自分にとって一番大切なもの。 それが変わる日がくるなんて、想像したこともなかった。 変わり得た…(前) ティンシアから使いがくるのは、そう珍しいことではない。バンエルティアの研究をしていた頃に比べれば行き来する回数は減ったものの、彼の能力を高く評価する人間はたくさんいたし、そうであれば種々の研究の手助けの要請がくることも、まあ、わからないことではない。 ないのだが。 「……二週間、か」 「ああ」 二人と一匹の和やかな夕食時、その知らせはやってきた。 内容自体はたいしたことではない。シルエシカの研究の手伝いをしてほしいというもの。 もともとキールは数ヶ月に一度はティンシアを訪れることにしていた。彼が考え出して実用化した道具や装置は需要があればティンシアの工場や職人の手で大量生産されることもある。二人の収入はそのティンシアからの工場のものと、たまに近所の子供たちに簡単な勉強を教えることから得られていた。 だから特に珍しいことではない。 ただ、いつもは三日ほどで帰ってくるはずが、少し長引くかもしれないというだけの話だ。 「うー……」 無表情でこともなげにうなずいたキールに、メルディは頬を膨らませて不満そうにうめいた。 「メルディも行きたい……」 いじけたような表情で、料理をスプーンでかき混ぜる。キールは彼女の手からスプーンを奪い取った。 「行儀悪いぞ」 「わざとだもん」 彼ははあ、とため息をついてスプーンを卓におき、メルディの隣に移動して肩を抱き寄せた。甘えるように擦り寄ってくる頭を抱え込んで額に口づけをおとす。 「二週間だろ? すぐだよ。そんなに遠くに行くわけじゃなし」 「……んん」 首を振ってまぶたを閉じて顔を近づけてくる彼女に苦笑を漏らして、唇を重ねる。たっぷり数分間吐息を交わしてから、彼はメルディをやわらかく抱きしめた。 「すぐ帰ってくるから」 「……はいな」 まだ納得がいかないながらもとりあえず満足したらしい恋人の背中を叩いて、彼は立ち上がった。部屋の隅ではクィッキーが素知らぬ顔で毛づくろいしている。 たぶんわかってるよな……クィッキーって。ある意味気の毒だ…… そう思ったが、知らぬふりをしてくれるならそれはそれでありがたい。 「ほら、片付け片付け。ぼくも手伝うから」 「っと! もうこんな時間! メルディ、おふろわかしてくるよ!」 ぱたぱた走り去った彼女を見送って、キールは皿を片付け始めた。 「キール、お久しぶりです!」 びしっと胸元に手を当て、相変わらずはきはきした様子で喋るアイラに、キールは薄く微笑んでうなずいた。 「ああ、久しぶり。ここのところ顔出してなかったものな」 「ボスも奥様も久しぶりにあなたがたに会えると喜んでおいででした……あら? メルディはご一緒ではないのですか」 「メルディは留守番。……つれてこないとマズかったか?」 アイラは戸惑った表情で頬に手を当てて首を振った。 「いえ、不都合はありませんが……」 あなたは平気なのですか? 暗にそう問われているのがわかって、キールはわずかに頬を染めてそっぽを向いた。 「大丈夫だよ。二週間くらい」 片時も離れていたくないと思うのは事実だ。しかしだからといって本当に始終離れずにいるわけにもいかない。お互いが個々の人間である限り、自らの柱をすべて預けてしまうのでは、良い関係を保ちつづけることはできない。メルディを支えたい、そのためにはまず自分の足を地につけていなければ。 「……二週間?」 眉をひそめたアイラに、彼はつられて訝しげな表情になった。 「違うのか? そう聞いたが」 「とんでもない! 二週間程度で終わるものではありませんよ。だからこそあなたにお願いしたのです。使いのものは二週間と言ったのですか?」 「……そう聞いた」 アイラははああ、と長く息をついた。 「そそっかしい者だということは知っていたんですが……いくらなんでも……」 「じゃあ、本当は二ヶ月とか?」 