抱える、色彩(後) 「……にゅう……」 可愛らしいうめき声に誘われて、沈んでいた意識が覚醒の方向へ向かう。少しずつ少しずつ、ぼやけていた視界が焦点を結ぶ。 目の前にあったのは、ソファカバーの生成り色だった。 あれから、しばらくの時間がたったはずだ。頭を上げてあたりを見まわす。 当然ながら、部屋の中は薄暗い。カーテンの隙間から差し込んでくる紫色の光が、今が夜であることを教えてくれていた。 腕の中ではメルディがすうすうと気持ちよさそうな寝息を立てている。安心しきっているのか剥き出しの肌を隠そうともせず、無防備にさらした姿。暗闇に慣れた目にその肢体が描く曲線が浮かび上がっているのをぼんやりと眺めてから、キールはおもむろに細い身体を抱き上げた。 ちゃんとベッドに寝かせてやらなければ。 いくら自分のほかには誰も見ているものがいないとはいえ、覆うものもなしに彼女の肌を外気にさらしておくのは気がひける。 寝室の扉を開けてメルディを横たえると、いつからそこにいたのやら寝台にうずくまって眠っていたクィッキーがもぞもぞと身じろぎした。ぴくぴく耳を動かし、衣擦れの音に反応して顔を上げる。 「……悪い。起こしたか?」 小声でささやいてそっと背中をなでてやると、クィッキーは今度こそ起き上がって身軽に床に降り立った。 キュルルルー。 ちいさく音が響く。 一瞬鳴き声かと思ったのは実は腹の鳴った音だったらしく、その次には青い獣は小首を傾げてから廊下に走り出て、催促するようにぱたぱたと尻尾を振った。 そういえば、夕飯がまだだ。 ただでさえメルディは夜はキールの相手で手一杯でクィッキーをかまってやる時間がないというのに、その上今日は夕方からずっと独占してしまって食事さえ摂らせてやれなかった。 なんとなく罪悪感を覚えて、彼は頭を振って壁にかけてあったシャツを軽く羽織り、再び居間に戻った。 浅い皿に顔をうずめて懸命に食べ物をほおばるその毛並みを指で軽く梳きながらひとりごちる。 「…………悪いな……いつもほったらかしで」 「クキュ?」 まん丸い黄色い瞳がキールを見上げ、そしてまた皿に戻った。それほど気にしていない様子に苦笑して、彼はすぐそばの椅子に腰掛けた。 ふと、考える。 クィッキーは、どういう気持ちでメルディのそばにいるのだろう。彼女のことが好きで好きでたまらない、というのは見ていてわかるけれど。 それは、わかるのだけど。 自分とは違う――だろう、やはり。 多少やきもちを焼いたりする素振りこそ見せても、このちいさな獣からは自分のようなともすれば暗く変化する感情は見うけられない。ただ純粋に主人の幸福を願い、共に分かち合う。彼女が自分以外の人間と楽しそうにしている姿を見るだけで、暗い炎から逃れられなくなってしまう自分とは違う。 ……少し、うらやましい。 クィッキーのように、透明な気持ちだけでメルディのことを想えたなら、どんなにいいだろう。綺麗ごとだけで構成されている人間などいないのだということはとっくにわかっているけれど、それでもあこがれずにいられないのは、潔癖を望むわがままゆえだろうか。 「……クキュ……?」 いつのまにか食べ終わったクィッキーがシャツの裾を加えて引っ張ってきた。沈みかけていた思考の海から急速に呼び戻されて、キールははっと顔を上げた。 「あ? あ……、終わったか。おかわりは?」 いらないと言うようにふるふると尻尾を揺らして、青い体がソファに飛び移る。そのまま丸まっておとなしくなったのを見計らって皿を流しに置き階段を振り仰ぐと、二階からかすれた呼び声が聞こえたような気がした。 「メルディ?」 急ぎ足に階段を上って寝室に入ると、とすんと柔らかいものがぶつかってきた。胸元に擦りつけられるふわふわした髪の毛に、その柔らかいものがメルディだと気づくのにそう時間はかからなかったが、なんだか様子がおかしい。 震えている。 「……どうした?」 顔を見ようと心持ち身体を離すと、いやいやをするように首を振ってぎゅっとしがみついてくる。 「怖い夢でも見たのか?」 