3.
 からんからん、と扉に据えつけられた鈴が鳴った。
「あーら、いらっしゃーい」
 ハイカラヤのマスターが快活に出迎えてくれる。声は男性、口調は女性。帝都が大きく震撼したあの初秋の日に、彼は確かに男性言葉で喋っていたと記憶しているのだが。
 あちらが素なのか、それとも作っていたのか。なんとなく聞けないまま今に至っている。
「こんにちは」
「お邪魔するよ」
 すっかり見慣れた店内に、梓はためらわず入って行った。ダリウスも同様で、その笑顔に気後れしたような様子は見られない。もっとも、彼はいつでもどこでも表面上の態度は鷹揚で堂々としているから他人にはわからないだろうが。そんな彼の、ちいさな表情の変化も見逃さず捉えられるようになったのは梓の密かな自慢だったりする。
 蠱惑の森が焼き討ちされそうになったところを助けてもらって以来、この店の常連ともすっかり顔なじみになった。鬼についての本の打ち合わせを頻繁にここで行っていたこともあり、ダリウスの眠りと目覚めには皆が関心を寄せてくれていたのだ。
「おお来たか、梓、ダリウスも」
 カウンターに座っていた和服の青年が振り返り、柔和な顔をほころばせた。
「九段さん。……と、ルードくん」
「……なぜ私はこの人と同席しているんでしょうか……いえ、べつに嫌ではないのですが……」
 実は、ルードハーネがいるのはわかる。ここでダリウスと落ちあい、午後からは二人で仕事に行くことになっていたからだ。
 梓は村雨と次の本の段取りを相談し、適当な時間に森に帰るつもりだった。村雨も呼ばれて奥から顔を出したが、挨拶だけですぐ引っ込んだ。筆記具等を携えて、そのうちまた出てくるだろう。
 九段がいるのはまったくの偶然か。甘味談義につきあわされていたらしく、二人の前には大小何枚もの皿が並べられている。珈琲の香りに混じって甘い匂いもかなり強いので、食べた量は……想像するのはやめておこう。ルードハーネは至極微妙な表情でうんうん唸っている。主が来ているのに気づきもしないのは、何らかの思考の海に沈んでいるからだろうか。
「ルード? 大丈夫かい。体調でも悪い?」
「っは! ……あ、いえ! いえ、大丈夫です、問題ありません。お供いたします」
 素早く椅子から立って背筋を伸ばす。優等生だなあ、と微笑ましげな囁きが聞こえてきたが、ルードハーネは気にも留めなかった。
「元気ならいいけれど。先方とは昼食をご一緒する約束をしているよ。このまま向かっても大丈夫?」
「問題ありません。……問題ないんです、甘くさえなければ」
「……なるほど」
 九段はなおももそもそと羊羹を頬張っている。とても幸せそうだ。皿の上に載っている切れ端は、切れ端と呼ぶのもはばかられるほど大きいが。まさかあれと同じペースで食べることを要求されていたのだろうか。ルードハーネはよく動くし育ち盛りだから、栄養の摂取量としては問題ないにしても。甘いものばかり、なんだか見ているだけで身体の中が砂糖でじゃりじゃり言いそうな勢いだ。健康にも配慮していろいろな料理を作って食べる彼にしてみれば、ただただひたすら甘いものを食べ続けるというのはかなり不本意な状況だったのではなかろうか。
 九段はそれはもう嬉しそうにお菓子を勧めてくる。だから、断りづらかったのに違いない。
「このまま向かうの? 一度邸に戻らないの?」
 食べるか、食べるか。そう言いたげな九段の視線を気づかないふりでやり過ごしながら、梓はフードをかぶりなおしたルードハーネに尋ねた。
「ええ、そうですよ。ああ、帰りは深夜とまではいきませんが、夕食には間に合いそうにありませんので。下ごしらえをしておきました、お手数をおかけしますが後はお願いします」
「うん、それはいいんだけど」
「ほかにも何か?」
「ほら、へんそ」
 もが。