「そうです」 キールは眉間にしわを寄せて黙り込んだ。二週間ならいざ知らず、二ヶ月もメルディに会えないのはさすがにつらい。アイメンにいる間は研究中はともかくそれ以外の時間はほとんど彼女とともに過ごしている。 それに二週間で戻ると言ってきてしまった。 「……」 下を向いてしまった彼に、アイラは明るい声を上げた。 「今日はもう無理ですが、明日にでもお迎えを出しますよ。ガレノスもいらしておりますから、たまには皆さんおそろいになるのもいいでしょう?」 「……そうだな、頼む」 キールはほっとしてうなずいた。確かにそれほど深刻に考え込むようなことではない。長びくなら連れてきてもらえばいいだけの話だ。 臍曲げてなけりゃいいけど。 メルディはなんだかんだいって意地っ張りなところがある。感情表現は至極素直なくせに、言い出したら聞かない。……いや、意地っ張りというよりも自分の感情に正直だからこそのあの反応なのだろうか。気を使われて気持ちを押し込める姿を見るよりは、ずっといいけれど。 「では、早速参りましょうか。数日前から皆さん頭をひねっておられるのですが、どうも晶霊学の知識がなくてはどうにもならないようで。ガレノスがキールをつれて来いと」 「ん。わかったよ」 一人の食事というのは、味気ないものだ。 いつも作るときはキールにおいしいと言ってもらうこと、それだけを全力で考えているから、自然献立にも力が入らない。 それでも栄養を取らなければならないということは頭ではわかっていて、だからとりあえずメニューには気を使ったのだが。 青い毛並みの親友は気遣いこそ見せてはくれるものの、完全に寂しさを拭ってはくれない。 クィッキーが喋れればよかったんだけどな〜。 埒もないことを考えながら料理に手をつけようとしたとき。 玄関の呼び鈴が鳴った。 サグラかな? ボンズかな? とにかく誰か人。ちょうどいいから食事にでも誘おう。 そう思って急いで戸口に向かう。 「はいな〜、どなた?」 がちゃりと扉を開ける。その勢いに驚いたのか、逆光で顔の見えない人影が軽くよろめいた。 ……見覚えがない。 「……だれ?」 警戒心もなくぽかんと尋ねるメルディに、その人物――若い男だった――は、胸に手を当てて 「ミアキスを胸に!」 と聞き覚えのある台詞を唱えた。 見れば、胸元にシルエシカのメンバーの証であるミアキスをかたどったバッジをつけている。 「ああ〜、シルエシカの人」 男はうなずいて、あげていた手を下ろした。 「メルディさんですね? アイラ副官のご命令で、お迎えにあがりました」 「……へ?」 「なんでも研究が長びくとのことで……どうせだからいらしてくださいと。詳しいことは伺っておりませんが……」 メルディは首をかしげた。 つまり、二週間どころではすまなくなったということか。 キールが発ってからまだ三日ほどしかすぎていないが、早く会えるのならそれに越したことはない。「じゃあ今すぐ……」と言おうとして、彼女はテーブルの上の料理の存在を思い出した。 「……あ〜ごはん残ってるんだった……そだ! 食べてかないか?」 「え、あの……」 「捨てるのはもったいないよ〜。ちょうどごはんの時間だし、な? 一人で食べてもつまんないから」 メルディはいつもキールに何かをねだるときと同じような感覚で目の前の男を上目遣いに見上げて微笑んだ。彼の頬がかすかに染まったのにも気づかず、ぴょこぴょこと無邪気に部屋の中に戻って手招きする。青年はぎくしゃくと戸口をくぐった。 「あ、じゃあ……いただきます」 「はいな〜、めしあがれ♪」 思いがけず早くにキールに会えるとあって、彼女はにこにこと椅子に座った。 食欲の戻ったメルディと体格のいい青年の二人にかかれば、料理がなくなるのにそう時間はかからなかった。 「だからここの抵抗を十とするとこっちにかかる負荷が……ほら、この計算式で出るんだよ。で、それと……」 「おぅ、キール! アレが出るなあ!」 