共鳴する(後)







 肌を見せようかと言ったら、そんなことするなと怒られた。
 そのときの自分はいったい何を考えていたのだろうか。邪な目で見られないことは確信できていた。ただ純粋に、あそこで何が起こったのか、自分の身に何が起こったのか、それを知って欲しかったのかもしれない。そのためにはすべて見せてしまうのが手っ取り早かったから。
 さらさらと衣擦れの音が聞こえる。ぎゅっと瞑ったまぶたからは光は差し込まない。火照った肌に夜気が冷たいなどと、そんな感覚はひさしく忘れていたものだった。
 そういえば、子どものころ。妹と手をつないでたどる家路に、涼しげな虫の音が聞こえた。汗をかいた首筋に、吹きよせる風が心地よくて声をあげて笑った。著しく無機的だったあの街にも、美しいものやささやかな幸せは確かに存在していたのだ。あまりにもすさまじい最後の記憶に塗りつぶされて、故郷のことは忘れたいと願っていた。忘れたかったのは悲しみであって、優しいあの日々ではなかったのに。いつの間にかごちゃ混ぜになっていたことに今このとき気づくなんて。
 腕が袖から抜き取られて、完全に無防備になったのを感じる。隠そうと腕が動く前に、肩にふわりと敷布が落ちた。思わず息をつくが、直後にはっとする。これでは背中はともかく、前は丸見えだ。意味がない。かき合わせる暇もなくやわらかな髪が胸元をくすぐった。
「……っあ!」
 脳裏を白い光が一筋、横切る。湿ったものが表面をすべるたび、ぞくぞくと寒気に似た何かが走った。とっくに傷跡を探り当てているはずなのに、そのことに関する言葉はない。虫に刺されたような痛みを感じて身をこわばらせると、彼が顔をあげたのがわかった。
「……痛かったか?」
「た、たいしたことはない」
 おそるおそる目を開けてから答える。安心したように微笑むその表情に陰りはまったく見られないけれど、触れていたそこは、まさに一番ひどい傷跡の只中だった。どうしてそんなに平気な顔をしていられるのかわからない。もちろんこういった事に殊更こだわるような男でないことはわかっている。しかし、十年以上毎日のようにこの身体と向き合ってきた自分が今なお慣れず、おぞましいと思うほどなのに。
 彼女の視線に気づいたのか、アルノーは真顔になってもう一度そこに唇を落とした。
「……見ればわかるよ。色素沈着を起こしてる」
「――……」
「一度に広範囲を損傷したせいだろう、再生がおいつかなくて本来の治癒過程をすっ飛ばしちまってる部分もある。毒とやらも影響してるのかもしれない。ずいぶん無理やりだが……治ってる、って言っちまっても差し支えはないのかな」
 そう言ってしまってもいいのだろう。ラクウェルはうなずいた。
 病院に運び込まれて一月ほどは、満足に眠ることもできなかった。意識を失いかければ悪夢に追われ、寝台に横になれば傷とシーツがこすれて痛かった。日に何度も包帯を替え、じくじくと滲み出す血とその傷の広さに眩暈を覚えていた。医者も看護師も文句ひとつ言わなかったが――それが逆に申し訳なくて、絶望に拍車をかけたものだった。
 一目で手触りが違うとわかる、変色した肌をゆっくりと舌が這う。まるで壊れものを扱うかのような、繊細な手つきで愛撫は続く。
 ここまで大切にされているのにこれ以上卑下するのはかえって心無い仕打ちなのだろう。応えるつもりで短い髪に指を通せば、汗でべたつき始めていた。首をのけぞらせて窓の外を見上げると、ひらひらと空中を踊る花弁が見えた。
 目の奥が熱い。










 ふくらみの間に顔をうずめているのに、鼓動がさっきよりもゆっくりになったような気がした。
 ちょっと待ておまえなんで安心してるんだ。
 内心で一人ごちて、ずりずり体をずらしつつしなやかな肢体を抱きこむ。慌てて照れて暴れるだろうとばかり踏んでいたのに、嬉しそうにのどを鳴らして抱きついてくるのだから呆れたものだ。これから彼が何をしようとしているのか理解できていないわけでもあるまいに。
 確かにお互いが一番に気にして踏みとどまっていたその一線は、食い違っていたのだとわかった。何度も何度も念を押されていたように、ラクウェルの肌は無傷とは程遠い。いつだったか本人が評したように、蛇ののたくったような痕が胴を取り巻いている。かさかさと乾いていたり、組織が余計に再生されていたり、明らかにもととは違う色になっていたり――顔や手足がなめらかな分だけ、違和感も大きいのかもしれない。けれど。
 美しいと思った。
 息遣いに合わせてゆるやかに上下する胸も、触れるたび跳ねる肩も。傷跡さえも口づければ淡紅色に染まる。それは、間違いなく血が通っている証拠。生きているという証だ。
 普段は冷たく白い肌から、ラクウェル自身が生み出した熱が放たれて立ち昇っている。
 生きている。生きている。その奇跡に手放しで感謝したい。彼女は支えてもらってばかりだと言うけれど、今こうしていることで誰よりも安心しているのは、きっと自分のほうだ。ほんのり桜色の溶け込んだ銀髪も、澄んだ青い瞳も、土気色に近いのかもしれない白い肌も。彼女を形作るすべてのものはあまりに儚く映り、不安になる。いつ消えてもおかしくないのだと言いたげな、静かな物腰もそれを煽る。凛と張った空気も数多ある魅力のひとつ。わかっていても、崩そうとがんばらずにはいられない。
 からかえば眉をひそめて怒る。甘くささやけば頬をそめて目をそらす。妙なところに手を伸ばして叩かれたり、甘える彼を呆れながらも受け入れてくれたり。ラクウェルは自分で思っているよりもはるかに表情豊かなのだ。
 今以上に幸せだと、満たされて輝く顔が見たい。
 非常に手前勝手で彼女にはすまないと思うのだが――大丈夫、きっと間違ってはいない。
 旅はまだ続く。ある意味では今この瞬間も、遠く遠く続く道の、第一歩と信じて。









