求めること(2)








 アイメン図書館。かつてあまり人のよりつかなかったこの場所は、今では幼い子供や意識して学問を志しているわけではない人々も気軽に訪れることができるように従来の古書に加えて児童書や小説なども収蔵し、セレスティア一の蔵書量を誇っている。
 集中して読書に励めるようにいくつもいくつも個別に作られた閲覧室。そのうちの比較的広い一室で、彼らは頭をつきあわせて何事か相談していた。
「だからさ、ここはこれじゃなくてこっちと連結させて――おいキール、頼んでた資料は?」
 水を向けられて、部屋の隅でひとり離れて本をにらんでいた濃い青紫色の頭をした男性が顔を上げる。
「……ん? なんか言ったか」
「だから、頼んでただろ資料。今日までにまとめてきてくれるって話だったじゃねえか」
 今の今まで一生懸命仲間に説明を試みていた男性が机の上の図面をはたく。パン、という乾いた音にもひるむ様子はなく、キールと呼ばれた青年はのんびりと首を傾げ――
「あああぁああ〜〜〜〜〜っ!!」
 大音声で叫んで、立ちあがった。その拍子に膝の上にあった覚え書きがバサバサとたて続けに滑り落ちる。
「…………すまない。うちに忘れてきた……」
 やっぱりとでも言いたげな視線を向けられて、彼は苦い顔で頭を掻き掻き謝った。封筒にまとめて、朝食の席にまで持ち込んで忘れまい忘れまいと思っていたのに。同じ部屋にいた技師の女性が苦笑しながら持っていた本にしおりをはさむ。
「ちょうど煮詰まってきたところだし、ひとまず休憩にしましょうか? 行って帰ってきて一息、くらいの時間はあるわよね」
「わ、わかった。じゃあ今から……」
 キールがまろびながら部屋の入り口に向かったとき、薄く開いていた扉の向こうから声が聞こえた。
「今からきゅーけいか? じゃあちょうどよかったな〜」
「え」
 笛の音のように高く、かつ甘さを含んだ声。
 この声の持ち主は彼が知る限り一人しかいない。キールは一瞬思考が止まったことを自覚して、かぶりを振ってからおそるおそる扉を大きく開け放った。
「………………メルディ」
 たった今来たばかりというわけではなさそうだ。おそらくは中で延々議論が繰り返されているのを聞きつけ、遠慮して入ってこられずにいたのか。
「キール、忘れものおとどけにきたよ♪」
 花の開くような笑顔を浮かべて、メルディが小首をかしげてみせる。その仕種の可愛らしさに、いきなり心の臓が騒ぎ出して彼は危うく尋ねようと思ったことを忘れてしまいそうになった。なんとか持ちなおし、問いを口にする。
「シフィルは?」
「シフはボンズに見てもらってるの。だいじょぶよ、ちょっと前におねむになったばっかだからきっとまだ寝てるな」
 彼女はにこにこしながらキールが今朝がた忘れていったものを彼の胸に押しつけた。続けてもうひとつの包みも手渡す。香ばしい匂いがふわりと広がった。こちらの中身はクッキーのようだ。先ほど休憩がちょうどよかったと言ったのはこのためだったのだろう。
 さっそく封筒を受け取って中身を改め始めたキールの周囲に残りのメンバーも集まってきた。
「そうそう、メルディシフはどんな具合だ? そろそろ表情出てくるころじゃないのか?」
 技師の一人が楽しげに訊く。彼は崩壊する前のアイメンの姿を知っているためか、あれから数年経った今でも新しい建物が建っただのどこそこに赤ん坊が生まれただのという話を聞くと、ことさらに喜ぶのだ。
「うーん? どうかな〜。まだよくわかんない……あ、でもな!」
 メルディは顔を輝かせて身を乗り出した。なになに、と周りも応じる。
「だっこしてゆらゆら〜ってやったり、くすぐったりするときゅって目が細くなるよ! あれって笑ってるんだなきっと」
「嫌がってるんじゃなくて?」
「ち、ちがうもん! だって、だって……」
 誰かがからかうように放った台詞に、メルディはむきになって何かを言いかけ――そして、わずかに頬を染めてうつむいた。
「……だってな、そのときのシフが目、キールが笑ってるときとすごく似てる、から……だから」
 わずかに見え隠れする耳がみるみるうちに赤くなってゆくのが、その場にいた者たちには容易に見て取れた。心なしか、もじもじとワンピースの袖をいじる指先まで染まっているように見える。
 部屋の中に、奇妙にくすぐったい沈黙が落ちた。
「……メルディ、そろそろ戻れ」
 帳を切り裂くような鋭さを伴った声に、メルディがはっと顔を上げる。
「きー……」
「そろそろ戻ったほうがいい。ボンズは確かにしっかりしてるけど……母親が近くにいてやるのが一番いいだろ?」
 誰もが納得するはずの言葉を、けれど彼女は信じられない思いで受けとめた。
 いや、内容はいいのだ。キールの言うことはもっともだ。いくらしっかりしているとはいえ、子守りに慣れてもいない幼い子供にできることは限界がある。他にやむをえない事情があるならばともかくとしてもメルディには何も不都合はないのだから、すぐに戻るべきだと言われるのはわかる。
 けれど、何故だろう。
 その声に宿る響きが、感情が、冷え冷えとしたものを伴っているのがはっきりと伝わってくるのは。
 自分は何かおかしなことを言っただろうか? 彼の気に障るような何か……
 思いつかない。
 なんにも、ちっとも思いつかなかったけれど、メルディはしょんぼりと肩を落として「はいな」とだけ答えた。











「……誰に妬いても何も出て来ないぜ?」
 とぼとぼとした足取りで、メルディが図書館を去った後。
 ぽつりと投げかけられた言葉に、キールは顔の向きは変えないままに声の主をにらみつけた。
 いや、正確にはにらみつけたわけではない。ただ荒んでいた心のままにそちらに注意を向けたら、目つきに険が宿ってしまっただけの話だ。それがわかっているのか、にらまれた男は軽く肩をすくめただけでその視線を受け流した。
「なんで奥さんが自分とのことで他人にノロケてんの見てヤキモチ妬くのか……おまえの精神構造は俺にゃあよくわからんが」
「別にぼくは」
「けど!」
 思わず大声をだしかけたキールを、彼は更に大きな声で遮って続ける。
「おまえ、忘れもん届けてもらっといて礼も言ってないだろう?」
「……」
 キールは気まずそうに目を逸らした。自覚はあるようだ、と判断して技師は茶封筒をどさりとテーブルの上に投げ出してため息をついた。メルディが持ってきたクッキーの包みからは相変わらず甘い匂いが流れ出し、雰囲気にそぐわない空気を部屋の中に充満させていっている。
「帰ったらとりあえず謝っとけよ?」
「…………………………そうする」
 彼は前髪に隠れた紺碧の瞳を伏せながら神妙にうなずいた。





 しかし、結局その言葉は果たされることはなかった。















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