霧雨が降る。
音もなく、ただ細かい水滴が漂うようにあたりを湿らせる。
雨にけぶる風景は、幻想的といえないこともないかもしれない。
霧雨の岬
セレスティアの空は昼間でも薄暗い。
乏しい日光を補うためのエラーラを彼は持っておらず、だから出歩くときはいつも携帯用のランタンが欠かせない。ランタンに火を入れながら彼――キールは誰にともなくつぶやいた。
「やっぱり不便だよなあ……今度は火を入れなくても使えるあかりでも考えるか……」
すでにセレスティアの町で使われている街灯は晶霊の力で火を使わずに明るく光るものだが、携帯用のあかりはまだ実用化されていない。技術力からすればとっくに存在してもおかしくないものなのに、その必要がなかったためか誰もそのようなことを思いつかなかったらしい。
基礎は確立されているからそれほど苦労せずに作り出せるだろう。張り合いはないかもしれないけれど、必要なのだから。必要は発明の母、とはよく言ったものだ。
インフェリアとセレスティアを結ぶ航路ができてからそろそろ三ヶ月ほどたつ。まだ定期的に行き来できるほど地固めができているわけではないが、とにもかくにもひとつ、自分の役目は果たした。まだまだやるべきこと、やりたいことはたくさんある。しかし、かつてほどの忙しさはない。今はたまにインフェリアを訪れて研究をするかたわら、専ら必要なものを考えて実用化したり、いまだ完全には習得できていない――もっとも、日常生活ではすでにまったく問題ないレベルにまで達してはいるのだが――メルニクス語の勉強をしたりしてのんびり暮らしている。
メルディと、ふたりで。
このアイメンの街で。
「さて……」
ランタンのふたをパタンと閉じて、キールは椅子から立ち上がった。
自室を出て家の扉を開けると、ちいさな悲鳴があがった。
「メルディ?」
外開きの扉を注意深く開けて顔を出す。案の定、紙袋を抱えた華奢な娘が尻餅をついてこちらを見上げていた。袋から野菜や果物がいくつか飛び出して、地面にころころ転がっている。
やっぱり内開きに変えるべきかな、と思いつつキールはその辺にこぼれた食材を拾い上げ、彼女に手を差し伸べた。
「悪い……大丈夫か?」
「ん」
にっこり笑ってメルディが立ち上がる。ぱたぱたと服についた汚れを払い落とし、彼女はキールのもっているランタンを見て不思議そうな顔をした。
「キール、出かけるのか? もうすぐごはんよ?」
「ん? ああ、ちょっと図書館に見たい本があって。どこにあるかはわかってるから、すぐ戻ってくるよ」
そういってあかりを掲げてみせた彼にメルディは首をかしげる。
「……図書館までならランタン要らない」
「ついでに岬の砦の様子も見てこようと思って」
キールはよくアイメンの岬にある砦跡を訪れていた。ただでさえ晴れることなど滅多にないセレスティアでは、夜になると煌々と街じゅうに明かりが灯り、天体観測に不向きなのだ。その点、ある程度街から距離があり、目と鼻の先には海しかないあの場所は星もよく見える。砦の中の部屋もこざっぱりと掃除し、雨漏りや暖炉の煙突も修理して着替えや保存食を常備し、何日か暮らせるようにしたのは彼自身だった。
「ふーん。早く帰ってきてな」
「わかってるよ」
手を振っていそいそと通りの向こうに消えたキールを見送って、メルディはため息をついた。
「ほんとに早く帰ってきてよ……?」
探していた本はすぐ見つかった。エラーラなしでも遠くの人間と通信ができるような機械はできないものかと思案していたキールにガレノスが示した本。彼がエラーラ電話を発明したときのヒントになったという。そもそもエラーラがなければどうしようもないのかもしれないとは思うが、まあ何かいい考えが浮かぶかもしれない。
