きっと、つたえきれない(2)
深悠が駆け去ってから数秒後。彼女が戻ってくる気配のないことを察してから、珪はようやく目許に込めていた力を緩めて吐息をついた。
ふと背中に何かを感じて振り返る。忘れていたが、教室には彼ら二人だけというわけではなかったのだ。いつもよりも人の少ない部屋の中では声もよく通る。彼らが罵りあうさまを最初から最後まで見ていたのだろう。まばらな人影から送られた視線は明らかに非難の色を宿していて、おさまりかけていた気持ちがまた荒んでいくのがはっきりとわかった。
俺が悪いって言いたいのか。
ねめつけてやっても目をそらすだけで、漂う気配が変わる様子はない。珪が立ち去れば、おそらくその場で彼の言い草がいかにひどかったか、そして深悠がどれだけ傷ついたか、無責任な当て推量が始まるに違いないのだ。
深悠はいつも、無意識に味方を増やしている。年のわりに幼く見える容姿や振る舞い、そして顔いっぱい、身体いっぱいで表現されるあふれんばかりの感情。事実上彼女のほうが年上なのにもかかわらず、友人というよりも妹のような感覚で可愛がられていて――――
珪はぶるん、とひとつ首を振った。これ以上この場にいたとて意味はない。そうだ、今日はこの後仕事だった。
久しく浮かべていなかった険しい表情で撮影所入りした彼の、その日の仕事は散々なものだった。
翌日。
前日の仕事は駄目出しの連続、気分は相変わらず晴れない、おまけに床についても寝つけず――史上最悪とでも表現すれば妥当だろうという状態で、それでも珪は重い身体を引きずって学校にやってきた。
登校する必要はないのだ。補習で扱われるのはすでに学習した範囲に限られる。いわば念には念を入れて、という生徒のために開講されているもので、大学合格にまったく不安を抱いていない彼が出席するのはお門違いとも言える。
興味のない補習に、けれどしっかり参加していたのは体育館裏の猫の親子に会うためと――深悠に会うためだった。さすがに昨日の今日で彼女と顔をあわせようとは思えないが、習慣で足が勝手にここに向かったのだから仕方がない。みなが真剣な顔で問題に取り組んでいる中呆けたまま授業を聞き流し、終わってからも彼はそのままぼんやりと遠くの鳥を眺めていた。
「葉月」
ふ、と顔を上げる。声から予測した通り、傍らには藤井奈津実が立っていた。進路を早々と決めてしまった彼女は二月に入ってからは登校頻度も低くなっていたのだが――顔の広さというのは侮れないもので、おそらくは友人から昨日の顛末を聞かされてわざわざやってきたに違いない。昨日の今日だというのになんとも素早いことだと少しだけ感心する。
「……何か用か」
わかってはいたけれど、珪はまずそう言ってわずかに背中を丸めた。明らかに楽しくおしゃべり、などという心境ではないのだと、態度に表してみても彼女は動じることはない。一にらみするだけでそそくさと逃げていくだけの相手ならば、とっくの昔に言葉すら交わさない仲になっていただろう。
わずらわしいと思いながら無視することもできず、彼はもう一度視線で相手の答えを促した。
「……深悠とケンカしたって」
その声には責める響きはなかった。
それを意外に思いながら、頭だけ動かして肯定する。
「…………たぶん」
「たぶんって……まあいいけど。どうせ葉月だし」
天然なのはとっくの昔にわかってたことだしね。
もっともらしくため息をつきながら失礼なことをつぶやいては一人でうんうんうなずいている奈津実を見上げ、珪は二、三度瞬きをした。
深悠を傷つけたことに対して怒っているのでないならば、ましてくわしい経緯を聞きに来たのでもないならば、彼女はいったいなんのつもりで顔を出したのだろう。
「で、何か用か」
多少うんざりしていたのが声に出たのか、奈津実はぴくりと一度硬直してからばつが悪そうに苦笑した。
「……いやあ。おせっかいだってのはわかってたんだけど、気になったから様子見にね。暗くなってるようならハッパかけてやろうかと思ったんだけどー」
しぶしぶとはいえ珪がまともに相手をしたことで懸念が薄れたのだろう。幾分明るくなった口調で続きをまくしたてる奈津実をさえぎったのは、珪の冷えた一言だった。
「…………どうして俺?」
「は?」
大きな瞳がきょとんと彼を見返す。どういう意図でもって今の台詞が発されたのか、まったく理解できていないらしい。とはいっても、彼女の意図が理解できていないのは珪も同じことだった。
そう、わからない。
