霧雨の岬(後) 岬の砦までは小一時間といったところか。メルディにとってはそれほどきつい道ではない。 息を弾ませて小高い丘を一気に駆け上がり、砦が見えたところで、彼女は膝に手をついて息を整えた。天気の良い夜は満天の星空が望める空は、今はどんより曇って地上の光を反射して鈍く光っている。 メルディは音を立てないように明かりの漏れる窓に近づいてそうっと中を覗き込んだ。 寝台に座って壁に身をもたせかけた暗青色の頭が灯りの中に浮かび上がる。穏やかな瞳に理知的な光を宿してじっと動かない。読書に没頭しているらしい。ページを繰る音が規則的に静かな空気を揺らす。 なんだか胸が苦しくなって、メルディは窓から離れて砦の屋上へ向かった。放置されたままの瓦礫のひとつに座り込んで空を見上げる。雲がうごめいてときおり稲光が舞う。雨が近い。 邪魔できる雰囲気ではなかった。キールは本当に勉強が好きだ。きっと一生本と首っ引きで生きていくのだろう。 じゃあ、メルディは? メルディは、何と、……誰と、一緒に生きていくの? キールは、一緒に生きようと言ってくれた。 メルディは、キールと一緒にいたいと思った。今も、思ってる。 これから、メルディたちはどうなる? 空を見上げたまま、メルディはちいさな声で歌い始めた。 いつだったか、誰かが教えてくれた恋唄を。 空気が湿り気を帯びてきたのを感じて、キールは顔を上げた。 窓の外を見やると、雨粒が光を反射してきらりと輝くのが見えた。 いつの間に降りだしたのか、まったく気づかなかった。やはり読書には何も考えずに集中できる。このまま気持ちを落ち着かせて、明日の朝早くアイメンに戻ろう。メルディに、謝らなければならない。 窓の木枠が濡れ始めた。風が出てきたのだろう、このままでは部屋の中まで濡れてしまう。それに、そろそろ寒くなってきた。窓を閉める頃合かもしれない。 キールは立ち上がり、じっとしていたためにばきばきと音を立てる関節をほぐしながら窓に近づいた。 ふと、手が止まる。 か細い声が聞こえる。歌うように高く低く、哀愁を帯びて染みとおるような。 外は雨が降っている。 ……あいつ! キールは部屋の外に転がるように飛び出した。声は頭上から聞こえた。屋上への階段を、まろびながら駆け上がる。 いた。 けぶるような霧雨の中、膝を抱えて空を見上げ、歌う細い影。額のエラーラが淡い光を放ち、輪郭を夜闇の中に浮かび上がらせている。 状況も忘れて、一瞬見とれてしまった。 素直に美しいと思う。 「キール?」 名前を呼ばれ、彼ははっと我に返った。ずかずかと近寄って腕をつかむ。 「……何やってんだ! こんなとこで……休んでろって、言っただろ!?」 どこか夢見ごこちのようなぼんやりとした瞳が彼を見上げた。どうにもわかっていないらしい彼女にひとつ舌打ちをして、キールは軽い身体を問答無用で抱え上げて室内に運び込んだ。 部屋の隅においてある葛篭からタオルを何枚も取り出し、乱暴にしずくを拭う。たっぷりと水分を含んで際限なく水溜りをつくる髪の毛を一気に解きほどいて絞った。 「おまえなあ……寒さに強いったって、限度があるだろう! 今は、真冬なんだぞ!」 怒鳴りながら暖炉に次々薪を放り込む。やっと寒さを感じたのか、メルディは身震いをした。 「……怒ってるか」 「……」 ちいさなつぶやきにキールは呆れた様子で振り返った。 「当たり前だろう! まったく、風邪でもひいたらどうするんだよ。いっとくけど、心配してるから怒ってるんだぞ。それくらいわかってるよな?」 「……しんぱい? ほんとに?」 「当然だ。なんだよ今更」 顔をしかめた彼の視界に入ったのは、泣きそうにゆがんでくしゃくしゃになった顔。――いや、実際メルディは全身を震わせて泣き出していた。 「お、おい?」 「……なんで?」 キールは慌てて彼女の正面にしゃがみこんだが、しゃくりあげながらも何か言おうとしているのを悟って、消え入りそうな声に辛抱強く耳を傾けた。 「しんぱいしてる、ならなぜメルディがこと避けるか? どうしてメルディがほう見てくれない? どうして話してくれない? どうして……」 どうして、どうしてと繰り返すメルディにキールは途方にくれてしまった。まさか思いっきり意識しまくってましたとは言えない。そんなことを言ったら彼女はおびえてしまうかもしれない。 「どうしてっていわれてもな……」 適当な言い訳はないものかと考えをめぐらせるが、どうにも思い浮かばない。そうこうしているうちに、血の駆けめぐる音だけはどんどん速くなっていく。 メルディがついと顔を上げた。おろした髪は紫水晶の滝のように華奢な肩にこぼれおちている。ちいさな手は冷えきって赤く染まり、ワンピースの裾を握りしめている。薄く開かれたまま震える唇と涙に潤んだ大きな瞳をみとめた途端、キールは心臓を素手でわしづかみにされたような感覚を覚えた。 限界、だった。 彼はメルディの腕をつかんで引き寄せ、肩を寝台に押しつけて噛みつくように唇を重ねた。視界の端に一瞬驚いたような表情が映ったが、かまってなどいられない。 おびえてくれればいい。おびえて拒絶してくれれば、きっと止められる。 だから…… 目の前いっぱいに、キールの顔が広がっている。 