本を開き、そのまま読み進めていたキールはふと顔を上げた。外はだいぶ暗くなっている。時計を見ると、すでに夕飯時といえる時刻をすぎようとしていた。ついのめりこんでしまったらしい。階下から司書を務めている女性が登ってきた。
「キール? そろそろ閉館したいのだけど……」
「あ、ああ、悪い」
彼は慌てて本を閉じていつの間にやら散らかしていた机の上をばさばさと片付けた。
「これ、借りてく。貸し出し期限は?」
「いつでもいいわよ」
司書は肩をすくめて笑った。
「どうせそんな難しい本読むのはあなたくらいだもの。技術者連中はともかく、学者はみんなティンシアに行っちゃってるしね」
「助かる」
「いーえぇ」
本を何冊も抱え上げたキールに彼女は首を振った。人の悪そうな笑顔を浮かべて見上げてくる。
「それより、さっさとお帰りなさい。まったく、あんなに可愛い奥さんがいるってのに野暮な人よね。学者ってみんなそうなの?」
「なっなんだよいきなり! それに奥さんって、別に……!」
「はーいはいはい。いいからさっさと出て行く! 鍵が閉められないでしょう?」
司書は頬を真っ赤に染めたキールの背中を無理やり外に押し出した。
「じゃあね〜」
「違うんだからなっ! 妙なこと言いふらすなよ!」
指を突き刺すように突きつけて叫ぶキールが見えなくなると、女性は耐えきれずに笑い声を漏らした。図書館の隣家の窓から彼女の夫が顔をのぞかせる。
「おまえ、まーたからかったのか? よくやるよな、女どもはまったく」
「だって心配なんですもの」
笑いすぎて涙さえ浮かべながら、女性は腹をさすった。なんだかんだいって、心配しているのだ。すでに周りからは夫婦同然だと思われているのに、一向に進展する様子のない彼らは見ていてじれったい。もちろんおもしろいからというのも理由のひとつではあるのだけれど。
「あー、お腹痛い」
「……あんまりちょっかい出すとかえってこじれるぞ?」
「大丈夫よ。成り行き成り行き♪」
「……だから……ちょっかい出したら成り行き任せじゃなくなるだろが……」
頭を抱えて彼はつぶやいた。
「あらキール、今から帰るとこかい?」
「ああ」
紫色の街灯に照らされた道を急ぎ足で歩いていたキールは、見知った顔に呼び止められた。結局遅くなってしまったので、岬の砦には明日寄ることにしたのだ。今ごろメルディはぐうぐう鳴る腹を抱えながら律儀に彼を待っていることだろう。すぐ帰ると言ってしまったのだから。はやる心を無理やりに抑えつけて声の主に向き直る。
「ちょうど良かった、今あんたたちのところに行こうと思ってたのよ、はいこれ」
ずしりと重い袋をはい、と渡されてキールは思わずよろめいた。本を何冊も抱えた上にこれでは、さすがにきつい。
「な、なんだこれ?」
「タスクよ。実家からたくさん送ってきたんだけどさ、うちの人とあたしだけじゃ食べきれないから、ご近所中におすそわけ。あんたたちは若いし、たくさん食べるでしょ?」
いや、いくらなんでもこの量は、と反論しようとしたが、ちょうどいいタイミングで遮られる。
「なんたって、これからなんだから。精力つけなきゃねえ」
彼女の言葉が意図する意味を悟って、キールは真っ赤になって絶句した。
精力って……精力って。
「ま、そういうことだから。がんばってね」
ぽんと肩を叩いて女性が行ってしまうと、彼はどさどさと抱えていたものを地面に取り落とした。
だーかーらー! なんでそうなるんだよ!
なんだってそうやってくっつけたがるんだ!?