豪快な笑い声をあげながら背の高い男がどかどかと部屋の中に入ってきた。アイラや他の研究者たちがさっと立ち上がって軽く頭を下げる。 「……精が出る、か?」 振り返って呆れた声で尋ね返してやると、「おぅ? 続けろ、続けろ」と部下の背中をばんばん叩いていたフォッグがふんぞり返った。 「おぅ、ソレよソレ! がはははは!」 うるさいわ「アレ」だの「ソレ」だのを連発するわ、およそ自分とは正反対どころか遠くかけ離れまくっている彼だが、キールはこの男のことはそれなりに好きだった。苦笑する。 「で、なんだ? 何か用があったんじゃないのか?」 「おぅ、アレよアレ」 「アレじゃわからない」 「だからアレだって、え〜と……アレ」 ため息をついて首を振るキールに、アイラが助け舟を出した。 「メルディが港についたのではないですか? そろそろでしょう」 「おぅ、ソレよ!」 また笑い出すフォッグ。キールは頭がくらくらしてきた。 ……人の名前くらい覚えとけ。 言っても無駄だとはわかっているが、それでもつっこみたくなる。無理やり言葉を飲み込んで、彼は立ち上がった。 「迎えに行ってくる」 「キール、ここに連れてきとくれ。アタシもひさびさにあれに会いたいでな」 「わかった」 奥から投げかけられたガレノスの声にうなずきを返して、キールは足早にその場を立ち去った。 研究者たちが顔を見合わせてしのび笑いを漏らす。たったさっきまで誰よりも熱中していたキールがあっさりと途中で抜けてしまったのだ。皆付き合いはそれなりに長いから、その訳もわかっている。余計おかしくて仕方がない。 「ふふ、笑いたくなるきもちはわかりますけどね。キールにばかり頼っているわけにもいきませんよ。少しは私たちも役に立たなければ」 アイラの言葉に彼らは表情を引き締めて計算式に没頭し始めた。 先の異変で活躍したシルエシカは、今ではセレスティアの行政機関となっている。港の隅にひっそりと停泊していたアジトはそれなりの規模の建物に変わり、街の中心部に陣取っている。 早足で港に入ったキールは、程なく見慣れた淡紫の頭を見つけた。 駆け寄ろうとして……ふと、足が止まる。 誰か、若い男と楽しげに話をしているのが目に入ったからだ。にこにこと上機嫌なメルディと、かすかに頬を染めて照れくさそうに笑う青年。 むかっ。 わざとゆっくり近づくと、話し声が聞こえた。 「おいしかったです、本当に。……ありがとうございました」 「いえいえ〜。どういたしまして、だな」 おいしかったですぅ? むかむかむか。 話の内容は気になるところだが、これ以上あんな楽しげな声を聞きつづけるなど、まっぴらごめんだ。キールは即判断を下すと、その場から動かずに大声で彼女の名を呼んだ。 「メルディ!」 ふっと振り返って彼の姿を確認すると、メルディはぴょんぴょん飛び跳ねた。……かと思うと、ものすごい勢いで突進してきてキールの首にすがりつく。 「ワイール! キール、キールだ!」 「うわ! 往来で抱きつくな!」 慌てて引き剥がすと、メルディは極上の笑みを浮かべて彼を見上げた。 「じゃあ〜、家の中ならいいんだな♪」 「まあそれなら……って! 話違う!」 笑顔がまぶしくて、先ほどの苛立ちは彼方へ飛んでいってしまった。うきうきと踊りだしそうなほど上機嫌な彼女の頭を優しくなでる。メルディは頬を染めて肩に乗っていたクィッキーを抱きしめ、その毛並みに顔をうずめた。 「よし、行くぞ」 キールはメルディの肩を叩いて促した。 「ガレノスも来てるんだ。会うの久しぶりだろ?」 「ガレノス! ガレノスも来てるのか。ウレシイな〜」 メルディはそのまま歩き出しかけたが、ふと思いついて後ろを振り返った。 「送ってくれてありがとな!」 ぼうっとこちらを見ていた青年が慌てて敬礼する。キールは無表情で軽く頭を下げて、メルディの手をひいて歩き始めた。メルディにその気がないのはわかってはいるが、あの青年の視界から一刻も早く彼女を連れ出したかった。 |