空が暗い。
 天気に自分の心までも左右されてしまうなんてなんて単純なんだろうと、彼はそう言っていたけれど。
 そういうことだって、たまにはあるのだ。







空と心の投影機(前)








「……はあ……」
 寝台の上でごろごろしながら、メルディは長い息をついた。
 昼なお薄暗いセレスティアの空。
 雲が低く垂れ込め、ときおり遠くで稲光が舞う。
 もちろん生まれ育ったこの地で、これくらいの空の暗さは慣れ親しんだものだし、世界があるべき姿に戻ってからは少しだけ日照時間も増えてきているように感じる。そしてそれは気候までもが変わってしまうほどの変化ではなく――だから、インフェリアほど緑豊かな地へと変わることはできないとしても、このことを喜ばしいとする人間のほうが圧倒的に多いことも知っている。
 ただ、今はどこまでも高く青く抜けるような色のインフェリアの空が無性に懐かしかった。こんな暗い空は見ていたくなかった。
 窓から見える街並みは、どこもかしこも煌々と光を灯す街灯に照らされて薄い陰影を浮かび上がらせている。かつて一緒にこの部屋に泊まったファラなどは、その景色が幻想的で美しいとしきりに感心していた。
 今彼女がいるのはセレスティア随一の大都市ティンシアのホテルである。首が痛くなるほど見上げなければてっぺんを確認することができない、とてつもなく高い建物の最上階に近い客室。見下ろす人の波はまるで玩具のように小さい。
 ふと空がいっそう暗くなったような気がして、メルディは窓のガラスにこつん、と額を当てた。
 雨だ。
 一気に灰色に塗り込められていく景色の中で、人々があたふたと屋根のあるところに駆け込み……街灯の光だけがぼんやりとここまで届く。にじんだ視界の向こう側には、ホテルに負けず劣らず大きな建物が黒々とそびえたっていた。
「…………キール……」
 ここにはいない恋人の名をつぶやく。
 あの大きな建造物は、今ではセレスティアの行政機関として成り立っている元自由軍シルエシカの本拠地だ。あの中のどこかの部屋で、彼は今も大勢の学者や技術者たちと共に研究にいそしんでいるに違いなかった。
 空は暗い。
 いつもならそれほど気にもしないことがこんなにも重くのしかかってくるのは、ちょうど今の自分の心がこの空と同じ色をしているから。
 一緒に、研究の手伝いをできたならどれほどいいだろう。
 けれど、メルディに理解できるのは晶霊学の基礎中の基礎のみ。唯一彼よりも先を行っていたメルニクス語の知識も今では異邦人のはずのキールに軽く追い抜かれてしまった。
 だから、行っても役には立てない。
 あの人たちのようには。
 メルディは、銀の髪を持つ以前からの知り合いと、今日はじめて知り合った金髪の人物――どちらも女性で研究者だ――の顔を思い浮かべた。
 彼女たちは博識だ。
 頭が良くて、知識も豊富で、いつも感覚で物を捉えている自分とはおよそ似ても似つかない。自分にはただ数字と記号が並んでいるだけにしか見えない数式の意味を正しく把握し、よりよい方向へ持っていくための具体的な案をキールに提示してやることができる。
 メルディは服の胸元をぎゅっとつかんだ。
 約束していた時間はとっくに過ぎて、なのにキールは帰ってこない。もちろん彼の性格はもう把握しているから、悪気があって約束を破ったわけではなく、周りが見えていないだけのことなのだろうけれど。きっと今も一生懸命、瞳を輝かせながら話し合っているのだろう。
 彼女たちと。
 嫉妬するだけ無駄だとはわかりきっている。だって、お互いを見るキールの目にも、彼女たちの目にも、あの焦がれるような色はなかった。薄暗がりの中で愛していると繰り返しささやくときに彼の瞳の中にある、一種狂気をも宿しているのではないかと思わせる色はなかった。
 だから、無駄なのに。
 一緒にいるときは限りなく優しい色に染まっているはずの心は、今は暗く沈んでいる。
 メルディはもう一度大きくため息をついて立ちあがった。
 これ以上一人でいても、どこまでも暗くなるだけだ。抱え込むのは悪い癖だと散々言われつづけてきたではないか。
 約束の時間はもう過ぎているのだ。だったら会いに行っても文句を言われる筋合いではない。
 そっとテーブルの上を盗み見る。いつも隣にいてくれるちいさな青い相棒は、体を丸くしてすやすやと穏やかな寝息をたてている。この子は賢いから、一匹残していっても大丈夫だろう。メルディはそう判断してドアノブを静かにまわした。
 外は雨が降っているけれど、自分は傘など持っていないけれど、そんなことは瑣末なことだ。














