偶然と必然(10) 目を覚ますと、ふかふかの毛皮の上に寝かされていた。 ぱちぱちと焚き火のはぜる音がする。思い通りに動かない身体に苛つきながらも何とか頭を動かすと、暖かな光が目に入った。 ……焚き火ではない。暖炉の薪が燃える音だ。便利な暖房器具が普及しているセレスティアでは、滅多にお目にかかることのないもの。たまにその暖かい雰囲気を好む者がインテリアとして部屋に据え付けていることもあるが、ごく少数だ。 視線をめぐらせると、結構な大きさの部屋だということがわかった。床中に獣の皮がしかれて、その上に何人もの人間がごろごろと転がっていた。 (全員無事だったのか……) 大きな安堵感を覚えて長く息をつく。節々が痛いが、命が助かったのだから御の字だ。 意識を失う直前に聞いた声は、確かにセルシウスのものだった。 少女の姿をした、誇り高い氷の大晶霊。助けてくれたのはまず間違いなく彼女だろう。旅を終えて別れてから何年もたっているが、悠久のときを生きる晶霊にとってはあの旅もつい最近のこと。忘れずにいて、その上助けてくれたのだ。ちっぽけな、人間でしかない彼らのことを。 口の中で小さく感謝の言葉をつぶやいて、キールは何とか起き上がった。 「おや」 突然部屋の隅からしわがれた声があがり、どきりとする。 船の乗組員以外いないと思っていた部屋には、見知らぬ老婆が一人、編物を手に椅子に腰掛けていた。 「気がついたのかい」 しわくちゃの顔を愛想よく崩す彼女に、キールは慌てて頭を下げた。背骨が悲鳴をあげる。 「あ、ありがとうございました。……助けてくださったんですよね?」 「助けたっていうのかどうかは知らないけどね。ま、あれだけの嵐の中生き残ったんだ、ほっといても別に死にゃあしなかったんだろうけど」 かかと笑う老婆に、彼は苦笑した。 「どうも……ところで、ここはどこですか?」 「ペイルティ大陸の北端の岬さ。あたしの息子が灯台守やっててね。もう夏だってのに流氷が流れついたってんで見に行ったら、その上にあんたらが倒れてたって寸法さね」 「流氷……」 なるほど、そうやって助けてくれたのか。考えに沈もうとして無意識に身じろぎすると、隣に寝ていた友人が小さくうめき声をあげた。 「……キール?」 「大丈夫か?」 間抜けな問いだというのはわかっていたが、聞いてみる。彼は軽く頭を振った。否定ではなく、頭をはっきりさせようとしてのことらしい。 「夕方にはペイルティから迎えが来る。それまでに全員が目を覚ましてくれりゃいいんだけどねえ」 さすがに全員の食事の世話はできないよ。人数が多すぎる。 芋虫のようにごろごろと男たちが転がる部屋を見渡して、老婆は軽く肩をすくめた。 蛍光灯の青ざめた光は、彼女の顔色を一層悪く見せていた。青い毛並みをなでる手の動きは緩慢で、生気が感じられない。 少しでも詳しいことを聞きたいと、メルディはティンシアのシルエシカ本部にやってきていた。すべての情報はここに集められ、各地に散っていく。ここにいればそれほど時間はかからずに、キールの生死がわかるはずだった。 隣にはセレナが座り、すでに冷えきったカップを持ってメルディの様子をうかがっている。さすがにこんな状況で彼女を一人でティンシアに来させるわけにはいかなかった。なにしろメルディは今、妊娠しているのだ。不安定な精神状態で、いつ具合が悪くなるかわからない。ティンシアにももちろん医者はいるが、ティンシアは大きな街。メルディ一人に始終くっついていられるのは、比較的自由のきくセレナとジードしかいなかった。そして、アイメンのことも考えると二人ともがついてくるわけにもいかなかった。そんなこんなで、セレナがともにやってきたのだが。 なんと言っていいのか、わからない。メルディは蒼白な顔で押し黙り、ただ腕の中のクィッキーをなでつづけている。ときおり腹部に手をやりながら。 息苦しい沈黙を破る、騒然とした足音が聞こえてきたのはそのときだった。足音はどんどん近づいてきて――やがて、彼女たちにあてがわれた部屋の前で止まった。 「失礼します!」 銀髪の女性があわただしく入ってきて敬礼する。彼女の顔は安堵に緩んでいた。その表情を見て、二人の緊張がほんの少しほぐれる。セレナは思わず立ち上がった。 「嵐に遭遇し行方不明になっていたティンシア・アイメン間の定期船117便ですが、乗員乗客全員一人も欠けることなく生存とのこと!」 「……あ」 すがるような瞳で見上げてきたメルディに、アイラはにっこり微笑んでみせた。 「あと数分でティンシアの港に着くそうです。お出迎えに行ってこられては?」 メルディは声もなく駆け出した。 「あ、メルディ!」 制止の声にも耳を貸さない。あわてて追いかけたが、華奢な背中はあっという間に見えなくなってしまった。会釈して走り去ったセレナの後姿を見送って、アイラはソファにくずおれるように座り込んだ。 「よかったですね……本当に、よかった」 銀の髪をかきあげるその手は、かすかに震えていた。 どれ……どの船? 夕闇が迫り始めた港を、メルディは息を切らして駆け抜けた。ティンシア港は広くて大きい。停泊している船の数も半端ではない。 「どこ……」 じわりと涙がにじむ。 と、肩に乗っていたクィッキーが地面に飛び降りた。振り返り、メルディを促すように一声鳴いて一直線に走り出す。 