せめぎあう感情が、揺れる。
 身勝手が、思いやりが、欲望が、願いが、それぞれ違う方向へとこの心をひっぱっていこうとするから、時折、息もできなくなる。







共鳴する(前)








 ひらひらと、薄紅色の花弁が舞っている。
 さやかに降り注ぐ三日月の光の下でも、色の薄い花びらは輪郭を闇に溶け込ませることなく、その存在を静かに主張していた。
 風は、それほど強くない。ときおり春に似つかわしくない冷たい空気が吹きぬけることはあるけれど――それは、季節のせいではなくごく近くに湖を望んでいるからだ。山から吹き降ろし、湖面を渡るその風の冷たさの影響か、この街は花が咲くのが少し遅いのだそうだ。
 もっとも、遅いだけで花は長持ちするからね。悪いことばかりじゃないんだけれど。
 宿の主人はそう言って笑った。急ぐ旅であるはずなのに数日滞在しようと決めてしまったのは、景色の美しさだけではない。慣れているとはいえ荒野を渡るのは体力を消耗する。ときどきは意識して心身ともに休める時間を作らなければ、いつか無理が来て前にも後ろにも進めなくなってしまうだろう。そして、どうせ留まるならば居心地の良いところに。誰もが当たり前に考えることだ。
 広くはないが、こざっぱりと掃除された部屋に案内された瞬間、連れとは口に出して相談するまでもなく目配せだけで意見の一致をみた。大きな街だ、人も多い。旅の理由を尋ねられれば観光と答えることにしていて、無論それは嘘ではないのだが。もうひとつ重大な目的に近づくためにも、ここを単なる通過点で終わらせてしまうのは惜しかった。
 連れは今、部屋にはいない。彼女一人。観光地としての収入もおおいにあてにしているらしいこの街の宿は、今のご時勢には珍しく湯浴みの設備も整っている。さすがに罪もない他人を驚かせるのは難なので、真夜中まで待ってから一人でこっそりと湯を使わせてもらうことにした。帰ってきたら姿が消えていたのだ。
 もっとも、それほど心配はしていない。どうせすぐに戻ってくるだろう。にぎやかな友人たちと共にいたころならばともかく、今の自分たちは始終一緒にいる。もちろん効率を考えてそれぞれ別の用をすませることもあるが――どうもお互いの姿が見えるところにいなければ落ち着かないのだ。
 一人だったころには想像もできなかった、欠落感。
 寂しさの意味は知っていた。だがそれにも慣れたと思った。一緒にいたいと思うような相手はいなかったし、誰かにすがって生きていくのは決して悪いことではないにせよ、自分には縁のないことだとも思っていた。
 特に何にも執着することなく、ただ保つのは己が身ひとつ、のはずだったのに。一年前の自分が見たら、どんな顔をするだろうか。
 不意にドアノブが回る音がして、思考は打ち切られた。
 目を向ければ、柔らかな褐色の頭がのぞく。帰ってきた連れは部屋の中の彼女をみとめると、一瞬呆れたような顔をして大またで歩み寄ってきた。
「なんだよ、灯りもつけてないのか?」
 もう遅いが、廊下は防犯と安全の意味もかねて煌々と明かりが点ったままである。急に暗い室内に入って戸惑ったのだろう、しきりに目を瞬いている。手探りでマッチを探す手をつかんで押しとどめ、彼女はそのまま彼を窓辺にいざなった。部屋が明るくなれば外の景色が見難くなってしまう。この光景を見せておきたい。
 鍵もかかってないし灯りもついてないし窓まで開けてるし。
 小言のつもりらしいぶつぶつしたつぶやきは涼しい顔で聞き流す。風に乗って、花弁が数枚舞い込んできた。頬をくすぐるその感触に目を細めると、すいと指先が伸びてきた。
「ラクウェル、ほら、じっとしてろ」
 どうやら髪に花びらがついてしまったらしい。おとなしくされるがままになる。取り除かれたそれは、彼が手を振るとまた風に乗って窓の外へと流れていった。
「すまないな」
「髪が冷たい」