滅多に至近距離で眺めたことのないその瞳は今は閉じられて、意外に長いまつげが影を落としている。少し湿った蒼い髪が額を、頬をくすぐる。 口づけ自体は、初めてではない。 数えられるくらいしかなかったけれど。 けれど、これは何かが違う。明らかに違う。 おもわずまぶたを閉じたその瞬間、熱が滑り込んでくるのを感じた。 体に力が入らない。心臓は踊り狂って、何も考えられない。心を占めるのは、むさぼるような口づけだけ。 「ん……」 鼻に抜けるような甘いうめきを聞き取って、キールは身体を引き剥がすようにしてメルディから離れた。離れた瞬間彼女の唇が名残惜しそうにおののいたのにも、もちろん気づかない。 メルディが崩れ落ちるようにその場に座り込むと、彼はそのまま踵を返し、部屋の外に出て行こうとした。 すばやく伸びた手が服の裾を捕まえる。 「……どこいくか」 「……悪い。頭、冷やしてくる……」 「外、雨降ってる」 「うん」 二人は黙り込んだ。立ち尽くしたまま、キールがゆっくり振り返る。 「……おまえ、こわくないのか?」 「へ? なにが?」 メルディは頬を染めたままきょとんとして彼を見上げた。その表情が意外で、キールは座り込んで彼女の肩に手を置いた。 「こわくなかったのか? その、ぼくのこと……」 こわい。こわいという言葉の意味は…… メルディはしばらくぽかんとしていたが、やがて首を振った。 「……なんで? どきどきした、けど……メルディ、こわく、なかったよ」 今彼の手が置かれている肩はまるで麻痺してしまったかのように感覚がない。 ……でも、この手を離して欲しいとは思わない。 キールは心持ち頭を傾けてじっと彼女の目の中をのぞきこんだ。言うとおり、その瞳には戸惑いこそあるものの、おびえも拒絶の色もなかった。 碧玉と紫水晶の合わせ鏡に宿るのは、同じ光。 最後の最後まで彼を繋ぎとめていた躊躇いは霧散した。キールはメルディの身体を引き寄せ、強く抱きしめた。ため息のように漏らされた吐息を聞きつけて唇を重ねる。 雨はまだ、降り続いている。 霧のように細かい雨粒に白くけぶる空気を透かして、月の光が淡く部屋の中を照らし出した。 淡紫の髪がふわふわと踊り、華奢な肢体を縁取っている。その髪の中に半ば顔をうずめて、彼は深く息を吸い込んだ。 甘い、花の香りがする。 目を閉じていても、夜気が肌を刺すのがわかった。 けれど無数の口づけが落とされ、あとからあとから生まれてくる熱はその冷たさに奪われても余りある。彼女はちいさな手でシーツを握りしめた。 この熱は、どこへ行くのだろう。 いつのまにか、雨は上がっていた。 窓から差し込む光に、キールはまぶしさを感じて寝返りを打とうとした。彼の動きに反応して、腕の中のメルディがもぞもぞ身じろぎする。 淡紫の髪に顔をくすぐられて、彼は跳ね起きた。頭を振りつつぼんやり部屋の中を見回す。 「ふや……?」 急に温もりが離れたためか、メルディがうめき声をあげて薄く目を開いた。 「……メルディ」 「……あ、きーる〜……おはよぉ……」 ごそごそと起き上がろうとして、彼女は一気に全身ゆであがったキールを不思議そうにしげしげと眺めた。 彼の視線の先を追って……自分の格好を確認して、次の瞬間、小動物のようなすばやさでシーツにもぐりこむ。 「お、おい」 頭のてっぺんまで隠れてしまったものだから、キールはついシーツに手をかけた。メルディが身を縮こませて涙声をあげる。 「やぁだ、やだ! みないでよキールのえっち!」 ……と、言われても。 同じシーツにくるまっているのだから実は無意味なのだが、わざわざ指摘して臍を曲げられるのもなんだ。熱い頬に手のひらを当てて冷ましながら、ため息をつく。 「顔くらいは見せてほしいんだけど……」 途方にくれたような声が聞こえて、メルディはおもわず警戒態勢を解いた。一瞬の隙を突いて抱きすくめられる。 「ふぁ!」 びっくりして叫んだら、耳元で低い笑いが響いた。 ひっかけられた。 なのに、耳朶を震わせる笑い声が心地よくて、怒ろうという気にもならない。 「……キールえっち」 仕返しのつもりで口に出した言葉も、途中で口づけの中に溶けてしまった。 甘い至福の一時に、すべてを忘れて身を委ねる。 充分に吐息を交わしてから、キールはおとなしくなったメルディの頭をぐりぐりとなでて、傍らにかけていたワンピースをかぶせた。 しばらく衣擦れの音だけがその場を支配する。 なんとなく手持ち無沙汰になった彼女は、ふと窓の外を見やってからキールの腕をつかんだ。 「ん? なに?」 ひきずられるようにして窓際まで移動する。 すでに雲が出始めていたが、さっきまで外の空気がどのような色に染まっていたか、二人には容易に想像できた。 「……幸福の雪……」 「ちょっとタイミングが遅かったな」 悔しそうなメルディにあっさり応じる。 「キール」 キールはのどを鳴らして、頬を膨らませて睨みつけてくる彼女の肩を抱いた。 「いつだって見られるだろ? ずっと一緒にいるんだから」 「……そ、だな」 ぽつりとつぶやいてメルディは馴染んだ胸に頬をよせた。 まだ熱が抜けきっていない身体に、早朝の冷たい空気が心地よい。 ずっと一緒にいよう。 生と死の狭間で交わした言葉は、今もなお色鮮やかにお互いの心の中に息づいている。 --END. |