変わり得た…(後)
「キール、キール痛いよ」
メルディの訴えにキールははっと立ち止まった。つないでいた手を見ると、わずかに赤くなっている。つい力を入れすぎてしまったらしい。
メルディはほっとしたように笑った。彼が考えに没頭して自分の歩調で歩いていたために無理をしてついてきたのだろう、少し息が乱れている。
「……悪い」
「んーん」
肩を落として謝るキールに、彼女は首を横に振った。その笑顔がさっきシルエシカの青年と会話していたときに見た笑顔とだぶってしまい、彼は押し殺した声でメルディに尋ねた。
「……さっきの人」
「ん? ああ。ちょうどごはんのときに迎えにきてくれたからな〜一緒にごはん食べた」
それで「おいしかった」などと言っていたのか。
メルディは天真爛漫で、ほとんど人見知りをしない。初対面の相手にも惜しみなく笑顔を見せる。
加えて、この容姿。多分に欲目が入っている自覚はあるが、客観的に見ても充分美人の範疇に入る。もともと持っていた愛らしさに、最近はかすかに色気まで加わっていい加減慣れているはずのキールでさえどぎまぎする。
あの青年もおそらく、好意のかけらくらいは抱いただろう。
胃がむかむかする。
「……ふ〜ん」
気のなさそうな声で相槌を打って、それきり彼は黙り込んだ。どんどん速くなる歩調にメルディがあたふたしているのにも気づかず、ずんずんと通りを歩く。
そのままシルエシカの本部にいたり、メルディはその建物を見て目を丸くした。
立派になったなあ〜。
以前きたときはまだ建設中だったはずだ。完成予想図は見せてもらったものの、絵と実物とではやはり印象が違う。
広い廊下、明るい内装。
せまくてメンバー全員が入りきることのできなかった船と違い、大勢の人間とすれ違う。
キールは廊下に面した扉のひとつを開けて、メルディを中に引っ張り込んだ。
部屋はせまく、人っ子一人いない。カーテンが閉められていて、薄暗い。当然研究者たちのところに連れて行かれるとばかり思っていた彼女は、尋ねようと上を向いてそのまま硬直した。
「……んっ……」
かろうじてうめきが漏れる。扉に施錠する音がやけに遠くに聞こえたような気がした。徐々に深くなる口づけに、頭の芯が痺れて足に力が入らない。
それでも抱えあげられて乱暴に寝台に投げ出されたとき、メルディはなんとか上体を起こそうとした。間髪いれずに強い力で押さえつけられる。覆い被さってくるキールの瞳は前髪に隠れて見えない。じたばたしてみても身体は岩のように固定されて動かなかった。
「ちょ……まだ昼間だよぅ……」
「関係あるのか?」
「……ない、けど。……んん……」
抗議しようとしたが、問答無用で唇をふさがれて思考は甘く溶けてしまう。
「……四日会えなかったんだからな」
怒ったような声に二週間なんてすぐ過ぎると言ったのはどこの誰だったかと指摘してやりたくなる。
手早く服が脱がされていくのに気づいてメルディは頬を真っ赤に染めた。不自然に冷静なキールの表情に、思いついたことを口に出してみる。
「……ひょっとして……ヤキモチやいたか?」
彼はかっと赤くなってそっぽを向いた。その横顔に、可愛い、と本人が聞いたら顔を真っ赤にして怒りそうな単語が浮かぶ。なんだかくすぐったい。
メルディはくすくすと笑い出した。
「ごはん食べただけだよー? ナマエも聞いてないのに」
「……うるさいな」
ぎしりと寝台を軋ませてキールの重みが増した。少しの会話の間にすっかり剥がされてしまっていた衣服が二人分、衣擦れの音とともに脇に滑り落ちる。
「……あ」
「……嫌だなんて、言わないよな?」
今更。
頬を染めて目を逸らしてしまった彼女の上に、笑みを含んだ声が降ってくる。大きな手でしっかり口をふさいでおきながら、返事も何もあったものではないのに。
熱い吐息が首筋をくすぐり、メルディがあっと思う間もなく彼は優しいふくらみに顔を寄せた。
「……ふぁ……!」
びくりと震える身体中に唇を押し当て、褐色の肌をまさぐる。弱々しい悲鳴があがっても、そんなもの歯止めにすらならない。熱に潤んだ瞳に見上げられて頭が真っ白になりそうながらも、キールを支配していたのはあのとき感じた苛立ちだった。
自分だけしか見えないようにしてやる。他の男など、その存在さえも目に入らないように。
普通に生活する限りはいつもそうという訳にはいかないということはわかりきっているけれど、今だけでも。
今だけでも。
びくびくと過剰なほどの反応を見せる肢体をなだめるでもなく荒々しい手つきで愛撫しつづける。
「……メルディ」
甘く、何度もささやきかける。
「きー……る……っ!」
呼びかけに答えようとしているのだろう、涙声で途切れ途切れに名前を呼ばれるたび、彼の中の炎は大きく勢いづいて燃え上がった。耳元で響くあえぎに抑えがきかなくなりそうだ。身体の奥底が熱く煮えたぎる。