いったいどうして奈津実はわざわざ登校してまで自分に会いに来たのだろう。すでに時計の針は正午を回っている。学園中に強力な情報網を張り巡らせている彼女のこと、深悠がどこにいるのか確認する手段はいくらでもある。今日はまだ会っていないから補習に出席しているかどうかすら珪にはわかっていないが、それが学校であれ家であれ、直接訪ねて彼女をなぐさめてやればいいものを。
彼女こそを。
「アイツが心配ならアイツのところに行けばいいだろ……適当になんか言って、笑わせてやればいい」
仲のいい奈津実が行けば、彼女はきっとすぐに立ち直るだろう。自分たち二人の関係が良好であるように奈津実が心を砕いているのは、ひとえに深悠のためなのだから。
「……言いたいことよくわかんないんだけど」
声音に剣呑なものを含ませて、奈津実が腰に両手を当てた。
ふっと自嘲の笑いが浮かぶ。その目つきを見れば、言葉とは裏腹に彼女がすでにだいたいのことを理解していると知れる。それでもわかっているのだろうと、その一言だけで済ませる気にはなれなかった。つまらない意地などはらず、あのとき即座に謝っていれば今ここまで気持ちが荒れてしまうことはなかったのかもしれないけれど。
「俺のことにかまってる暇なんてないだろ?」
「……」
「深悠が心配なら、深悠のところに行けって言ってるんだ……おまえが俺のところに来たって、アイツの気持ちが晴れるわけじゃない。説教しにきたんじゃないってんなら、なおさらだ」
最初は文句をつけに来たのかと思ったのだ。彼女は以前から珪の無愛想さに思うところがあったようで、ことあるごとに彼の言動に難癖をつけたがった。悪意からではないのはなんとなくわかっていたが、鬱陶しいのもまた事実で。言うことが妙に正論めいているものだから、余計に口うるさいという印象が拭えない。
深悠が大事なら、彼女のことだけ気にしていればいいではないか。いちいち口出ししたくなるような性格の人間を相手にして神経をすり減らすことなどないではないかと、言ったつもりだったのに。
奈津実はこの上もなく嫌そうに顔をしかめた。
気のせいか小刻みに震えているようにさえ見える。それが図星を指されたことへの気恥ずかしさか、見当違いなことを言われたことへの憤りか、どちらなのかは判断できなかったけれど。
答えはすぐに、与えられた。
「………………バカにしないでよね」
搾り出されたようなちいさなちいさな声は聞き取りづらかったけれど、間違いなく怒りを含んでいた。
ばん、と後ろの机に手のひらを叩きつける。ガタガタと派手な音がして机は椅子もろとも数センチ移動した。痛かったろうに、感情がそれに勝っているのか、彼女は手をかばいもせずに声を荒げた。
「バカにしないでよね! アタシは、……アタシは、深悠のことも大事だけどアンタのことも大事なんだから!」
珪がわずかに目を見開いたのにも気づかず、奈津実は続けてわめいた。
「心配だったから来たって、聞こえなかったの!? 聞いてなかったんでしょーね、ああそうよねアタシなんぞに心配されたってウザいだけよね!」
耳に突き刺さるような大音量を、けれど思考からしめ出すことができない。反論しようにも言葉がみつからず、珪は口を開きかけてそのまま固まっていた。
だって、考えたこともなかったのだ。今まで自分の本質に目を向けて好きだと言ってくれたのは深悠たった一人。それとてただ約束を交わした少女だからと、邪険にすることもできずにつきあっていたからこそ生まれ得たもの。幼い頃はともかくとして、長じるにつれ彼のことを外側だけで判断して勝手に好きになったり嫌いになったりする人間はどんどん増えた。今更純粋な友情を求めてくるものなど深悠くらいしかいないと思っていたのに。
嵐のようにたたきつけられた罵詈雑言がふとやんだと思うと。
「……一生いじけてれば」
捨て台詞を残して、制服の後姿が去っていった。
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謙虚通り越して卑屈な葉月氏。んでも私の中のイメージは実はこんな感じの人だったり…(あわ)
そしてまたも一話目と同じような展開で人を怒らせました(笑)
や、こんなこと言われたらなつみんでなくても怒るでしょう。
この後彼女は屋上にダッシュ。廊下で立ち聞きしてて追いかけてきたにぃやん(カップル成立済み)でストレス発散のこと
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