 背後から素早く回ってきた手のひらに口をふさがれて、梓は目をぱちくりさせた。正面には同じように驚いているルードハーネがいるので、彼の仕業ではない。斜め後ろを見上げれば、悪戯っぽく笑うダリウスと出会った。唇の前に人差し指をたてて、片目だけ瞑る。黙っていなさい、ということだろうか。
 皆まで言いきらなかったが、何を口にしようとしていたのかはわかったらしい。少年は頬にさっと朱を刷き、目尻を吊り上げた。
「梓さん」
「はい」
 下手なことは言わないほうがいい。そう判断したことは正しくダリウスにも読み取られたのだろう。手のひらはあっさり離れていって、梓の口は自由になった。
 ルードハーネは長くため息をつき。珍しく乱暴に頭を掻いて、それからうろうろと視線を彷徨わせた。ととと、と店の隅、人気のないほうまで歩いて行って手招きをする。おとなしくついていくと、ダリウスもついてきた。どうやら興味本位で聞き耳をたてようとする人たちを適当に追い払ってくれるつもりのようだ。背伸びして主の向こうを確認しつつ、ルードハーネはもう一度長く長くため息をついた。
「梓さん。今のあなたは誰ですか」
「……誰? って」
「肩書きの話ですよ。世間的な」
「……」
 なんだろう。予想外の話の展開に、梓は真面目に考え込んだ。
 仕事と呼べるほどのことはしていない。本は書いたが、生計を立てるほどに売り上げているわけではないから作家でもない。では黒龍の神子だろうか。いや、力はもうないのだから元神子か。そういえば元いた世界ではニュースでやたら“元大臣”だとか“元社長”だとかいう表現を見かけたような気がする。今現在違うのなら元が何であろうと関係ないじゃないか、なんて友達とテレビ画面に向かって突っ込んでいたので(是非はともかく)、元神子と名乗るのは何か違うか。肩書きも何も、今の梓はただの梓でしかないのではないだろうか。
 いい加減痺れを切らしたのか、ルードハーネは梓が口を開くのを待たずに答えを教えてくれた。
「あなたはダリウス様の奥方でしょう」
「……おくがた……」
 なんというか、格調高い響きだ。華族の、とか枕詞でもついたらしっくりきそうな。いまいち実感を伴わない単語というか、あまり現実味が感じられない。
「そうだね。梓は俺のお嫁さんだ」
「およめさん」
 相槌のように降ってきた声が、今度は頭の奥の奥までしっかり届いた。ぽぽぽ、と身体のあちこちが灯がともったように熱くなる。お腹の前で組み合わせていた指先が勝手にもじもじ動き出した。そうだ、そうだった。肩書きって、そっちの意味も含むんだった。
「…………ダリウス様、今の補足はありがたいのですが、その、大変やりにくいです」
「ふふ、ごめんよルード。続けて」
「……はい。梓さん? 梓さん!」
「はいっ」
 細い眉がぎゅうっと寄ったのを見てとって、梓は姿勢を正した。年下の少年相手に、自分が生徒のような気分になるのもおかしな話なのかもしれないが、ルードハーネだと違和感がない。年齢はともかく仕事という点に関しては彼は梓の何年も先輩なのだ。
「よろしいですか、梓さん。ダリウス様はあなたとご結婚なさったんです。取引先の方々も、直接であれ伝聞であれ事実はご存じでしょう。今までは気にするほどのことでもありませんでしたが……既婚者が、仕事とはいえ妻以外の、しかも特定の妙齢の女性と二人だけで頻繁に行動するのは、あまり外聞の良い話ではありません」
「あ」
 そういえばそうだった。梓の価値観はあくまでもといた世界のもので、こちらとは多少のずれもあるのだ。共働きの夫婦が珍しくないご時世ならともかく、わざわざ“職業婦人”なんて言葉がある時点で、働いている女性がとても少ないというのは推測できる。
 ルードハーネもぼやいていたではないか、女性の姿をしていれば取引の場に潜り込みやすい利点はあるが、逆に不愉快な憶測を呼ぶことも皆無ではないのだと。なるほど確かに、外聞がよろしくない。
