きっと、つたえきれない(4)





「橋本が菅原に告ったんだってよ」
 決して大きくはない雑談が、けれど刃のような鋭さで内心に切り込んできて、珪は一瞬息を止めた。
 菅原、という姓は特に珍しいものでもないが、同学年ではもう一人男子生徒がいるだけだ。下級生にはもしかしたら女生徒もいるのかもしれない。しかしことさらに付け加える言葉もなく呼ばれたものであれば、それはほぼ間違いなく深悠のことを指しているのだろう。彼は身体を強ばらせて耳に意識を集中した。
「マジ!? で、どうだって?」
 他人の色恋沙汰に興味を持って首を突っ込みたがる人間はどこにでもいるもので、告白とやらの成否を催促する複数の声が聞こえる。
「玉砕。……まあ、当然だよな」
「……まあ……当然だよなあ……」
 あっけなく披露された結果に、珪は口だけで安堵の息をついた。何が当然なのかは置いておいて、とりあえず深悠はその生徒からの気持ちに応えることはしなかったというわけだ。もちろん自分は他人の不幸を喜ぶような腐った性根を持ち合わせているつもりはないが、勝負に出る前から負けてしまったのでは何もならない。度が過ぎる及び腰に悩まされている身としては、その勇気はうらやましいものだ。
「そうかあ? 俺はまったく脈ナシだとも思わなかったんだけどなあ」
 珪は再びそちらへ注意を向けた。今の彼は、かつて考えていたよりも人間が他人を観察していることを知っている。人にまったく関心がないものならばともかくとしても、そうでないならばそれはごく自然なことらしい。自分よりも遥かに広い視野を持つに違いない彼らには、何が見えていたのだろうか。
「だってさ、派手にケンカしたらしいじゃんあいつら」
 菅原大泣きしてたっていうし、つけこんであわよくばーって思ってたヤツ他にもいるんじゃねえ?
 ……なるほど。
 珪は嘆息して椅子に背を預けた。そうだった、深悠が他の男を受け入れなかったからといって、では自分が受け入れられるのかというと、それは違うのだ。
 むしろ彼らの言うようにあれほどの大喧嘩を展開した今となっては、その確率が低くなっている可能性もある。
 大嫌いと、そう叫んでにらみつけてきた泣き顔が脳裏から離れない。いつも好意にあふれていた瞳は憎しみさえ宿して彼を貫いた。それも当然だろう。あのとき、彼は自分の気持ちしか見えていなかったのだから。傷つけてやろうと、それだけを考えて実行したのだから。
 約束を忘れた深悠が悪いのだと、独り善がりに思い込んでいた。けれど、あらためてあの頃の自分たちの年齢を考えれば忘れてしまうほうが自然なことだった。
 六つにもなっていなかった。一緒にいられた時間はごくわずかだった。聞いた話では深悠はあの後も親の都合で転校を繰り返したというから、数多ある思い出の中にまぎれてしまったのだろう。新しい環境に順応することに精一杯で、後ろを振り返る余裕などなかったはず。すがるものがあの記憶しかなかった自分とは違う。
 それなのに。
 片手で顔を覆おうとして、珪はふと気づいた。複数の視線が向けられている気配。先刻まで騒々しかったはずの教室は静まり返っている。
 彼は戸口のほうを見やった。男子生徒が数人。一様に気まずげな顔でみつめてくる。意図していなかったとはいえ、盗み聞きしてしまったのは珪のほうなのだからあべこべのはずなのに。
「……悪い、葉月」
 一人が神妙な顔で詫びてきて、珪はかすかにかぶりを振った。
「何が?」
 彼が深悠に想いを寄せていること。そして、それが狂おしいほどのものであるということは、はばたき学園に通うほとんどの生徒に知れ渡っている。まして同学年であれば、知らないほうが珍しいとまで言われる始末。いわば周知の事実であるそれを深悠本人だけが知らないということは滑稽ですらあったけれど、同時に珪にとってはそれなりに居心地のいい状態ではあったのだ。
 廊下から入ってきてすぐに友人をみつけ、教室内に誰がいるのかも確認せずに話を始めてしまったのだろう。以前ならばともかく、自由登校の最後の日。人の少なさに油断したことを責めるつもりはないし、こんなふうに謝られてしまうことも心外だった。
 今更あきらめることなどできないのはわかりきっている。
 そして、これからとる行動が何にも束縛されるはずがないことも。
 彼らの話を聞いたにせよ聞かなかったにせよ、目指すものは変わらない。
「なにがって……」
 相手の台詞をさえぎって立ちあがる。
「……いや。俺のほうこそ、立ち聞きして悪かった」
 机の上に投げ出されていた鞄を拾い上げる。
 薄い人垣は、自然に割れた。