細い指が背中に食い込むのを感じた。上気した頬に一筋涙を流して、それでも決して離れようとはしない。
ついばむように重ねて少しずつ深く溶け合う唇から、吐息が入ってきて心をかき乱す。
意識も記憶も何もかも、ふやけて千切れて、輪郭なんて見えやしない。
薄闇の中の静寂を、しばらくの間荒い息遣いだけが乱していた。キールは汗に濡れてはりついた前髪を払い、華奢な身体を抱きしめて胸元に顔をうずめた。
「……好きなんだ」
ややあって、返事が返ってくる。
「……うん」
「……好きなんだよ。どうしようもないんだ……」
優しく包み込むように接したいのに、いつもこんな愛し方になってしまう。欲望と衝動だけが先走って、気遣いを忘れてしまう。
「……メルディはな、幸せよ」
ぽつりとつぶやいた言葉に、彼は顔を上げた。ちいさな手が蒼い髪を優しく梳く。
「シゼルが気持ち、今ならわかる。……きっとふたり、いっぱいいっぱい愛した。幸せだったな。……今のメルディたちみたいに」
「メル……」
泣くのではないかと思った。
けれどその瞳の宿す光は優しくて、……強い。予想していたような色は見られなかった。
「つらいこといっぱいあっても、今が好き……そういったな?」
「ああ」
メルディはうっすらと微笑んだ。
「幸せなおもいである、ムカシ楽しかった。……でもな」
淡い曲線を描く胸に熱くなった頬を押し当てる。壊れてしまうのではないかと思うほどの速さで心臓が脈打っている。
「一番好きなのは、今。……キールが愛してくれる、今。たぶんきっとこれからも今が一番好きだと思いながら……生きてくよ」
今日は、今日が好き。明日になったら明日が好き。十年経ったら十年後のまさにその日を好きでいる。
「今が好きだって思えるように……キールそばにいてな」
ずっと。
キールはたまらなくなってメルディを抱きしめた。誘われるように顔を近づけあい、唇を重ねる。
ふたりはそのまま眠りに落ちていった。
「……ん……」
メルディはちいさなうめき声で夢の中から引き戻された。頭の隅には海を漂っていたような記憶のかけらがある。キールの腕の中が心地よくて、そんな夢を見たのだろうか。
かすかに身動きすると、彼のまぶたもまた動いて、青紫の瞳がのぞいた。
「……朝……?」
部屋はまだ暗い。カーテンが閉まっているとはいえ、ここの窓は東向きだから夜が明けたらすぐにわかるだろう。メルディは首をもぞもぞ動かして否定の意を表した。
「まだだよー。……寝たの早かったからな……真夜中かな?」
「ん……そうか……」
再びまぶたを閉じかけたキールは、次の瞬間目を見開いて舌打ちした。
「どしたか?」
「……研究室に行くの忘れてた……」
ガレノスにメルディを連れてきてくれと言われていたのに。彼女のことで頭がいっぱいで、途中からすっかり抜け落ちていた。
そう言うと、メルディは彼の胸に額をこすりつけて含み笑いを漏らした。
「……んふふー」
やけに嬉しそうだ。
「……なんだよ」
「んん〜? キール、おべんきょよりメルディが大事だな? うれしいな〜」
「う」
目の前いっぱいに花のほころぶような笑顔が広がる。
ちょっと待てこれは反則……
キールは再び彼方に吹っ飛んでいきそうな理性を慌てて呼び戻した。なんとか正気を保つことができたものの、顔がみるみる赤く染まる。メルディが楽しげに声をあげて笑った。
「きゃははは! まっ……か……んっ!」
言い終わらないうちに強引に唇をふさがれて思わず目を閉じる。舌が、指先が肌を這う。
いつものことだけれど、メルディはキールに口づけられると何も考えられなくなってしまう。求めに応えることに夢中になってしまう。彼はそれを知っていてやっているのだろうか。
……たぶんなんとなくは察しているのだろう。だからこそこんな強硬手段に出るのだ。
「……キールヒキョーだな〜……」
一通りの愛撫が済んで解放された唇から漏らされたちいさな呟きを彼は聞き逃さなかった。
「……物足りない?」
余裕ぶって低く耳元でささやいてやると、メルディの顔にボッ! と火がついた。
「うひゃあぁ、もういいよぉ〜」
これ以上やったら熱出ちゃうぅ〜。
真っ赤になってあたふたと逃げ出そうとする細い身体を後ろから無理やり抱きすくめる。
「ひゃあ!」
メルディは悲鳴をあげて後ろを振り仰いだ。だが次の瞬間、一気に脱力してため息をつく。
目の前にあったのは、寝顔だった。どうやら芝居ではなく本当に眠っているらしい。規則正しい心音と呼吸。さっきまでの態度が信じられないくらい、あどけない顔。
「……なーんかハラたつな〜」
つぶやいてメルディはそのまま自分を捕まえている腕に一度えいっと爪を立ててから指を絡ませて、目を閉じた。
次に目覚めたら、きっと朝になっているだろう。
変わり得たもの。
なにより大切な……
--END.
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