少年の目には、年上の青年はいつもどおりに映った。
いや、注意深く観察すれば確かに、少し元気がないようにも思える。でも“例の件”からもう二週間は経っているのだ――これでまったく変わらずにいたら、さすがに落ち込みすぎだろうと突っ込みのひとつやふたつ入っていたかもしれない。
つまりは一見何の変化もない。
仕事で登城する前は、おかしいなとは思ったのだ。当初の予定では、カロルは凛々の明星の首領として、ジュディスとユーリを伴ってザーフィアス城に向かうことになっていた。直前まで三人はそれぞれ別の仕事をしていたので、下町で合流して、その後城でフレンとレイヴンに会う。そのつもりで箒星に立ち寄ったのに、ユーリの口から出てきたのは「オレは城には行かないから、後で詳しいこと聞かせてくれよ」だった。
もともと彼は堅苦しい場所や格式ばったことが嫌いだ。さぼりたいの、と笑顔で皮肉ったジュディスにあちらも笑顔で堂々と肯定した。そんなもんかなと納得するようなしないような妙な心地で、カロルはこっそり首をかしげたのだった。
ザーフィアス城の威容は確かに緊張を誘うもの。けれどカロルにとって、そこは権力の象徴であると同時に大切な友人の住まいでもある。彼女のことをそういう目で見たことはないのだけれど――でも、外で会う時と違ってドレス姿で出迎えてくれるかもしれないと思うと、やっぱり楽しみだ。女の人が綺麗な格好をしているのは単純に嬉しい。平穏であるということを噛みしめられるし、最近ではエステルの話をするとナンの食いつきも良い。どういった髪飾りをつけていたかとか、着ていたドレスの話もせがまれるので、いつもの戦闘用の装束ではなくてそのうち女の子らしい服装も見せてくれるのではないかと期待してしまう。
とまあ、彼の個人的な事情は置いておいて。ユーリだって、下町やハルル以外で大手を振って彼女に会える機会ではないか。エステルをからかっているときの彼はとにかく楽しそうで嬉しそうなのだ。いつだったかぽろりと、ほかのことで多少嫌な思いをするのだとしても、エステルのためだと思えば我慢もできると言っていなかったか。今がまさにそのときなのではないかと。
だが口に出そうとした言葉は、肩にそっと置かれた手で遮られた。その主を見上げれば、赤紫色の瞳がこれ以上何も言うなと語っていた。
こういうときの彼女には従っておくに限る。
振り返り振り返り出発して、道の途上でユーリとエステルの間に何があったのかを知った。
ジュディスは、すでにリタから聞いていたのだという。何も知らないであの娘に会わせるわけにはいかないから、あなたにだけは言っておくわねと。伝聞の伝聞で、今のエステルがどんな状態にあるのかちっとも予想ができなかった。恐る恐る会いに行ってみれば彼女は想像していたよりもずっと元気で――カロルだけでなく、隣のジュディスが思わず漏らした安堵の息まで聞こえてしまったほどだった。
でも、どこか無理をしている。歪なものを感じる。そう考えてしまうのは願望か、それとも事実なのか、判断はつかなかったのだけれど。
ともあれ打ち合わせが終わったころにはもう暗くなり始めていたので、そのままどこに寄るでもなく二人は下町に戻ったのだ。
箒星のおかみさんは、食堂の隅、密談に向いた席を用意してくれていた。行儀悪く椅子に横向きに座ったユーリを前に、図面を指し示しながら当日の警備計画を伝えた。
さて難しい話も終わり、後は楽しく食事だと気持ちを切り替えようとした矢先、前触れもなくジュディスが爆弾を落とした。
「エステルのこと、聞いたわ」
「ちょっ……ジュディス?」
「……」
青年はフォークを口に運ぼうとした姿勢のまま固まった。
まさかいきなり踏み込んでこられるとは思っていなかったのだろう。このクリティア族の美女は面倒見も悪くはないが、どちらかといえば放任主義だ。気が利くゆえに、相手が触れてほしくないと思っている話題は察して巧みに避ける。他の人間がうっかり口に出してしまうようなことがあっても、うまく煙に巻いていつのまにやら話を違う方向に持って行ってくれる。
横顔は橙色の光に照らされて凛として綺麗だった。一見優しく微笑んでいるようで、事情を知らないものが見れば十中八九ぼうっと見惚れてしまうだろう。
だが彼女の性格を知っていて、かつ今の内心を推し量ることのできるカロルにとっては違う。
怖い……ジュディス、怖い!