「……雨、か……」
 シルエシカ本部入り口の軒下で、彼――キールは隣にたたずむ金髪の女性と困ったような視線を交わし合った。
 メルディと約束した時間はとっくに過ぎている。そのことに気づいて青くなった彼を、同僚はからかいつつもあっさりと解放してくれた。ちょうど同じ時間に引けた女性研究者となんとはなしに会話しながら一緒にここまで歩いてきて、はじめて雨が降っていることを知ったのだ。
 セレスティアの雨は冷たい。少し濡れただけで身体の芯までも冷えてしまうほど。氷晶霊の影響なのかなんなのか、インフェリアでときおり降る温かい雨とは正反対だ。
 迷っていた彼は、時計の針が指す時刻を見て決心を固めたように一歩足を踏み出した。少々濡れてもすぐに身体を温めれば大丈夫だろう。なにより、メルディをあまり長い間一人にさせておくわけにはいかない。彼女がもっとも厭うものは孤独なのだから。
「キール。帰るの? 大丈夫なの?」
 首を傾げて尋ねてくる彼女に振り返りもせずに答える。
「たぶん大丈夫だ。外套も着てるし……それより早く帰らないと大目玉くら」
「キール」
 突然別方向から投げかけられた声に、キールはぎくりと身を強ばらせた。あら、と女性が目を見張る。
 降りしきる雨に視界がけぶり、近くに来るまで良く見えなかったが、今思い浮かべていた人物が目の前に立っていた。
「……メルディ……いや、悪かった、つい夢中になってそれで」
 意味のない言い訳をつらつらと並べるも、彼女は黙ったままだ。いつもなら元気良くかみついてくるはずなのに、やけにおとなしい。
 キールは目を眇め、それから彼女が傘もさしておらずにずぶぬれになっていることに気づいた。
「ちょっ……おい。傘ささずに来たのか?」
「うん」
 悪びれもせずにこくりとうなずくのに、眉を逆立てる。
「おまえ……前にも言っただろう!? いくら寒さに強いったって、誰にでも限界ってもんはあるんだぞ! それを……」
 たった今自分がやはり傘なしで帰ろうとしていたことも忘れてキールは声を荒げた。
「キール」
 横から伸びてきた手が彼を制する。
「お説教は後にしなさい。早く身体温めないと風邪ひくわよ」
「あ、ああ、そうだった……」
 これからまた雨の中を戻るのは馬鹿な行為だ。いつもメルディがアイメンで留守番をしているときに使っている部屋を借りようと踵を返しかけてから、キールはふと思いついて自分の着ていた外套を脱いでメルディの頭からすっぽりとかぶせた。
「……いらないよぅ〜……」
「いいから着てろ」
 小さな手が動いて剥がそうとするのを押さえつける。
 シルエシカには大勢の男性が参加しているのだ。いかにも保護欲をそそりそうな、ぐっしょりと濡れて肌に貼りつく淡紫の髪や、冷えて不安げにおののくちいさな唇を人目にさらしたくはなかった。長身のキールが着てさえ長い外套は、メルディの頭から足首までをくまなく覆い尽くし、その顔も髪も細い足も、すべてを隠してくれた。
「……じゃあ」
「はいはーい。また明日ね」
 軽く挨拶を交わしてもと来た通路を戻る。
 彼女はメルディの肩を抱いて遠ざかるキールの後姿をしばらくなんとはなしに眺めていたが、やがて背後に感じた気配に振り返って薄く微笑んだ。
「あら。あなたはちゃんと傘持ってきてくれたんだ」
 気配の主――彼女の夫だ――が不思議そうに首を傾げる。
「……はあ? 雨降ってれば当たり前だろう」
「そうよねえ。それが正しい判断だと思うわ、うん」
 迎えに来てくれた夫の隣に滑り込んで、彼女はもう一度廊下を振り返った。
「風邪ひかなきゃいいけど……」
 ちいさなつぶやきは、もちろん彼らの耳には届かなかった。













 通路の途中で書類の束を抱えたアイラに出会って、事情を話して部屋の鍵を借りた。
 泊まり込みで研究する者のための狭い一人部屋。外交上の客人が泊まる部屋を貸そうかとも言われたが、そこまでしてくれることはないと断った。
 とりあえずメルディに何枚も乾いたタオルを巻きつけておいてから(抵抗されたが、無理やり巻きつけた)、バスルームに入る。手っ取り早く身体を温めるにはやはり風呂に入るのがいいだろうと、キールは手早くバスタブの掃除をすませて蛇口をひねった。盛大な水音と共に湯気が立ち昇る。
「メルディ。もう少しだからちゃんと待ってろよ……っておい!」
 いつの間に巻きつけたタオルをほどいたものやら、タオルどころかワンピースまで脱ぎ始めたメルディに、キールは仰天して風呂場から飛び出した。
「まだ! まだ湯はたまってないんだから服着てろ!」
 寝台の上に広げられたままになっていた外套を放り、部屋の錠を下ろす。もし誰かが知らずに扉を開けてしまったらどうするつもりだったのか。頭痛を覚えつつ振り返ると、一糸まとわぬ姿のメルディが目に飛び込んできた。
 油断しきっていた彼の網膜に否応無しに、想いを寄せる女性のあられもない姿が焼きつく。
「――――――ッ!?」
 頭の中をものすごい速さで何かが駆けぬけていくのを感じた。
 ぱくぱくと口を開け閉めするも、言葉にならない。
 何度か深呼吸を繰り返して、ようやく出てきたのは怒鳴り声ではなく情けないほど弱々しい声だった。
「……ッ馬鹿……頼むから、風邪ひくから……」
 外套を差し出しても首を振って拒むばかりで、震えながら床に座りこんでいる。
 紫色に変色した唇からぽつりと「寒い」というつぶやきが漏れ聞こえた。その言葉に止まっていた思考が動き出す。
「……当たり前だろ。ほら、風呂。……いいやもう、さっさと入ってこいよ」
 肩を落としてそちらを指差しても、彼女は一向に動こうとはしなかった。
「…………て」
「ん?」
「…………キールが……あたためて……」
 彼は耳を疑った。
 ぱっと勢い良く顔を上げる。
 信じられない思いで見やった瞳は、冷え切った全身の中でそこだけ熱を持っているかのように、潤んで朱を帯びていた。















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