きっと、つたえきれない(5)
式はつつがなく進んだ。
代表となった生徒が壇上に登り、校長の前に立った。みな一様に緊張した顔をして、まっすぐ前を向いていた。
総代は知らない生徒だった。いや、名前だけなら知っていた。定期テストの結果が出るたびに廊下に張り出されていた順位表の上位に、彼の名は常に存在していた。珪や桜弥、志穂でなかったことは少し意外だったけれど、考えてみれば特に不思議なことでもなかった。ただ彼女が、壇上に登る彼らの姿を漠然と思い描いていただけのことだ。
深悠は見慣れぬ背中をぼんやりと眺めた。特に気負った様子はない、けれど身のこなしはすっきりとしていて、いかにもこういった舞台向きの人間に見えた。
それから在校生、関係者の祝辞を聞き、校歌を歌った。
式が進むにつれてすすり泣きの声が増えてゆき、卒業生答辞で頂点に達した。
そして今、蛍の光に送られて細い通路を歩いている。
深悠はゆらゆら揺れる視界に気後れしそうになりながら、懸命に顔をあげて歩を進めた。
これは別れの悲しみというよりも、きっと郷愁に近いものだ。自由でありながら決して無法地帯にはなりえなかった。またとない環境で、理事や教師、その他の人々に大切に大切にくるまれてはぐくんできた思い出たちへの。
戻らない時間を追悼するための涙なのだ。
講堂を出れば、すぐに友人たちと合流できるだろう。抱きあって泣いて、その後の身の振りどころを確認しあって。また会おうねと、約束を交わす。おそらくそれが破られることはない。ほどなく果たされて、再び笑顔が戻るのだ。
あの頃どんなに祈っても果たされなかった願いが、今はこんなにも簡単にかなう。時間の経過という、誰の身にも等しく訪れる事態によって。
「いた……」
ずき、と側頭部が痛んで、深悠は思わず顔をしかめた。今朝は泣きながら目を覚ましたせいでずっと頭がぼんやりしていたのだ。式に気をとられてすっかり忘れたつもりになっていたけれど。
いつからか、ときおり思い出すように見ていた夢がある。目を覚ます直前、去ってゆく後姿だけが鮮烈に瞼裏に焼きついていた。それが子どもか大人なのか、男性だったか女性だったのかもわからなかった。いかないでと必死で懇願する自分だけが、ぽつんと一人とり残される夢だった。
あの夢を見ると、無性に誰かにすがりたくなるのだ。幼い頃は両親の寝床にもぐりこんで一緒に寝てもらった。成長してからはさすがに恥ずかしい思いが先にたってそのまま布団にくるまっていたが、そうすると決まって一晩中涙が止まらなくて、頭痛を起こすようになった。
入学式以来見ることがなくなっていたから、もう再発しないものと思っていたのに。
珪と一戦やらかした影響だろうか。誰なのかもわからなかったはずの後姿が、今日だけは彼の姿をしていた。一瞥すらくれない。どんなに呼びかけても振り向きもせず、ずんずん離れてゆく背中はとりつくしまもなくて。起きたとき、それが夢だったのだとわかったとき、深悠は声を殺してひとしきり泣いた。赤くはれた瞳はごまかしがきかず、友人たちには式の前から泣いてるのかとからかわれたが、ある意味そう解釈してくれるのはありがたかったから、言われるにまかせて笑っていた。
「……あれはただの夢なんだから」
彼女はちいさくつぶやいた。
今朝は珪が自分から話し掛けてきたのだから、あれが現実のはずはない。あまりに急だったために謝る機会を逸してしまったけれど、見上げた瞳には怒りも嫌悪も宿ってはいなかった。ぽかんと馬鹿みたいに大きく口を開けた深悠を静かにみつめて、彼は一息に言ったのだ。
『卒業式が終わったら来てくれ。この学校の中で……俺が一番好きな場所で、待ってる』
ぐしょぐしょに濡れたハンカチを握りしめた生徒を横目に見ながら、素直に泣けないのは半ば以上このせいだ。本当は泣きたい。わんわん大声をあげて、泣いて泣いて泣いて、すっきりした気持ちでこの学園の門をくぐりたい。
けれど、やるべきことが残っているという思いが彼女を強くつなぎとめていた。
立ち止まった拍子に背中にぶつかってきた友人に、ちいさく謝る。
外へ続く通路が、そのまま彼のもとへと続く道のように見えた。
はばたき学園は広い。
だがもともと好奇心は強いほうだし、ここですごした三年間は伊達ではない。友人もたくさんできたし、委員会もこなした。高等部に限るならば、およそ知らない場所はないだろう。
にも関わらず、深悠は未だ珪をみつけることができずにいた。
