 唇が、勝手に動いた。止まらなかった。
 深悠が慌てたように手を振る。
「え? えっと……そりゃあね、絶対大丈夫とは言い切れないけど……でもでも、努力次第だし。約束守るためにがんばるその過程が大事っていうか……えええっと」
 ふっと、上目遣いに見上げる。ぴくりと反応して自分を凝視してくるその表情に、薄い唇が笑みの形に歪んだ。
 俺との約束は、忘れているくせに。
 そのくせ、その中学時代の友人とやらと交わした約束は、忘れないばかりか実現のための努力までしていて。
「守れなかったら悲しいけど……でもそれはしょうがないこと、でしょ?」
 あまりの落差に、今更ながら呆然とした。
「……そうだよな」
 だから、止められなかった。
「そうだよな……果たせない約束をしても、果たせなくても、おまえは大丈夫だもんな」
「……珪くん?」
 深悠がいぶかしげに首をかしげる。その視線を避けるように顔をそらして、続ける。
「新しい友達をつくれば、寂しさは消える……お手のものだもんな。果たせるかどうかは、問題じゃないんだよな」
「なに……」
「もしそいつらに会えなくても、それはそれでいいんだろう? 昔のことなんかどうだってよくて、おまえが見てるのはいつも……!」
 未来だけを、見据えて。遠い昔に交わした彼との約束は、早々に忘れ去った。持ち前の朗らかさで新たな友人を得て、孤独におびえることもなく、次々訪れる別れも乗り越えて。
 たった一度の離別も忘れられない、十年以上も前のことをずっとひきずっている、自分とはあまりにも違いすぎる。
 過去の記憶にしか癒され得なかった自分と正反対に、次々やってくる明日への希望で支えられている彼女は。



 乾いた音が、鳴った。



 頬に伝わる痛みで我に返った彼を迎えたのは、涙に濡れたはしばみの瞳。かつて一度も向けられたことのない、鋭い視線にはまぎれもない敵意が宿っている。
「…………ひどい」
 噛みしめた唇は血の気を失って紫色に変色していた。口をきいた拍子に透明なしずくがぼろぼろと頬をつたった。
「わ、わたしが怖くなかったとでも思ってるのっ!? 好きなひとたちと、別れて、周りはほんとに知らない人ばっかりで、前に住んでたのよなんて言われたって何にも覚えてなくて、し、知ってる人は、家族しかいないんだよ……!?」
 それがどんなに心細いかわかる?
 罵るときでさえひたむきに射抜いてくる瞳に、いっそこの場ですべてをぶちまけてしまいたくもなる。けれど、底辺にほんの少しだけ残っていた自尊心がそれを邪魔した。
 彼との再会をつくる原因となった引越しを歓迎していなかったらしいことを聞いたのも、手伝ったのかもしれない。
「そんなの俺の知ったことじゃない」
 売り言葉に買い言葉。冷ややかに突き放す。以前であればともかく、今の自分でも彼女相手にこんな無機質な声を出せたのだなと、どうでもいい事柄を改めて認識した。
 無言のまま負けじとにらみあうことしばしの刻をはさみ。
「…………珪くんなんか、だいっきらい」
 言い捨てて、深悠は乱暴に鞄をつかんで教室を飛び出していった。








|| INDEX || NEXT ||


いつもならどちらかが冷静になって喧嘩まではいかないのかもしれないんですけど。
お互い、不安定なので。

2005年の国公立入試日も25日だろうと思うんですが(曜日の都合で一日繰り上げになるかな?)、
一流(23日)も国立です。
もうそういうことにしといてやってください。無理やり設定GO!(笑)