よく見れば、上がっている口角は手強い魔物と遭遇した時の角度と酷似しているし、切れ長の瞳は炎のような色も相まって燃えるように爛々と輝いている。
同じような心持だったに違いない。ユーリはゆっくりとフォークを皿に戻し、不敵に笑ってみせた。だからなんでこの二人はこういう空気の時に笑うんだろう。怖い。
「ジュディ、怒ってんのか?」
「怒ってはいないわ。あの娘は気の毒だと思うけれど。人の心ばかりは、思うようにうまくいかないものですもの。だからね」
むしろ褒めてあげたい気分なの、と呟きながらグラスを傾ける喉が上下する。思わぬ色気を感じてカロルはどきりとしたが、青年は眉ひとつ動かさなかった。
「へえ、褒めるって?」
「私、貴方はエステルに何か言われても、わからないふりをするんじゃないかと思っていたのよ。はぐらかして、曖昧にして。だって恋ではなくても、とっても可愛がっていたでしょう。ずっとそばに置いておきたかったんじゃないかしらって」
「……いつまでもそれじゃ不毛だろ」
「そうね。私もそう思うわ。振り向いてくれないひとをいつまでも追いかけて、一番きれいな時期を無駄に過ごしてしまうなんて、エステルが可哀相」
何か雲行きが怪しい。ユーリから発される雰囲気がぴりぴりと尖ってきた。気づいていないわけはないのに、ジュディスはあくまで妖艶に笑んで食事を続けている。
「一月ぶりくらい、かしら? たったそれだけ会っていなかっただけなのに、綺麗になっていて驚いたわ。女は失恋を重ねて成長するって、本当のことなのね」
「あ、それはボクも思ったよ」
何か居たたまれなくて、カロルも務めて明るい声で合いの手を入れた。
やつれているとか、心配したことにはなっていなかったのだ。弾けるような生命力は確かになりを潜めていたけれど、代わりにエステルを取り巻いていたのは匂い立つような何かだった。色気がないとか大人っぽくないとか散々悩んでいたのは知っている。でも今なら誰もそんなことは言わないだろう。
「前は可愛いって言うのがぴったりだったけどね。今日会ったらほんと、“綺麗”って感じになっててびっくりした。あれならもてそう……あわわ」
ぞくりと背筋が粟立った。鋭い眼光に一瞥された気がする。実際彼はジュディスと睨みあったままなので、カロルに視線を向ける暇などなかったはずだが。ユーリのことは大好きだけれど、怖いものは怖い。彼は黙り込むと、縮こまって目の前のシチューをつついた。
「心配しなくても大丈夫よ、あの娘強いもの。すぐに立ち直って、これからどんどん綺麗になって、いいお相手をみつけるでしょう。貴方はちゃんとその背中を押して、送り出してあげたのだもの。私が褒めてあげるって言ったのは、そういう意味よ」
「……そりゃどうも」
「一緒にエステルの幸せを祈りましょう?」
半分ほどしか残っていないグラスを掲げて、彼女は今更乾杯をせがんだ。黒い瞳が歪む。殺気にも似た強い気配を一瞬感じたが、ユーリはため息をついただけだった。
「カロル」
「うえっ!? え、えっ、何、ユーリ?」
「見取り図借りてくぞ。部屋で確認する」
卓の中央に未だ置いたままだった紙をとりあげて、くるくる丸める。カロルは瞬きして青年を見上げた。長い髪に隠されて表情は読めない。ただ唇を噛みしめているのだけが見えて、きゅっと心臓が痛くなった。
「……うん、いいよ。あ、でもそれ、無理言って借りてきたんだ。防衛機密だから、ほかの人には絶対見せないで。明日ボクに返してね」
「ああ、わかってるよ」
たぶん会話は聞こえていなかっただろう。もう上がるのかい、と声をかけるおかみさんに片手をあげて応じて、ユーリはいつもどおりの足取りで食堂の外に出て行った。喧噪にまぎれて足音は聞こえない。部屋に戻ったら、どうするのだろう。真面目に配置を眺めるのだろうか。それともさっさと寝てしまうだろうか。
カロルは気を取り直して背筋を伸ばした。シチューの表面が冷えかけて、膜が浮いている。かき混ぜて溶かして、中からじゃがいもをすくい出した。こちらはまだ熱いので、息を吹きかけて冷ます。
「ジュディスさあ」
「なあに、カロル?」
応じた彼女は先ほどまでの恐ろしさはどこへやら、いつもの優しいお姉さんの顔をしていた。
「めっちゃくちゃ、怒ってるよね……?」
「あら。わかってしまって?」
「わかるよ。ものすごい勢いでユーリのこといじめるんだもん。……ボク、ちょっと可哀相になっちゃった」