思い返してみれば彼の好きな場所はたくさん知っているけれど、その順位づけを聞いたことはなかった。屋上、体育館裏の猫たちの住処、園芸部の花壇。図書館の書庫も静かで良いと言っていたし、桜が咲く季節には裏門の並木の下にたたずんでいたこともある。
雨の降った日。傘を忘れて昇降口で途方にくれていたら、わざわざ家まで送ってくれた。
ベランダから身をのり出しすぎて落ちそうになって、助けられたついでにお説教までくらったこともある。
気づけば学校は珪との思い出だらけだった。
嬉しいことのはずなのに、今はそれがもどかしくてたまらない。
「どうしよう……」
深悠は泣きそうな声で一人ごちた。
教室に鞄があったのは見た。万全を期するならばそこで待っているのがいいのかもしれない。友人たちには、もし珪をみかけたなら教えてくれるようにと頼んでもある。
けれど、彼は言ったのだ。待っている、と。
期待を裏切りたくはない。ちゃんと見つけて、駆け寄って、謝って。それから大好きですと、伝えたい。
無意識に人のいるところを避けていたら、いつのまにか敷地の外れまで来ていた。煉瓦の塀が緑の間にのぞいている。塀は見上げるほどの高さで、そのうえ木々がかなりの勢いで枝を伸ばしているから、普段から近づく生徒はあまりいない。
そういえば……
深悠ははっとして目を凝らした。この辺りには見覚えがある。
入学式の日、確かあの日もこうやって塀の近くを歩いていた。紫陽花の茂みに埋もれた細い筋は、今よりも丈の伸びた雑草に覆われていた。けれどよく見ると土に枕木が埋め込まれた、れっきとした道で。秘密の場所につながっているような気がして、わくわくしながらたどったのだ。
ちいさな教会の前にはシロツメクサがふかふかと、絨毯のように咲き乱れていた。
閉鎖されている風なのに小奇麗に手入れされていた建物。ぴかぴかの鐘。背伸びして見上げた尖塔の天窓は、もちろんステンドグラス。まるで絵本に出てくるような可愛らしい教会の、中はいったいどうなっているのか知りたかった。
結局扉は開かなかった。けれどここで、彼に出会った。
青空は同じ。
太陽の光も同じ。
だけど、白いまあるい花は、今は咲いていない。
彼女はその扉を押した。
――扉の向こうには、想像していたとおりの光景が待っていた。
そこは明るい陽光にあふれていた。色とりどりのガラスを通して、その優しさは増している。舞い散る埃に反射する光さえ、なにか神々しいもののように見える。光の中におそるおそる手を差し伸べると、指先が若草色に染まった。
つかめそうなのに、つかめない。手を握り締めようとすると、光はするりと指の間を逃げてゆく。
もっとよく見ようと一歩を踏み出しかけて、深悠はぎくりと足を止めた。
今の今まで気づかなかったのだ。色素の薄い髪は降り注ぐ金色の光にまぎれていた。宝石を砕いた粉をかけたら、こんな姿になるかもしれない。この綺麗な綺麗な光景にあまりにも溶け込みすぎているそのひとは。
「……けい、くん」
途端動悸が速くなる。静謐な空間で震え声は思いのほか響いた。
「……深悠」
ふりむいて、名前を呼んで。
ふわりと微笑んだのを見た瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
みゆう。
呼ばれて、彼女は彼のもとに駆け寄った。急ぎすぎて転んで、べそをかいて――大丈夫? と尋ねる声も表情も、まるで自分が怪我したみたいに歪んでいた。だから、慌てて袖でごしごし頬をぬぐった。ちょっとくらい痛くたって気になんかならない。彼女が笑えば、彼もいっしょに笑ってくれる。
ふたりで肩をよせあって、同じ絵本を覗き込んだ。舌足らずな声で質問をぶつけると、上を向いて少しだけ考える。
きれいな目にステンドグラスの光が差し込んで、宝石みたいにきらきら輝いていた。
「……っ……!」
目頭が熱くなってきて、深悠は両手で口許を覆った。ぱたぱたと大粒のしずくが落ちる。緋色の絨毯に濃いしみが散った。
王子さまとお姫さま。絵本になぞらえた一対のステンドグラスも、躍る光も、そこに立つひとすら同じ。
あの頃のように一目散に駆け寄りたいのに、足が言うことを聞いてくれない。
緑の瞳を見たいのに、涙があとからあとからあふれてきて、視界を邪魔する。
そうだった。ここだった。
わたしもここが、いちばんすきだった。
彼女はよろよろと二、三歩進むと、耐えきれずにその場に座り込んだ。
「けいくん、けいくん、けいく……ッ」
「深悠!」