「……ご理解いただけたようですね。ダリウス様がそのような人物であると思われるのも不本意ですし、あなたが侮られるのも望ましくありません。私も多少は背が伸びましたから、以前ほど子ども扱いされることはなくなりました。そういうわけです」
「うん……」
 梓からは、見えないところで。たぶんこういう気遣いは、ほかにもいくつももらっているのだろう。もしかしたらあの頃も。やるべきことをみつけようとしていたあの頃も、陰で彼女を思いやったやり取りがなされていたのかもしれない。
「本当にやさしい子だね、ルードは。頭を撫でてあげよう」
「ですから、ダリウス様。私はもう子どもではないのですから……」
 ほのぼのと兄弟のようなやりとりを繰り広げながら、二人は店を出ていく。「ああ、ダリウスにもやろうと思っていたのに!」と九段が饅頭の皿を持ち上げて嘆いたが、マスターには適当にあしらわれていた。







「……ふーむ」
 村雨との打ち合わせは、もう慣れたものだ。今回はまだ本文まで手をつけていない。本を読んだ人にどのような感想を抱かせるかの狙いと、そのための構成を考えて箇条書きにしてきた。横合いから何人も覗き込んできては首をかしげて席に戻っていく。字が汚いなどと言われたことはないが、少し不安だ。字が原因でないなら問題は内容か。わかりにくいものを書いてしまっているのだろうか。
「……あの、わかりにくいですか?」
 恐る恐る尋ねる。それには村雨ではなく九段が答えた。
「いや、問題ない。ただな、我が普段あまり見ぬことばや文字で書かれているゆえ……意味を飲み込むまで多少時間がかかっているだけだ」
「そりゃそうだ、この形式はまんま学生のレポートだからな。アルファベットも入ってるうえに、何より口語体だ。ここいらのインテリ男どもにゃ逆に馴染みがなくて読みづらいだろうよ」
「れぽ……いんて……?」
「ああこっちの話だ、気にしなさんな」
 そういえば、村雨は多少のずれはあるものの、梓と同じ時空からこちらへ飛ばされてきたのだった。しかも前回はある程度彼に手直ししてもらったものしか人に見せたことがなかったのだ。彼以外には、わかりにくいと、言われても当然だった。
「……お手数かけます」
 国語は嫌いではなかった。読書も好きだ。けれど、文語体を自在に書くのはまだ梓には少し難しい。話し言葉と書き言葉が近づいてきているこの時代だから、読むほうはそれほど苦ではないものの。それでも馴染みの薄い文体のせいで、平成に出版されていた本に比べて意味がすんなり頭に入ってこない。読み返してしまうこともままある。逆も然りということか。
「いっそ絵本にしちまうとかな。内容は相当絞らにゃならんが、本文の量自体は少なくてすむぞ。今度狙うのは子どもやら若い層なんだろ」
「はい。前回出したものは、本を読み慣れていない人は手が出しづらかったみたいで……でも、絵本ですか。私、絵はあんまり」
「絵なら我に任せておけ!」
 ひょいと頭が割り込んできて、梓と村雨は同時にのけぞった。
 話に入れるのが嬉しいのか、いつもやわらかく細められている目が今はきらきら輝いている。無邪気だ。まぶしい、実にまぶしい。
「我は絵も得意だ。我個人としても星の一族としても、人と鬼の歩み寄りは願ってもないことだからな、協力は惜しまぬぞ!」
「ああ……意欲はありがたいがな……」
 村雨がなんとも微妙な表情で帽子のつばを引っ張り下げる。見えにくくなった口許が、「でもアレじゃな」と呟いているのが見えて、梓は苦笑した。
「えっ……と……九段さんの絵は、どちらかというと写実的なので」
 まったくの嘘ではない。例の似顔絵はわりと特徴をつかんでいたのではないかと思っている。もうちょっと可愛らしく描いてほしかったとか思わないでもないが、あれはあくまで人探しのための人相書きだったのだし。
