赤かったり、青だったり、黒かったり。
 真っ白かもしれないし、透明かもしれない。
 そのときどきによって違う――――心の宿すいろ。







抱える、色彩(前)








「あ、キール! おかえり〜」
 帰宅して扉を開けた途端に投げかけられた声に、彼――キールは、抱えていた紙袋を床に下ろして、駆け寄ってきた華奢な身体を慣れた様子で受け止めた。
 視界の端に残る淡い紫色の残像は、ふわふわの頭髪。柔らかく手触りのいいそれを指先で梳いてから、胸にぐりぐりと顔をこすり付けてくる彼女――メルディの肩を軽くつかんで引き剥がす。
「いちいち抱きついてくるなよ。ちょっとそこまで出てただけだろ?」
 キールは苦笑して頭ひとつぶん下にあるちいさな顔をのぞきこんだ。
 彼のもとにはその有する知識ゆえにいろいろな仕事の依頼が舞い込んでくる。その中にはアイメンを数日間離れなければならないようなものも含まれていて、数日ぶりに顔をあわせたときなどはメルディはいつにも増して甘えたがりになるのだが。
 今回は単に近くの商店まで切らしたインクと計算用紙を買いに行っていただけのことである。たったさっき行ってくると挨拶を交わして家を出てから小半時も経っていない。
 キールが床に置いていた紙袋を抱えようとしてしゃがみこむと、ここぞとばかりに細い腕が首に回された。
「こら、立てないだろ」
 叱りつけるような口調とは裏腹に険のない声音に、メルディがくすくすと笑みをもらしながら白い耳に口を近づける。吐息が顔の横に流れている後れ毛を揺らした。
「あのなー、お願いあるよ」
 にこにこと嬉しそうに切り出す彼女に、キールは再び苦笑した。
 そんなことだろうと思ったのだ。いつもなら一度抱きついてきてそれで終わり。よほど長い間離れていたならば口づけの一つでも交わしてそのまま寝室にこもってしまうところだが、今回はどうにも勝手が違ったから。
 わかったとでも言うように背中を軽くたたいてやると、メルディはようやく彼を解放してくれた。
「で? ぼくが出かけてる間、だよな。何を思いついたんだ?」
 まずは紙袋の中身を取り出して然るべき場所にしまうことから始める。書斎として使っている部屋のドアを開けてくれたメルディに続いて中に入る。がさがさと音を立てながら袋の中をまさぐっては棚に手を伸ばすキールの背後で彼女は後ろに手を組んでぴょこんと首を傾げた。
「んん〜? 『思いついた』はちょっと違うな〜。正しいは『気がついた』、よ」
「気がついた?」
 荷物を片付け終えて振り返ると、メルディはちょうど階段を駆け降りていくところだった。ついて来いと言われているのだと察して階下に下りる。
 メルディはソファに座って自分の隣をぽんぽんとたたいた。うながされるままに座って見下ろすと、彼女は今着ているラシュアン染めのワンピースの裾をちょっと指先でつまんでみせた。
「ほつれてるな」
「……ああ、そういえば……」
 メルディが普段着として愛用しているのはほとんどがファラのおさがりだ。微妙にサイズが合わなくなってしまったものの、捨てるのも忍びないとクローゼットの奥に眠っていた服。未だ古風な体質を受け継ぐラシュアンにおいて、物持ちがいいのは珍しいことではないし、もともとラシュアン染めはいつまでも鮮やかな色合いを保つことで有名な染めである。
 けれど、色落ちはせずともやはりずっと使っていればほつれの一箇所や二箇所出てくる。はみ出ている糸くずをぴんと引っ張りながら、メルディはあらかじめ用意してあったらしい裁縫箱を片手で引き寄せた。
「メルディ今から直すから、キール見てて欲しいよ」
 それで、間違えたとこあったら教えてな。
「ん。わかった……って、おい」
 うなずきかけたキールは、しかしそのまま針と糸を操り始めたメルディに眉をひそめた。
「なにか?」
「何じゃない……着たままするのか? 着替えないのか?」
 メルディは、ほつれた服を着たまま修復するつもりらしい。当然といった表情で彼女は首を縦に振った。
「? だってキールもこないだズボン着たまま直してたな」
「それはそうだけど」
 確かにそんなこともあったが、それは着替えるのが面倒だったというのもあるし、何より慣れているからだ。ただでさえ細かい作業の得意でないメルディのこと、普通に裁縫をするだけでも何度も針を指に刺してべそをかいていたくせに、これでは……
「だいじょぶだよ〜」
 内心の心配が面に表れていたのだろう、メルディがお気楽そうに微笑んだ次の瞬間、
「いたッ」
 笑顔は一瞬にして消えた。ちくりと膝を刺した痛みに顔をしかめて針から意識がそれ、今度は指にも突き刺さる。
「い、いたっあいたっ!」
「バカ、何やってる!」
 慌ててわたわたと針を持ち替え、何度も指に刺してしまいそうになるのをなんとか奪い取る。口で糸を切り針を針山に戻すと、メルディは頬を歪めて指を口に含んでいるところだった。
「いひゃいよぅ」
「……見せてみろ」
 はあ、とため息をついてほっそりした手首をつかむ。素直に口から出した人差し指の先をまじまじと見つめるも、たいして血も出ていなかった。これなら多少ちくちくするだけですぐ治るだろう。
「膝は?」
「……ちょっとチクチクする〜、かな? ってっ、うひゃあ! キール何するか!?」
「じっとしてろ」
 いきなりワンピースをめくられタイツを引き下ろされて、メルディは真っ赤になって足をばたつかせた。対するキールはあくまで真剣な表情で、暴れる彼女を押さえつけて傷を探す。褐色の肌にぷつりと赤い点ができているのを見て、彼は躊躇いもなくそこに顔を寄せた。
「ひゃんっ!?」
 びくりと身体が跳ねる。
 思いのほか過敏な反応に、キールはおもわず視線を上げてメルディの顔を見上げた。気遣わしげに問いかける。
「そんなに痛かったのか?」
「……ふぇ?」
「涙目だぞおまえ」
 指摘されて目元に手をやると、確かにそこは湿り気を帯びていた。
「ちが……」
 この程度の痛み、どうということはないと言おうとしたが、舌は絡まってうまく動いてくれなかった。
 だって。なんて言えばいい?
 痛かったんじゃなくて、そうじゃなくて。
 痛みゆえではない、別の理由を改めて自覚した途端、頬に血が昇ってくる。
 それを見て、しゃがんだままきょとんとしていたキールの口の端に、やがて意地悪そうな笑みが浮かんだ。
 ……なるほど。そういうことか……
 覗きこもうとしても目をそらされる。ここまで露骨な反応をしておいてばれていないとはメルディも思っていないだろう。
 つまりは。
 おそらく自分の予想は当たっているのだろうなと思いながら、彼はもう一度傷口に舌を這わせた。
「やっ……」
 案の定、メルディがびくびくと過剰なほどに身を震わせる。
「……感じたのか?」
「っ、っちが、ちがう……」
 キールのおもしろがっているような声音に彼女は必死で首を振った。触れるか触れないかの距離で細い足の上を唇がすべる。
「やぁあ……」
 メルディが耐えきれずに悲鳴をあげたのと、彼女の耳に押し殺した笑い声が響いたのはほぼ同時だった。
「やっぱり感じてるんじゃないか」
「っキールが、せい……だもっん、きーるが……」
「ぼくがなんだよ?」
 わかっているのだろうに、あくまでとぼけるつもりなのか。
 メルディは熱に潤んだ瞳で蒼い目をにらみ返した。
 初めて結ばれた夜からまだ数ヶ月も経っていないというのに、この身体には、すでに何が起ころうとも忘れえぬほどに彼に愛された記憶が染みついている。刻み込まれた感覚はほんの少しの刺激でいとも簡単に呼び起こされてしまうまでになっていて、だからこの程度の行為にすら全身の血が熱くたぎるのだ。
 昨夜も無数に落とされた口づけには、確かに今彼が唇を寄せている場所も含まれていたのではなかったか。
 そして、その後……
 思い出してしまって羞恥に頬を染めた彼女の唇に、立ちあがったキールは自らのそれを重ねて貪った。ゆっくりと華奢な身体をソファに押し倒し、服の裾から手を滑り込ませる。
「やっあ……っ」
 メルディは泣きそうな顔で首を振ったが、彼はかまわず細い頤をつかんで無理やりに口づけを続けた。
 逃れようと身をよじるその抵抗がだんだんと弱くなってゆく。