 土と植物の香りは好きだ。空気を含んでふかふかしている黒土。生き生きと葉を茂らせる樹木。厳しい環境に負けることなく天に向かって伸びるものも、穏やかな陽気の中で優しく佇んでいるものも。大事に手入れされて誇らしく咲き誇っているものも。
 人そのものが嫌いなのではない。けれど、人ごみにまぎれていると息苦しくなる。息苦しさを自覚すると、無性に緑が恋しくなる。
 真っ白な校舎の壁は茜色に染まり始めていた。春先特有のぼんやりとした光。日がくれてもそれは変わらないらしい。
 彼に初めて声をかけたときもこんな色の空気だったか。そう思いながら、珪は男性にしては華奢な背中にゆっくりと近づいた。声をかけようと口を開く前に、気づいて振り返る。
「ああ、葉月くん。こんにちは」
「……ああ」
 短く挨拶を返すと、桜弥はにこりと笑って再び前に向き直った。その手はいつもどおり、土で汚れている。庭師も顔負け、と言ってよいほどに入念に整えられた花壇はもう何年も見つづけてきた光景だった。毎年、どんな季節であっても必ず花が咲いていた。
 はばたき学園には名ばかりの部活動などというものはない。他に比べればある程度華やかさに欠けてしまう園芸部といえども、例外ではないのだ。
 感慨を覚えて、珪は縁取りの煉瓦のそばにしゃがみこんだ。
「手伝う」
「えっ……そんな、制服が汚れてしまいますよ」
 説得力のない台詞だ。彼は桜弥にちらりと一瞥をくれて土に指先を伸ばした。
「お互いさまだろう」
 桜弥もいつもの体操服姿ではなく、上着までしっかり着込んだ状態で座っている。
「それは……除草だけならたいして汚れませんし。それに、明日にはもう卒業ですし」
 だからこそ居残っていたのだろう。彼はようやくしっかりした風情になってきた苗に優しい手つきで触れた。
「ときどきは来るつもりですし、もう園芸部の後輩がちゃんと世話してくれているんですけど。毎日眺めることができなくなってしまうのは寂しいですね、やっぱり」
「……だな」
 三年間。いや、桜弥は初等部からここに在籍していたのだから十二年間。今まで生きてきた時間の三分の二を費やした場所からはやはり離れがたいのだろう。
 なにに対しても執着が薄いと自覚している珪ですら卒業が近づくにつれて不安と希望がないまぜになったような不思議な気分に襲われているのだから。
 二人はしばらく何を話すでもなく黙々と草取りに勤しんだ。
 決して頻繁ではなかったが、違和感を感じるほど日常からかけ離れたことでもない。ときどき手伝いをして、ぽつりぽつりと話をして、そうして別れを告げた後は夕陽を見ながら坂を下る。
 思えばこれも、大切な日々の営みだったのだ。高等部に進学してからは始終周りがにぎやかで、忘れかけていたけれど。必要がなければ声すら出さなかった中学時代、自分のままで人と話をすることができたのはこの場所だけだった。思い出したように訪れては、物静かな友人に癒されてまた次の日を迎える。大きな失望に襲われてからのあの三年間を、そうやってすごした。
 どうやら自分はかなり傲慢だったらしい。奈津実は珪が卑屈になっていると指摘したが、ふたつは紙一重だ。簡単に切り離せるものでもなかった。
 爪に土が入り込んだ。モデルという職業、しかも全身が必要とされている場合はその指先すらも商品だ。見栄えが良いようにと深くは切っていない。後でよほど念入りに洗わなければ落ちないだろうなと、他人事のように考えた。
「……あの」
 思考に沈んでいたせいだろうか、反応が一瞬遅れた。
「……………………なんだ?」
 下世話な話をして申し訳ないんですけど、と前置きする。
「あの、喧嘩したって聞いて……ご存知でしたか? 菅原さんが……」
「知ってる」
 もしかしたら違う話題かもしれないとは思わなかった。言葉どおりすまなさそうな顔で控えめに自分を見る桜弥に、珪はをそのままそれがどうしたのか、と返そうとしたが、思い直して首を横に振った。
「……大丈夫だ。このままでいいなんて、思ってないから」
「……そうですか。そうですよね」
 ほっと緩んだ表情は、安堵以外のなにものをも映してはおらず。
 珪は初めて、心配をかけてしまったことを素直に詫びる気持ちになった。
 そうだったんだな、と一言だけが心に浮かぶ。
 見えてしまえば単純だ。奈津実があれほど怒り狂ったのも、先刻教室でぴたりと口をつぐんでしまった生徒たちも。彼のことを考えてくれていたからこその態度だった。
 向けられる純粋な善意を受け止めることができなかったのは狭量さゆえ。相手に失礼であると同時に、とても損をしていたことになる。
 深悠はどうだっただろうか。深いところまでは見えなくても、自分の言動の端々ににじませた好意には気づいていたはず。

 嬉しいと思ってくれていただろうか。


 また笑顔を見ることが、できるだろうか。









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普段ベタベタするわけでもなく、でもなんとな〜く仲のいい相手っていますよね。心地よいっていうか。
そんな感じのこの人たち。

つーか推敲してて気づいたけど守村くん小学校の頃から高等部の花壇いじってたわけないよね…(笑)