「絵本向きかというと、また別の話になってくるのかな、とか……」
「ふむ……難しいものだな」
「ま、焦ることはないさね。まだ前の本が出て間もないんだ」
 村雨は腕を組んで、背もたれに身体を預けた。ぎい、と木製の椅子が鳴る。もう少し一人で練り込んで来い、の合図だ。紙束をそろえて封筒に入れる。
「本もいいが、人間ってのは噂に踊らされやすい反面、自分の見たもので呆気なく手のひら返したりするもんでもあってな」
「百聞は一見にしかず、だな!」
 九段が両手を打ち合わせた。
「そういうことだ。あいつらは自分たちの素性を隠さなくなっただろう。そして、普通に街を歩いてる。少なくともここにいる奴らはもう知ってるよ、鬼ったって力があるだけで他は人間とたいして変わりゃしないんだってな」
「それは確かに、思います」
 街を歩いた時。一時注目を集めたが、聞こえてきた声は一様に恐れや侮蔑だけではなかった。鬼と言ってもこんなものか、とか。格好いいんだからべつにいいじゃない、とか。
 あの後訪れた洋品店の店員も、こっそり囁いてくれたのだ。鬼だと知る前と知った後と、結局ダリウスの印象は変わらない、と。
 素敵な旦那様で羨ましいです、とまで言われたのは多少お世辞も入っていたのだろうが。少なくとも彼女たちの目の中に、闇雲に恐れる色はなかったように思う。
「そもそもあれを見て怖がれってのが無理だよ、梓さん」
 離れたテーブルから眼鏡の男性が声をかけてきて、そちらを振り向く。彼の向かいに座っていた別の男性も大きくうなずいた。
「だよなあ。力はあるのかもしれんが、結局ただの兄ちゃんだろ。嫁さんにでれでれして弟分を可愛がって、なんつーか……すげえわかりやすいよあの人」
「でっ、でれでれはしてないと思いますけど……」
「そりゃあんたも同じくらいでれでれしてるから気づかんだけだよ」
「っ」
 話がこういう方向に転がるとは思わなかった。熱い熱い、と囃したてられては梓には返す言葉もない。自覚はないではないのだ。ダリウスが何か言うたびするたびに顔が赤くなるし、意識しなければ目は自然と彼を追う。ここに居るのは先進的な思想の持ち主だと自負しているぶん冷静であろうと努めている人たちだから、それだけ観察眼も鋭い。
 しかも多勢に無勢。つまり勝ち目はない。
「ちょっとあんたたち! 若い娘さんをあまりからかうものじゃないわ、礼儀がなっていないわよ!」
 鶴の一声。カウンターから飛んだマスターの一言に、男たちはへーい、と軽く返して口をつぐんだ。
「うむ。我もルードハーネと結界術のことで話をする機会があるが、見識の深さには恐れ入るぞ! 毎度新しい発見があって楽しい!」
 フォローのつもりなのだろう、九段が一際力強くうなずいた。それをありがたいと思いつつ、突っ込みどころを見つけてしまっては聞かずにいられない。羞恥で縮こまっていた背中を伸ばしつつ、顔を上げればやっぱりすごい数の皿が目に入ってくる。というか増えている。いつの間に。
「結界ですか? ……甘味の話ではなく」
「うっ、そ、そうだな、甘味の話もするが。あの者は料理の腕も良いそうだから……梓。ぬしは鋭いな……」
「お宅がわかりやすすぎるだけだろう」
 村雨はすまし顔でカップに口をつける。いつのまに淹れたものか、いい香りが普段以上にあたりに漂っていた。
「む。なんだ村雨、いつのまに! 我も珈琲が飲みたいぞ!」
「ああ、そう言うと思ってはいたんでね」
「うふふ、どーぞー」
 含み笑いを零しながら、マスターがカップを二つ置いてくれる。ミルクと角砂糖。角砂糖は小皿に山盛りだ。
 梓もブラックは苦手だが、目の前で至極楽しげにどぼどぼ角砂糖を投入されるといい加減胸焼けしてくる。ミルクをたっぷり入れて、砂糖はひとつだけにした。
...
(初出:2015.04.26 / 再掲:2015.05.16)