メルディのことは、好きだ。ともに死線をくぐりぬけた仲間として、そしてもちろん女性としても。理性が衝動に負けそうになったことだって、一度や二度ではない。
それでも、いつかはとは思っているけれど、それは今ではないとも思う。まだ違う、まだ違うと思いながら数年を過ごしてきた。
普段はそんなことまったく考えていない。メルディを気遣う余裕は出てきた。しかしそれよりもいつも頭を支配しているのは本や機械のこと。だいたい四六時中意識しているようでは、とてもひとつ屋根の下でなど暮らせない。
(帰りたくないな……)
半ば本気でそう思った。メルディに会いたくないというのではなく、今こんな精神状態で顔を合わせようものならそれこそ何をしてしまうかわからない。
他ならぬ自分自身の手で彼女を傷つけるのだけは、絶対に嫌だ。
今夜は岬の砦に行くか……
とりあえず一緒に夕食をとって、天体観測に行くとでも言えば納得してくれるだろう。いくらなんでもこのまま何も言わずに行ってしまうのはまずい。
そう結論を出して、キールは重い重い袋をふたつ、持ち上げた。
「遅い!」
「クキュクィッキー!」
帰り着いた途端、ふたつの怒声(?)に迎えられて、キールはのけぞった。
予想はしていた――いや、悪いのは完全に彼なので、素直に頭を下げる。
「悪かったよ。……ついのめりこんじゃってさ」
「んもー! メルディもクィッキーも、お腹ぺこぺこよ! ほらほら、早く座る!」
「あ、ああ……」
メルディが頬を膨らませながらキールの腕をとって引っぱっていこうとした。思わずぱっと身をかわす。
「キール?」
手を差し出したままの格好でメルディは訝しげに彼を見上げた。ふわりと漂ってきた洗髪料の香りに頭がくらくらする。
いつもは全然気づかないのに。
どうしてこんなときに。
たったこれしきのことで、血潮が騒ぐ。
彼は無言で居間のソファに座った。振り返りながらも厨房に消えたメルディが、程なく湯気の立つ皿を運んでくる。ようやく食事にありつけるとあって、クィッキーはすこぶる上機嫌な様子でその辺を飛び跳ねている。いつもどおりの光景。
献立はセレスティア料理とインフェリア料理が半々の割合だった。インフェリアにしかない食材をセレスティアの似た別のものでうまく代用して作ってある。味付けもなかなかのもの。
結局キールは終始無言だった。声を出したのは最初の「いただきます」と最後の「ごちそうさま」だけ。そのまま立ち上がる。
「……キール? ごはんおいしくなかったか?」
メルディが恐る恐る聞いてくるのに、彼は首を振った。
「……そんなことない。インフェリア料理もだいぶうまくなった。本当だ」
「じゃあ、なんで? なんでしゃべらないか」
メルディがすがるような瞳をしているであろうことは見ずともわかったが、振り返らない。
……視線をあわせてしまったら、きっとそこで終わりだ。
「……岬の砦に行ってくる。たぶん一晩かかるだろうから、鍵かけて休んどいてくれて構わない」
「キー……」
ぱたん、と軽い音をたてて目の前で閉まった扉を見やったまま、メルディはその場に立ち尽くした。クィッキーがかりかりと扉に爪を立てる。
「……片付けるか」
家の中にいるのに、なんだか風に吹きさらされているような気がする。そんな思いを振り払うように彼女はぶるんとひとつ大きく身震いをして、のろのろと皿を重ね始めた。
……眠れない。
メルディは寝台の中で、その夜幾度目かの寝返りをうった。クィッキーは彼女の枕もとで丸まって、すやすや穏やかな寝息をたてている。
夕食のときのキールの態度が引っかかって、メルディの目は冴えたままだった。
触れようとしたら、ぱっと離れていってしまった。
見上げようとしたら、視線を逸らされた。
話しかけても上の空で、どこか遠いところを見つめているような気がした。
じわりと視界がにじむ。メルディは慌ててシーツで目をこすった。
どれもいつものことと言ってしまえばそうだし、旅をはじめたばかりの頃なんて、それはもう冷たい目で睨まれたものだ。
でも今日の彼の態度は今まで見たどれとも違う。
キールは旅が終わってからはずっと、優しかった。きつい態度をとることがあっても、無条件に信頼していられた。そう思わせる何かが、言葉の端々に常に存在していた。
気のせいなのだと思いたい。優しい彼に慣れきっているから、時々気まぐれで態度が変わるのに神経質になっているだけなのだと。
そう、思いたい。
……でも。
「なら、どうしてメルディがこと見てくれない? 触ってくれない? 笑ってくれない……ふっ、う……」
一人つぶやいてしばらく泣いてみても胸の痛みはおさまらなかった。今までなら、泣いた後は多少なりともすっきりした気持ちを味わうことができたのに。
胸がしくしくする。溶けない氷の針が突き刺さってしまったみたいに、どんなにあがいてもその針は抜けない。なんとかできるのは――キールだけだ。
『泣いてないで、理由をいえ』
ふっと、彼の声が聞こえたような気がした。
泣きじゃくっていた自分に投げかけられた言葉。
そうだ。
「岬の砦って言ってたな……」
メルディはごそごそ起き上がって普段着のワンピースを頭からかぶった。
一人で泣いていても仕方がない。
この痛みがキールにしか何とかできないと思うのなら、彼に会いに行くしかない。そして、理由を確かめてみるしかない。
扉が閉まったひそやかな音にクィッキーはもそりと顔を上げたが、すぐにまた丸まって寝息をたて始めた。
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