肩を抱いてくれるぬくもりはすでに慣れ親しんだものだ。声と感覚だけを頼りに、深悠は必死で差し伸べられた腕にすがりついた。
「ごめんね……ごめんね、ごめんね」
繰り返す。伝えたいことはたくさんあった。謝りたいこともたくさんあった。
「うそだったのっ……だいきらいなんて、わたし、わた、し、」
「もういいから……わかってるから」
髪を梳く指は優しい。けれど、深悠は抱きすくめようとしてくる胸を一生懸命に押し返した。
ちがう。珪はわかっていない。自分が伝えようとしていることを、その言葉の意味を、おそらくはわかっていない。
いや、半分は伝わっているのかもしれない。けれど今の彼女にとって、どちらを優先することもできなかった。欲張りでも、多少意味不明になったとしても、この場所で言っておかねばならないこと。
ひゅっ、と喉がなった。
「……やくそくしたのにね」
こんなにも感情が昂ぶっているのに、絞り出された一言は皮肉げな色を含んでいる。あやすように背中をさすっていた珪の手が、ぴたりと止まった。
「やくそく、したのにね……わたし、きれいさっぱり、忘れて。ほかのひととのやくそくばっかり、だいじにしてたんだよね……っ」
「おまえ……」
肩を強くつかまれた。痛みに一瞬顔をしかめるも、力が弱まる気配はない。歓喜よりも戸惑いの色が濃い表情に、深悠は泣きながら笑ってみせた。
去ってゆく後姿は遠い日の幻だった。指きりだけして、いつもと同じように手を振って別れた。帰途、お互いの姿が見えなくなるまで何度も何度も振り返っていたところも同じ。違ったのは、なんだか心臓のあたりがぎゅうぎゅうして苦しかったこと。息もまともにできないほど、涙があふれて止まらなかったこと。
今ならわかる。珪がなぜあれほど約束という単語に過剰に反応したのか。最初は不実さを責められているのかと思った。言葉どおり、果たせないかもしれないことを安請け合いしたのかと、責められているのかと思った。けれどあのとき彼が言いたかったことは、おそらく。
「ごめんなさい……」
「……いいから」
珪はしきりに目許をこする手をやんわりつかんで押しとどめた。
「でも」
「いいって言ってる」
少しばかり語調を強くしてたたみかけると、深悠は一度こくんとつばを飲み込み――それからうなずいた。そうすると、呼吸が落ちついてくるらしい。
こんなちいさな癖まで――何から何まで変わっていないのだと、珪は改めて間近で彼女を見おろした。
もう十年以上昔のことになる。教会で別れを告げたときも、深悠は激しく泣きじゃくった。大きな瞳に涙をいっぱいにためて、頬を真っ赤にして。全身を大きく震わせて、おいていかないでと悲痛な声で訴えた。
深悠が泣くのを見るのは嫌だ。どうしたらいいのかわからなくなる。
幼かったときも今でも、根本的なところは同じ。それなのに、あの頃とは異なる衝動もまた生まれてくるのだ。
おののく唇をみつめていると、いっそめちゃくちゃにしてしまいたくなる。その瞳に自分以外が映るのが耐えられない。優しかっただけの気もちが凶暴なものに変化してしまうことに混乱して苛々して、知っているはずの気遣いの方法を忘れてしまう。
もっと彼女の気持ちを汲んでやれたなら、涙の数は格段に減らすことができるはずなのに。
彼は自嘲気味につぶやいた。
「……忘れてるなら……それでいいと思ったんだ」
深悠が目を瞠る。まっすぐな視線に耐えられなくなって、珪はわずかにまつげを伏せた。
「こんなふうになっちまったし、俺。……係わりあいにならないほうがいいかって」
再会したあの日、約束を忘れられていたことには激しく落胆したけれど。同時に少し安心もしたのだ。
彼女は、笑い方まで忘れてしまってはいなかった。
珪の記憶にとどまる深悠は泣き顔だったから。頭をなでても、ぎゅっと抱きしめても。御伽噺に重ねて指きりをかわしても、それでも結局涙を止めることはできなかった。
あのころのようにひとを純粋に信じることができなくなってしまって。ひとを好きになることを、怖がるようになってしまって。
傷つけることしかできない。どうすればひとを癒すことができるのかなんて、とうの昔に忘れてしまった。そんな自分が彼女のそばにいたところで害にしかならないのではないかと、日々葛藤に苛まれて。
ふと痛みを感じて彼はまぶたを開いた。腕に細い指が食い込んでいる。力が入ってしまっていることに自分では気づいていないのか、深悠が真剣な表情で珪の顔をのぞきこんでいた。
「じゃあ、わたし。わたし、近づかないほうがよかったの?」
迷惑だった?