カロルは漠然と、ユーリもエステルのことが好きなのだろうと考えていた。はっきりと尋ねてみたことはない――けれど何よりも、二人一緒にいるときの表情を見てしまったら。
本当に幸せそうだった。
自分は両親を覚えていない。幼馴染のことは気になるけれど、恋と定義しきるには未だ幼い感情であることも自覚している。ユーリたちと凛々の明星を結成するまではギルドを転々としていたから、ただただ生きることに精いっぱいで、人の恋模様など観察したこともなかった。
だから、世間一般の恋人たちがどんな会話を交わし、どんな顔で笑いあうのか詳しくは知らない。
でも、例えば。例えばユーリがお父さんでエステルがお母さんだったら。カロルが見ていたようにじゃれあうあの二人を両親として生まれてきたのなら、その子どもは、きっと幸せなのではないだろうか。“正しい”夫婦や恋人の形など知らないけれど、そんな確信があった。
やわらかな手のひらが、茶色い頭をそっと撫でた。
「そうね、少し可哀相だったわね。でも私、本当に怒っているのよ」
「ユーリがエステルをふっちゃったから? ……それとも、嘘をついてるから?」
自分の気持ちに。
そう続けると、ジュディスはちょっと驚いたように目を見張った。少しずつ大人になっていくのね、なんて嬉しそうに言うものだから照れくさくなって頬を膨らませる。
「どちらもそう、だけれど。……一番腹が立つのは、もっと別のこと。だってユーリったら、最初からあきらめてしまっているでしょう」
「……そうだね」
一人で結論を出して、一人で抱え込むのは最早彼の性だ。それは悪いばかりではない。なんでもかんでも他人に相談してからでなければ決められないなどと、そんな人間が生きていけるほどこの世界は甘くはない。
けれど、その強さは弱さと表裏一体。エステルがアレクセイに囚われたときのことを思い出す。あのとき、一人帝都に向かおうとしていた彼は心身ともにぼろぼろになる寸前だった。頼っていいのだと、かなり手荒な手段でわからせて、ああもうこれで大丈夫だと思えたのに。あのときは。
なのにまた彼は心を閉ざし、差し伸べる手を拒絶しようとする。ああ、そういう意味ではエステルも同じだ。あの二人は二人だけで結論を出して完結して、二人の幸せを願う周囲のことを気遣っているようで顧みていない。
「駆け落ちするなら、誰も追いかけてこられない世界の果てまで連れて行ってあげられるのに」
「駆け落ちかあ。お城の人に迷惑がかかるの、エステルは嫌がるだろうけどね」
「なら、正式に一緒になるのがいいかしら。根回しと駆け引きが肝要ね」
「えらい人って怖いよね。暗殺とか考えるかな」
「どんな暗殺者が来たって、私たちに勝つのは無理よ」
「損得で動く人も多いっていうから、渋るかも」
「メリットとデメリットはどんな場合でも存在するものよ。手段の一つとして有効なら、そうね、いっそ色仕掛けだって引き受けましょう」
「法律だの身分だの、気にしすぎて融通の利かない人もいるのかもしれないね」
「誠意なら通じるかもしれないわ。その場合、言葉を尽くして説得するのが筋かしら」
少年と美女は顔を見合わせてうなずきあった。
そうだ。それこそ二人のためなら、どんなことだってがんばってみせるのに。頼ってもくれないで、勝手におびえて勝手にあきらめて勝手に傷ついて。だからジュディスは怒っているのだ。思わず追い打ちをかけずにはいられないほどに。そしてカロルももやもやするのだ。
カロルは天井を見上げた。二階にはユーリの部屋があるのだが、物音ひとつ聞こえてこない。もう寝てしまっただろうか。
「……ユーリ、どうするのかなあ」
「わからないわ。私たちにできることは、結局そう多くはない」
「うん。そうだね。できるだけ早く……」
何かが起こってくれたらいいのだけれど。
彼か、もしくは彼女の心を動かす何か。偶然を願うというのも、なんだか情けない気はする。
「会えば何かはあるわ。つまりカロル、私たちが次にすべきことは」
「会合の警備に、絶対ユーリを引っ張っていくことだね!」
「そういうことよ」
食事の並べられた卓の上で、二人は控えめにぱちんと両手のひらを打ち合わせた。音は聞こえていなかっただろうに、こちらを気にしていたのかもしれない。箒星のおかみさんと目があって、笑いかけられる。
ジュディスと二人手を振ると、カウンター席にいた男性客数人がでれでれと笑み崩れた。
カロルの両親については本編中では明言はされてなかった…よね?
最初から魔狩りのメンバーというわけでもなかったようだし病死とかかなと勝手に予想しております。