ずっと欲しかったもの。
 欲しかったのに、はじめから手に入らないのだとあきらめていたもの。



 焦がれるだけでなく、欲しがることを学んだ。
 みっともなくても格好悪くても、歯を食いしばって足掻いて足掻いて、求めつづけることを教えてもらった。



 そうして、やっと満たされたと思った。








求めること









 その日は朝から気持ちよく晴れていた。
 ぴんと張ったロープを基点に、真っ白なシーツが風に翻る。空の彼方にインフェリアの平原を臨んでいたあの頃とは比べものにならないほど明るく降り注ぐ光がまぶしい。洗濯物の様子を見るために勝手口から顔を覗かせたメルディは、布が描く軽やかな曲線を見て満足そうに目を細めた。
 朝から干していたシーツその他はすっかり乾いてしまったようだ。とかく予期せぬことが起こりやすい今の生活、特にやることがない今のうちに取りこんでしまうのが得策と彼女は腕いっぱいに洗濯物を抱えてよろよろと庭を歩き回った。
 鼻先から石鹸の香りがする。太陽の匂いもする。『生活の匂い』に知らず緩む頬をひきしめようと意味もない努力をしながら、完全には自由にならない手をなんとか駆使して勝手口の扉を開ける。人気がなく静かな居間で、メルディはひとまず抱えていた大荷物をテーブルの上に放り出してソファ側に回った。たたむ前に、まずは仕分けだ。鼻歌を歌いながらぼすんと勢い良くソファに沈み込み、手を伸ばす。旋律に合わせて今は自由になった足がぶらぶらと宙を揺れる。
 と、足に何かが当たった。
「ふぇっ?」
 メルディは慌てて立ちあがり、よくよく足元を見おろした。同時にガサリという音も聞こえただろうか。自分はこんなところにものを置いた記憶はないが、確かに何かが当たったのだ。
 違和感の正体はすぐに知れた。彼女の夫――キールがよく読んでいるような本ほどの大きさと厚さの茶色い封筒。中にはどうやらぎっしりと紙が詰まっているらしい。中央には大きくかすれた青インクの文字で走り書きがしてある。急いで書いたのだろう、インフェリア王国語の単語だ。
「……し、り……りじゃない、りょ、う…………資料?」
 メルディはずっしりと重い封筒を目の高さまで持ち上げ、たどたどしい発音で書いてあった単語を音読した。
 資料。
 ごく馴染みの深い言葉だ。学問だの研究だの、およそそういったことが大得意かつ大好きなキールが頻繁に使う言葉。彼の書斎には、一見しただけではなんの役に立つのやらさっぱりわからない"資料"が床を埋め尽くさんばかりにあふれかえっている。この封筒も、きっとそうしたものたちの一部なのだろう。
 そこまで考えて、メルディははっとなって封筒から紙束をひっぱり出した。ざっと目を通す。
「…………やっぱり……」
 彼女はため息をついて天井を仰いだ。内容を理解することまではできないが、聞いていた話から推測するにこれは確かにキールが今携わっている研究のための資料の一部だ。彼は今、職人達に誘われて加わった技術開発の真っ最中。ティンシアほどとはいかないまでも、アイメンにも技師や職人は多い。街の復興の中で集った者たちがそのまま住みついて、ちょっとした職人通りが形成される程度には。
 サグラが『商売敵が増えちまったぁね』などと、ちっとも深刻さを感じさせない口調で言っていたことをなんとなく思い出す。
 と、それはともかく。
 キールは一度集中し始めると止まらない。けれど、研究のためと称して散らかすのはあくまで彼の書斎の中のみ。居間や寝室に本を持ち込むことはあっても、それをそのまま置きっぱなしにしていくなどということはなかった。
 だからきっとこれは、忘れ物なのだ。今ごろ困っていることだろう。届けに行きたいのはやまやまなのだけれど――……
 メルディはふっと背後を振り返った。異変があればすぐ気づけるように、半分ほど開いたままにしてある扉。今のところは何かが起こりそうな気配もない、静かそのものだ。しかし、ちょっとした家事ならともかく、短時間でも家に人がいなくなる状況を作るのは避けたかった。
 悩んでいると、玄関の呼び鈴が鳴った。
 まさかキールが気づいて戻ってきたのだろうか。淡い期待を抱いて戸口に走りよる。
「はいな。どなた?」
「メルディ? ぼくだよぅ〜」
 甘く幼い声が耳を打つ。少々高めではあるものの、キールの声は間違いなく大人の男性のものだ。だから外にいる人物はキールではない。けれどこの声も彼のものほど馴染み深くはないとしても、聞いただけで簡単にその持ち主の顔が思い浮かぶほどには親しんだものだった。
「ボンズ?」
 思っていた人物とは異なったけれど、何を警戒する必要もない。メルディは即座に鍵を開けて来訪者を中へと誘った。
 やわらかな布地で作られたとんがり帽子の、てっぺんについている毛糸のポンポンがぴょこりと跳ねる。やけに楽しそうな笑顔につられて自らも笑みを浮かべながら、メルディは帽子越しにちいさな頭をなでた。
「今日のオベンキョはもう終わったのか?」
「うん! 終わったからねえ、シフと遊びにきたのぉ」
「そっか」
 "シフ"というのは、愛称だ。正しくはシフィル。一月ほど前にキールとメルディの間に生まれた初めての男の子で、ボンズはことのほか彼を可愛がっている。
 そして、メルディがたったいま外出をためらっていたのも息子のことが頭にあったからだった。
 家事をしているとき、手の離せないときは何も言わないのにクィッキーが――自分と同じくらいのサイズの人間がめずらしくおもしろいらしい――そばについていてくれて、彼女がもしも異変に気づけないときは知らせてくれる(と、思う)。
 しかし、いくらクィッキーが賢いとはいえ、生まれたばかりの赤ん坊と一緒に留守番をさせるのは抵抗がある。クィッキーも所詮体のちいさな獣だ。何らかの事態が起こったとき、何をすればいいのかはわかっても、それを実践することは恐らくできまい。
(でもボンズなら……)
 メルディは、瞳を輝かせてベッドの中の赤ん坊を覗き込む少年を見下ろした。武器工房の職人見習いとして未だ育ての親サグラとともに暮らしているボンズだが、セレスティアンの一般的な成人年齢とされている十歳にはとっくに達し、その自覚からか最近はかなり振舞いもしっかりしてきている。
 短時間ならまかせても大丈夫だろう。
「あのな、ボンズ……」
 なに? と顔を上げた少年に、メルディはなんとはなしにもじもじしながら頼みごとを伝えた。















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