 唐突にふくらみの頂に噛みつかれた。
「ひ、あっ!?」
 全身がびくんと大きく跳ねる。穏やかに肌をなでるだけだった硬い手のひらは、明確な意思を伴って動き始めている。急速に熱くなった身体をもてあまして身じろぎしてみても、がっちりと押さえつけられて動くことはかなわなかった。ちくちくとあちこちに弱い痛みが降る。いつのまに舞い込んだのだろう、汗で貼りついた花びらにふと目を落として絶句する。
 花が咲いたように、痕が。
「……ぁ……」
 思わず声を漏らすと、視線がかち合った。獣のように低い唸りを残して唇同士がぶつかる。激しさは普段の比ではなかった。舌ごと呼気も吸い上げられて、息ができない。逃げても執拗に追いかけられて絡めとられる。滅茶苦茶だ。翻弄されている。ばたつく足首は簡単にひっかけられて、易々と間に侵入を許した。慣れない体勢に頼りない気分を味わう暇もなく、のしかかる重さが増す。傷跡は多少なりとも感覚がにぶっているはずなのに、指先の感触がはっきり伝わってきた。
 下りて。
 下りて。
 濡れてすべる。
「――――ッ!」
 探られて、ラクウェルは声にならない悲鳴をあげた。様子を確かめるように抜き差しされる指が、湿った音をたてている。痛みと同居する快楽に、涙がにじんだ。
「……ラクウェル……ッ」
 名を呼ぶ声に、遠のくものがある。逆にのどもとまでせりあがる何かがある。
「やっ、あっ、は――……ッ!」
 部屋は暗闇に覆われている。はず、なのに、視界は何度も白く弾けた。名を呼ぶことしかできない。導かれた背に必死でしがみついて、切羽詰った翠の瞳だけを頼りに。
 吐息が耳を焼く。早すぎる鼓動と律動が共鳴して、そして――――



 記憶はそこで途切れた。














 さわさわとカーテンが揺れる。涼やかな水の香りを含んだ風が、頬をくすぐって過ぎる。
 アルノーは目を細めると、静かに木枠の窓を閉めた。空気の入れ替えはこの程度で充分だろう。あまり冷やすと眠っているラクウェルが起きるかもしれないし、彼女の身体にも良くない。
「……アルノー……」
 ちいさな声が彼を呼んだ。振り返って微笑む。寝台の縁に腰掛けると、ぼんやりした瞳が彼を見上げた。伸ばされる手をつかんで頬に導く。指先が輪郭をたどり、彼女は満足げにうっすら笑った。やけに落ち着いた風情だ。まさか昨夜のことを覚えていないのだろうか。
「具合はどうだ?」
 手を握ったままで尋ねてみる。
 途端に白皙の肌に朱が散った。力を込めようとした一瞬の隙をついて、するりと手首が逃げてゆく。もぐりこんだシーツをめくろうとすると、必死の抵抗にあった。
「ラクウェルさーん」
「ああもう、やめないか!」
 からからに掠れた声で怒鳴られてもあまり迫力はない。どちらがあきらめたのが先か、とりあえず妥協案として頭半分だけは出してくれた恋人に向き直る。真っ赤だ。普段自分には可愛げがないと公言しているくせに、この反応はどうだろう。口許がだらしなく緩んでしまう。と、鋭くにらまれた。
「喉が痛い。……おまえのせいだぞ」
 あからさまに憮然とした色が宿っている。
 いやそりゃ出させたのは俺だけど。出したのはそっちだし。
 内心で少しだけ反論してみる。
 おそらく羞恥など省みる余裕はなかったのだろう。彼の思うがままに昇りつめ、喘ぎ、泣いた。その声に、表情に、何度我を忘れそうになったことか。からかってみたいのはやまやまだが、へそを曲げられてはかなわない。
 アルノーは苦笑し、卓上のカップに口をつけた。そのまま顔を近づけ――彼女は一度身を引きかけたが、結局おとなしく注ぎ込まれるものを受け入れた。
 ふわ、と甘い香りが鼻に抜ける。
「花……?」
 不思議そうに目を見開いたラクウェルに、彼はうなずいてみせた。
「この街特産、ハーブティーだとさ。ちっとばかり薬くさいから好みは分かれるらしいけど……おまえ、嫌いじゃないだろ?」
「そう、だな……私は好きだ」
 笑みをこぼして顔を見合わせる。敷布の外に出かけていた手を中に戻し、肩を抱きこむようにして身を寄せる。
「まだ早い。もう少し寝とけ」
「おまえは?」
「俺も寝る。ここにいる」
 これからもずっと。
 言外に込めた思いが伝わったかどうかは定かではなかったけれど、その答えに恋人は満足したようだった。
 まぶたが落ちたのは、どちらが先だったのか。
















--END.




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(05.04.15)