 礼に対して文句を返しながらも、いじることはやめない。かすかに湿気を含んで重たくなっている髪は外気の影響を受けやすいのだろう。じわりとしみこんでくる手のひらのあたたかさにうっとりしていると、軽くひきよせられた。
 視界の端に薄紅が散る。ついで深い翠色。陽光の下では明るい緑に輝く彼の瞳は、暗闇の中では深い深い水底のような色彩を宿す。そのことに気づいたのは、初めて口づけを交わしたときだった。
 あの夜も、今日のように。少し冷たい風が吹いていて、せせらぎの音が聞こえて、月は朧にかすんでいた。
「……ん……」
 隙間から声を漏らすのは、自分だけだ。絶妙な間で息継ぎを許しながら、徐々に感覚と思考が浸食されていく。腰に回された腕がきつくなる。応えて服の背を握りしめながら、つまさきに力を込めた。背伸びする。けれどすぐに膝がふにゃふにゃになった。抱えられて浮いた身体を意識しながら、ただ夢中で、貪るような口づけを受け入れる。
「んっ、ふ……ぁ……」
 キスの仕方なんて知らなかった。ただ唇を重ねるだけだと思っていた行為は、想像していた以上に息苦しくて、綺麗なだけのものではなくて――それでももたらされるのは目がくらむほどの幸福感で、頭よりも先に身体がすぐに順応してしまった。
 最初のうちこそ、その馴れた様子に腹も立ったけれど。ふと握り合った指が少しだけ震えていて、彼も受け入れられるか不安だったのだと知った。それからはもう瑣末なことは思考の外に追い出すことに決めた。
 彼の本質は、きっと今この目に見えているものに変わりないのだろうから。それならそれでいい。
「…………アル、ノー…………」
 ようやっと出せた声はおかしいくらいに甘くかすれている。ちゅ、と頬で音が鳴った。服越しでもわかる、どくどくと波打つ心音の速度は同じだ。いつも氷のように冷たい自分の身体も、抱き合っているときだけは違う。同じ温度を共有して、ひとつに溶けているような錯覚さえ覚える。
 幸せで幸せで、少しだけ、……切ない。
「アルノー」
 恋人の名を呼ぶと、大きな手のひらが背中をなでた。髪を梳かれて、指先が、唇が、やさしく顔の輪郭をたどる。
 しあわせ、なのに。
 窓の外の薄紅が、なんだかぼやけて見えた。











 青い瞳が潤んでいた。初めて見たときはそれはもう驚いたものだったが、今ではそれほど珍しいものとは数えられなくなっている。
 ラクウェルは弱みをさらすことを覚えた。いや、思い出したと表現するべきなのだろうか。決して手当たり次第ではない、彼相手に限ってのことではあるけれど。一見感情が薄いように見える彼女だが、注意深く観察すれば考えていることは容易に汲みとれる。
 幸せそうに微笑むとき、不安を抱えきれずに表情を翳らせるとき。長いまつげの中に、常よりも多くの水分を蓄えて揺れる瞳を見れば、抱きしめずにはいられない。せめて大切に思っていること、それだけは確実に伝わるように。もしかしたら、傍からは噛みついているように見えるのかもしれない。それほど乱暴な口づけにも不満をもらさず、どころか、懸命に応えてくれるのが愛しくてたまらない。全身の神経を尖らせて、彼女の挙動ひとつ逃さないように努める。
 頭の隅でかすかに警鐘が鳴った。
 駄目だ、これ以上は。アルノーは押しとどめる自身の理性に従って唇をもぎ離した。ラクウェルが気づいた様子はない。頬を鼻をまぶたを、たどるたび漏らされる吐息は湿っている。はからずもその熱さを感じてしまった部分から、また全身に、爆発してしまいそうな何かが広がってゆく。
 掠れ声をすべて吸取ってしまいたい。触れて、口づけて、啼かせて、ひとつに。
 いつかの夜、戯れに触れたふくらみのやわらかさが忘れられなかった。思いのほか敏感に跳ねた恋人に彼のほうがびっくりして我に返り、冗談に紛らわせてしまったのだ。情けないとは思ったが、性急にことを運ばなくてすんだという点では自分のいくじのなさにむしろ感謝したいくらいだった。
 ラクウェルがその身の内に抱え込んでいる多くのものが存在しないならば。あのとき、なんの迷いもなく抱きしめられたのかもしれない。それとも、できなかっただろうか。