淡く笑う。無邪気な問いかけだ。傷つくことを恐れていないわけでもないだろうに、片方の答えの先にあるものが見えていないわけでもないだろうに。それでも確かめずにはいられないのだろう。
「迷惑というより……不思議だったな」
覚えていたのなら理解できたのだ。交友関係もまっさらの高校生活の初め、幼友達というのは充分に近づく理由足りえる。しかし、深悠は覚えていなかったどころかすでに他のものに自分の悪い噂を聞いたあとだったというから、なおさらわからなかったのだが。
「でも、今さらだろ? 結局おまえは俺の中に入ってきて、しっかり居場所を作った」
すでに議論の余地はない。もしも彼女が不快なだけの存在であったならどうだったろうと考えたこともあるが、結果は目の前に横たわっている。
ようやく出会えた安らぎを手放したくない。手に入れてしまいたい。自分のものにしてしまいたい。日々強くなる欲求。とどまるところを知らない願い。
そうしたら。
「縛りつけるものが欲しくなった……」
勝手なものだ。縛られるなどごめんだと、ことあるごとに吐き捨てていたのは他ならぬ自分自身であったはずなのに。
苦しくなって目を眇める。深悠はかすかに首を傾げたが、やがてうなずいた。
「それがあの約束だったんだね」
「ああ」
思い出から生まれ出でたようでいて、そうでないようにも思えるもの。今ある絆を保つために、厳密にはあの約束は必要のないものだろう。けれど彼女との未来を求めるにつれ、より強固な礎が欲しくなった。捨てきれていなかった執着は、年月を経た今でも行き場を無くして彷徨いつづけていた。
「絵本の続き……聞かせてやるって約束したな」
独り言のように嘯いて、珪は深悠の肩を抱いて立ちあがらせた。そのままゆっくり奥へと進み、祭壇にたどりつく。
うっすらと埃のつもった台の上で、赤茶けた革表紙の本が鎮座していた。箔押しされた題字はこすれて消えかけている。本来ならばここにあるべきは聖書なのだろう。けれどその中身は、開いてみれば平易な文とそれには似つかわしくないほど緻密に描かれた挿絵。
彼は表紙の上の銀色の輝きを手の中ににぎりこんだ。
深悠を階に座らせる。足元にひざまずく。
「区切りをつけたいんだ」
約束の成就はひとつの区切りとして。
過去ばかりを振り返るのではなく、これから未来を築いていくために。
物語の二人のみならず自分たちにとっても、この教会は出発点だった。
「旅から戻った王子は、何も持っていなかった。持ってたのは四葉のクローバーだけ。それを姫の指に巻いて永遠の愛を誓った」
「永遠……」
永遠、という言葉が成り立つのは御伽噺の中でだけ。それでも、続く日々を限りなく永久に近づけることはできるはずだから。
ようやくまっすぐみつめることのできた瞳には、緊張した面持ちの自分が映っている。恭しく押し頂いた指先に銀の四葉をあてて、珪は静かにささやいた。
「あなたは、受け入れて、くれますか……?」
永遠にも等しい一瞬の後。涙がこぼれたのが先か、うなずいたのが先だったのか。
彼は目の前の少女を腕いっぱいに抱きしめた。
重ねた唇は、甘かった。
緊張のためか力が入り始めた背中をなでて、歯列をこじ開ける。吐息が交じり合ったのを自覚したら、後はもう何も考えられなくなって。
貪る合間にも苦しげな吐息は耳に入っていたけれど、息継ぐ暇さえ惜しかった。
「ふえぇ……っ」
ようやく解放されて、深悠は激しく肩を上下させた。
力の抜けきった身体は珪がしっかり支えてくれているから、倒れてしまうのだけは避けられているけれど。酸欠状態のはずなのに心臓は忙しく働いて、全身に熱を届けつづけている。
「……大丈夫か?」
低く気遣ってくれる声は乱れてこそいないが、見上げた頬はうっすら染まっていて、彼女は大きな満足感を覚えた。
「へいき」
ゆがみそうになる眉根をなんとか持ちこたえさせて、へへ、と微笑んでみせる。珪はほっとしたように口許を緩ませると、再び顔を寄せてきた。
「じゃあ……」
「わああ、ちょっ、ダメってば! 今度こそ呼吸困難になっちゃうよっ!」
慌てて押しのけた左手には見慣れない銀色の輝きがあって、それに気を取られた瞬間目の前が暗くなる。しかし予想に反して落とされたのは額への軽い口づけだけで、深悠は目をぱちくりさせて緑柱石の瞳を見上げた。
「妥協案」
楽しげに放たれた台詞に苦笑がにじむ。
「……ありがとー」