「んーん」 「じゃあなんだよ」 メルディを抱き上げて寝台に横たえ、自分も隣に滑り込んだ途端に、キールは引きずり倒されて華奢な身体の上に倒れこんだ。 「おっ、おい?」 潰してしまうではないかと慌てて身を起こそうとしても、離してくれない。 「おい……」 ぽたりと丸い染みがひとつ、シーツに落ちた。続けざまにぼたぼたとしずくが後を追い、染みはみるみるうちに大きくなっていく。 「……いなくなっちゃったか、おもったよぅ……っ」 声を殺して泣き始めたメルディに、キールはおろおろと手を宙に泳がせてから彼女の背中に腕をまわして抱きしめた。 仰向けになったままで際限なく溢れる涙が耳に入ってしまいそうになるのを、阻止しようと横を向かせる。おさまりそうにない震えを無理やり止めようとして、彼は腕に力を込めた。胸が締めつけられるような息苦しさを覚えて、知らず眉をひそめて低い唸り声を漏らす。 わかっている、理由くらい。深すぎる傷は、癒えかけてきたとはいえ完全に消えるようなものではないのだから。昔に比べれば格段に落ち着いてきたものの、やはり恐怖はまだ残っている。起き抜けのはっきりしない頭では、それが突然よみがえったとしてもなんら不思議はないだろう。 彼は子供をあやすように抱きしめた身体をゆっくり揺らしてやりながら、諭す口調でささやいた。 「ちょっと下に降りてただけだよ……クィッキーが、腹空かせてたから……」 「そだ! メルディクィッキーにごはんあげてない……クィッキーは、下にいるか?」 メルディはがばっと起きあがって寝台から降りようとした。慌てて捕まえる。 「もう寝てるって!」 「……そっか。メルディダメだな……クィッキーがこと忘れちゃうなんて」 しゅんと肩を落とし、いかにも気落ちした表情に、キールは多少むっとしてつかんだ腕を力任せに引き寄せた。 たった今まで、ぼくのことしか頭にないみたいに泣いてたくせに。 どうしてこれほどまでに無邪気なのか。こちらの焦がれる想いになど気づきもしない。 キールは寝室の扉のほうに向けられていた顔を両手ではさんで固定し、無理やり唇を重ねた。 「んっ、ぁっ……?」 驚いたのだろう、反射的に逃れようと暴れる脚の間に膝を差し込んで開かせ、組み敷く。 もう一度、とことんまで乱してやろう。 つい先ほどクィッキーに申し訳ないと思ってしまったことも都合よく忘れて、彼は本能の導くままにやわらかな肌をまさぐった。 ただ純粋に好きでいたいと願っても、やはり自分にはそれは無理なのだと思い知る。 何もかも、手に入れて、彼女のすべてを、自分のものに。 強すぎる独占欲に、内心自分で自分をあざ笑いながら、キールは重ねた唇を割って狭い口内に舌を差し入れた。 「んんっ……」 拒まれるかと思いきや、メルディは抗うでもなくされるがままになっている。 姿が見えなかった、ただそれだけのことがそんなにも心細かったのかと切なくなって、彼は今も小刻みに震えている身体を抱きしめる手に力を込めた。 「もっと」 「……ん?」 「もっと、ぎゅってして」 メルディは身を苛む快楽に耐えながら切れ切れに言葉を繋いだ。 今でさえ息苦しいほどに力強く抱きしめられている。少し、痛い。 けれどこの痛みこそがキールの想いの強さを表しているような気がして、ちゃんとここに、一緒にいるのだということが確信できるような気がして。 「……キール……ここにいるな?」 「ああ」 間髪いれずに返事が返ってくる。 「ここにいるな?」 もう一度尋ねるメルディに、キールは蒼い瞳を細めて口づけを繰り返した。 「……んっ……っふ、ぅん……」 「ここにいない人間に……こんなことできるか?」 できないだろう? そう耳元でささやく声には焼けつくほどの熱が込められている。 温度の上がり始めた身体を再び完全に彼の手に委ねて、メルディは襲い来る波に意識までもさらわれていった。 そういえば。 瞳と髪の紫色を目に焼き付けながら、キールはふと考えた。 今は、どんな色をしているのだろう? 自分の、彼女の、こころは。 ただひとつの想いから、生まれ出る数多の色彩は。 願わくば――――…… --END. |