 彼女を喰らう。比喩でよく表されるように、そんなはずないとわかっているのに、常に怖れがつきまとう。他ならぬ自分が誰よりも愛しい女の命の灯火を奪う風となるのか。それとも覆い隠す衝立となるのか。
 欲望と怖れと、愛しさと。数多渦巻く感情が、彼の思考を混乱させる。それでもこの手を離すことだけはできなくて。
 だから。
「…………どうしたらいいのだろうな」
 つぶやきは低く低く空気を震わせたが、男のそれにはかなわない。ずばりと心情を言い表す科白を聞かされて、アルノーの心臓は大きくひとつ跳ねた。
「え」
「どうしたらいいんだろう、と言ったんだ」
 ラクウェルはまつげをふせて彼の胸に顔をうずめた。答えずに、さらさらと指先で色素の薄い髪をもてあそぶ。しばらくそうしていると、やがて彼女は意を決したように面をあげた。暗がりでもわかる。ゆがめた瞳からは今にもしずくが零れ落ちそうだった。口づけて啜りたい衝動に駆られるけれど、抑えて見つめ返す。
「私はおかしい。最近おかしいんだ」
 似つかわしくない早口は、羞恥のためなのか焦っているからなのか。
「こんなに満たされているのに……幸せなのに、まだこれ以上があるのではないかと思ってしまう」
「それは」
 反面こちらは、ちっとも口が回らなかった。ただ聞くだけだ。何故だろう。この先に、求める言葉があるとでもいうのだろうか。服の胸元がくしゃくしゃに握りしめられている。白くなってきた指先に、さすがに落ち着かせようと口を開いた瞬間――ラクウェルが血を吐くように叫んだ。
「これ以上なんてあるはずない、あるはずないのに!」
「おい、落ち着けラクウェル!」
 驚いて肩をつかんでも、振りほどこうとさえせずにがむしゃらに首を振る。
「慈しんでもらえるようななりをしてない、この、身体が! 元気になれなくたっていい、おぞましい傷跡さえ消えてくれればと何度も考えたさ! 奔走してくれている、おまえの気持ちも考えずに、ただ、ただ私は――――!」
「もういいッ!」
 アルノーは細い身体を力いっぱい抱きしめた。おしつぶされた肺からひゅうっと空気が漏れる。震えているのは寒さのせいではない。あふれる涙をぬぐう余裕はなかった。しがみついてくる仕種は幼子のように。
「俺が考えなしだった。俺はただ、無理させたら体調がって、そればっかり考えてた……おまえが不安になってるのも気づかなかった。自分をおさえるのに手一杯だった」
 愛情は充分伝わっているものだと思っていた。いや、事実伝わってはいたのだろう。母を早くに亡くしても、父の許を出奔しても、それでも愛されていたことはやはり事実で、記憶も消えない。幼い日に学んだ感覚はそのまま生かされていた。
 口づけして、頭をなでて、優しく名を呼ぶ。そうして満たされてゆく何かから、乾きもまた生まれることを知ったのはお互い最近のことなのだろうけれど。
「おまえは悪くない」
 ラクウェルが腕の中でかぶりを振った。
「私にはどうすればいいのかわからなかった。怖いのも事実なんだ。怖かったからずっと」
 彼女が恐れていたことと、自分が恐れていたことと。少しだけずれていた。お互いそんなこと気づいてはいなかったけれど、導き出される結論が同じだったために状況も変わらなかった。
 今のままでかまわない。今が一番居心地がいい。そう思ってずるずると引きずってきた。
 今更ながら自分が口走ったことの意味に気づいたのだろう、ラクウェルはちいさく縮こまっている。アルノーは彼女をやわらかく抱きしめなおしてからささやいた。
「俺も……怖かった。ずっと。けど」
 考えるより先に動いてみるのも、たまには悪くないのかもしれない。
 そろそろ迷うのはやめにして。

















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(05.04.10)