「本当は足りないけどな」
「え、あの、その」
深悠は耳まで真っ赤に染めて口ごもった。くつくつと引きつるような声は、笑い出したいのを必死で抑えている証拠だ。わかっているのにいつものように突っ込んで指摘することができない。代わりにせいいっぱい険しい目つきを作ってにらみつけてやることにする。
努力はむくわれず、珪は涼しい顔で立ちあがった。
「……そろそろ戻らないとな。立てるか?」
「ん。もうちょっと」
手を離れると途端にくにゃりと関節が曲がるのだ。しかも彼の全神経が自分に向けられているのを感じる。一挙手一投足とて見逃しはしないだろう。ひどく恥ずかしくて、彼女は上ずった声で話題の転換を試みた。
「そっ、そういえばね、奈津実がカラオケで打ち上げするって言ってたよ」
「打ち上げ?」
「うん。珪くんも参加だって……」
ひそめられた眉にふと不安になる。珪は騒がしい場を好まない。奈津実が声をかければそれなりの人数が集まるであろうことは予測できるし、高校生活の締めくくりだと思えばテンションも高くなるだろう。
彼が嫌だと言えば、断るのもやぶさかではないけれど。けれど、深悠としては珪にもともに楽しんでほしかった。そして、友人たちが彼をかまうのは、単純に反応がおもしろいからという理由だけでは決してないのだということも、しっかり実感してほしかった。
知らずすがるような目を向けてしまっていたらしい。珪は安心しろとでも言いたげに彼女の背中を叩いた。
「……心配かけたからな。行く」
「うん!」
不安そうな表情から一転、ぱぁっと笑顔が花咲く。返る反応は確信していたのに、それでも妙に嬉しくて、珪の顔にも笑みが昇る。
行かない、と言ってしまってもよかったのだ。けれど、少しは楽しいかもしれないなどと思ったから。確かに喧しいだろう。一人になっても耳鳴りがやまないくらい。それはもうすさまじいことになるだろう。
でも。
たまにはそういうのもいいだろう、と自己完結して、彼は深悠を促して腰を上げた。今度は彼女もしっかり自分の足で立ちあがる。
つないだ手から伝わるぬくもりは優しい。おかしいくらいに心が浮き足立っているのがわかる。
初めて触れるわけでもあるまいに。内心自分で自分に苦笑していると、深悠が大きな瞳を輝かせて見上げてきた。
「ねえ、ずうっと一緒にいようね」
「ああ」
懇願も、確認の響きもなく。かなえられると信じて疑っていないのだろう。ご機嫌で歩く足取りも軽く、今にもふわふわ飛んでいってしまいそうだ。
珪は少しだけ指に力を込めた。
大丈夫。もうどこへもいかない。
自分たちは、願いをかなえるだけの力と強さを持っている。
想いを伝えることはできた。
否、抱いていたのがどんな想いだったのかを伝えることはできた。
けれどすべてを伝えることはまだできていないから。
あふれて流れ出して、それでも尽きることなく湧き出してくるすべてのもの。
一瞬では伝えられない。
伝えられるはずがない。
だから、そばにいる。
これからすごす、すべての時間を費やしても。
きっとつたえきれない、想いを抱きしめて。
--END.
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あとがき。
つーか伝えきれてないのは自分です。ゲフッ。
小説というより文章の羅列になってしまったわ…
えー、当初の目標は「教会でちゅーだ!」でしたー(笑)
んで次に出た目標は「いかに深悠さんを泣かせまくるか」でした。
一番最初に浮かんだ情景が最終話だったんですんなりいくかと思ったんですが甘かった…
王子は主人公ちゃんが約束の女の子だったから好きになったのか…というと、それはたぶん違うんだろうなと思うのですよ。
でもだからといって、約束してなかったら、主人公ちゃんが近づいてきたときに他の子と同じように邪険に扱って早々に縁切れてただろうなとも思うのですよ。
好きなのは「現在の彼女」。でも約束がきっかけにならなければ生まれなかった気持ち。
昔のことにはこだわりたくないのにやっぱりこだわってしまう…
というのを入れたかったんですが、…まあ、ね。
とりあえずがんばったよー。むちゃくちゃがんばったよー。
こっそりN氏に捧ぐ。題名使用許可サンクス。
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