クィッキーを追ってひときわ大きな船影を回り込むと、ちょうどぞろぞろと降りてくる行列が見えた。 皆一様に疲れた顔をして、けれどメルディと同じように迎えにきた家族と笑ったり泣いたり、再会を喜んでいるのがそこここに見られる。 行列の中ほどに捜し求めていた姿を見つけて、彼女は一瞬息を詰めた。濃い蒼の髪。セレスティアでは目立つ、白い肌。キール。 生きている。生きて、動いている。 けれど確信はできない。触れて、その暖かさを確かめるまでは。だって、幻かもしれないではないか。飢えた心がみせる、都合のいい幻覚かもしれないではないか。 どんっ! 「わ!?」 横から突進してきたちいさな身体に、キールはよろめいた。一日ゆっくりしたとはいえ、まだ体力は完全に回復したわけではない。よろよろと二、三歩動くと、突進してきた身体もまたぴったり密着したまま移動した。 淡い、紫のふわふわ髪。 全身を震わせて、胸にぐいぐい顔を押し付けてくる、愛しい。 「……メルディ。ただいま」 耳元に顔を寄せてささやくと、潤んだ瞳が彼を見上げた。みるみるうちに盛り上がってゆく透明な水滴。今にも流れ落ちそうな。 「……なんかさ。氷の上にずっと寝てたらしくって。しもやけできちゃったんだ」 笑わせてやりたくて、悪戯っぽく微笑む。メルディはぱっと頬を赤らめて、それから眦を吊り上げた。 「ば、ばかっ!」 安心したら、怒りが込み上げてきたのだろう。慌てるキールにお構いなく、彼女はちいさなこぶしで何度も彼の胸を叩いた。 「なんで笑えるか! メルディがどれだけ……!」 なだめるように背中をなでられても、おさまらない。 困った顔をさせたくないと、無理やりにでも笑顔を浮かべるいつもの自分はどこにもいない。 声は高くかすれて喉がさびでこすれる。 メルディは最後にひとつ、思いっきり彼の胸にこぶしを打ちつけてから声を張り上げた。 「バリル死んでシゼル死んで……! キールまでいなくなったら、メルディ、ど、どうやって生きてけばいい!?」 「メルディ?」 キールが顔色を変えた。二人のことは話していない。反応が怖くて、のらりくらりとその話題は避けてきた。それなのに。 「おまえ、記憶……」 「全部思い出したよ! 全部!」 ぼろぼろと涙を零しながら、メルディは彼を睨みつけた。 ここ数日忘れていた痛すぎる記憶と、寄る辺を失ったかと思ったときの恐怖とが、いっしょくたになって胸の中を引っ掻き回す。 頭の中は滅茶苦茶だ。感情があとからあとから溢れ出して制御できない。 「一緒に生きるって言ったな……約束破ったら許さない。許さないぃっ……!」 違う。こんなこと言いたいんじゃないの。 ただ心配で、会いたくて、ただそれだけだったのに。 どうして責めるような言い方になってしまうのだろう。 勝手に動く口は止まってくれない。 キールは静かな気持ちでメルディの血を吐くような叫びをじっと聞いていた。 大きな瞳からはとめどなく涙が湧き上がり、滑らかな頬は真っ赤。全身をがくがくと大きく震わせながら、それでも射るようなまなざしには力があふれて。 救いを求めて、必死にもがく。 愛しさに胸を衝かれ、彼は細い身体を腕いっぱいに抱きしめた。 「ごめん……ごめん、ごめん」 メルディが求めているのは謝罪ではない。けれど他に言葉が見つからなかった。しゃくりあげる背中をなでて頬に流れるしずくをすすり、額にあごにまぶたに鼻に、顔中に隙間なく口づけの雨を降らせる。 最後に唇を重ねて深く貪ると、彼女はキールの背中に腕を回し、服を握りしめた。 「んっ……ん」 涙混じりのうめきが漏れる。流れ出した新たな涙が触れそうなほど近づいた白い頬をも濡らしていく。 他のことは忘れて、お互いの存在だけを感じる。 「メルディ!」 飛んできた声に、夢中で口づけを交わしていた二人ははっと我に帰った。セレナが息を弾ませて駆け寄ってくる。複数の意識が向けられているのを感じて、キールはすばやくあたりに視線を走らせた。 案の定というかなんというか。注目されている。 ……思いっきり。 そういえばメルディはやけくそになって叫んでいた。それこそ、港中に響くほどの大声で。 「や……やだぁ……」 メルディが全身真っ赤になって身を縮こませる。それでもぴったりくっついて決して離れようとしない彼女に、キールは自分も真っ赤になりながらもちいさく笑いを漏らし、着ていた外套を広げて頭からすっぽり中へと包みこんでやった。 「もう、メルディったら手加減なしで走るんだもの」 つられて赤面している者もいる中、セレナは顔色一つ変えずに二人に歩み寄った。目の前でいちゃつかれるのには慣れている。すでに免疫ができているからこの程度、なんとも思わない。 「……セレナ」 セレナはすぐ近くまで来てにっこり微笑んだ。 「とりあえず、全部解決ね」 「……そうだな。一応」 優しい目で未だ泣きつづけるメルディを見下ろす。 色々あったが、自分は生きている。メルディも記憶を取り戻した。 また穏やかな生活が始まるだろう。 キールは満ち足りた気分で星の瞬き始めた空を見上げた。 その日の夜。 青白い月明かりの差し込む部屋の中で耳打ちされたのは。 キールは唖然として言葉を失い――そして、次には耳までも赤く染め上げて力いっぱいメルディを抱きしめた。 偶然が重なり合って、生まれた想い。 けれど望んであがいて手に入れたそれは、必然と、言っていいのかもしれない――…… --END. |