 髪を軽くひとつにまとめていた黄色いリボンを引きほどくと、淡い紫色がふわりと広がった。
 同時に立ち昇る甘い香りを胸いっぱいに吸い込んで、かわりに首筋に熱い吐息をかける。咲き初めの花のように次々と淡く染まっていく肌に唇を押しあててひときわ鮮やかな色合いを落としこむと、真珠の色をしたちいさな歯列の間から切なげなため息が漏れた。
 塞いでもどこからか漏れ出る声は、それだけで彼の思考をかき乱すには充分すぎる。頭の中は真っ白に霧がかかったようになっていて、けれど目の前の肢体に対する欲望だけははっきりと自覚していた。
 心の奥底からあふれ出る欲求にただ正直に従うだけの自分の身体。壊してしまうのではないかとふと不安に駆られた彼に、どこまでも透き通った紫水晶の瞳が微笑みかけた。
 一瞬の逡巡は彼方に消え去り、愛しさが募る。キールは衝動のままに、細い身体を掻き抱いた。
 熱に溺れているときでさえ、彼女は気遣いを忘れない。





 これは、果たして慣れてしまったゆえなのだろうか。指先で軽く触れられるだけで身体中に熱が走り溶けてしまいそうな錯覚を覚える。目の前にあるのは蒼と白、冷たい色彩として認識されるはずの色なのに、なぜか自分はこの色を見て自らの中に炎を灯す。
 触れられたことのない場所などない、おそらく彼の知らないものなどこの身には存在しまい。まるで少しもあますところなく、すべて、まるごと自分のものだと主張するかのように肌をまさぐる手のひら。その手つきは乱暴だったり優しかったり、そのときによってさまざまだけれど、いつも共通していることがある。
 その唇にも瞳にも、手のひらにも指の先まで、あふれんばかりの想いが込められていることを。
 わかっているから、だから抗えない。
 胸の中に熱いものが広がっていくのを、他人事のように眺めているだけ。








 全身を熱が駆け抜けると、徐々に身体の芯が溶けてくる。熱さゆえか、甘さゆえかそんなことはわからない。
 確実に言えることは、二人が共に求めてやまない瞬間が、この後来るということ。
 機会をはかるように彼女の中をうごめいていた長い指が、不意に止まった。
「ふぁっ……あ、は、やぁ――――っ……!」






 意味を為さない喘ぎを塞ぐように唇を重ねて、その瞬間、二人はひとつに溶けた。















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