4.
 ザーフィアス城での帝国とギルドの会合は、夕刻にまで及んだ。
 万事うまくいったとは言い難い。それは当たり前だ。立場も考えかたもまったく違う者同士が、互いの利害を巡って相争うのだから。
 それでも世界の今後を真剣に憂う人間が混じっていることは間違いなく、自身の希望だけを振りかざせば爪弾きにされることを全員が理解していることは間違いなく。荒れに荒れたが、暴力は生まれずあくまで言葉だけの応酬で終わらせることができた。
 話し合おうという風潮が生まれ、実際それがかなっただけでまずは御の字だ。以前ならば交渉の席さえ用意できなかった。
 次の会合は二週間後。皇帝の名代として副帝エステリーゼがダングレストに赴き、ギルドの主だった面々と会合する。その警護もやはり、騎士団とギルドの共同で行うことになっている。
 普通であれば騎士以外に守られるなど不安だとこぼすところなのだろうが、彼女は少人数で何度もダングレストに滞在した経験がある。むしろ護衛は要らないくらいなのに、通常の警備に加えてレイヴンや凛々の明星にまで同行してもらえるなんて、ずっとぼんやりしていても問題ないじゃないですかと笑っていたそうだ。――伝聞だ。
 カロルやジュディスの無言の圧力に後押しされて、ユーリもまたザーフィアス城の警備に駆り出された。もとより引き受けていた仕事なのだからすっぽかすつもりはなかったのだけれど。いまいち浮かない気分は案外周囲に漏れていたらしく、数日ぶりに顔を合わせたフレンまでもが微妙な表情をしていたくらいだ。
 配置は議場の外だった。正直助かった。今はまだ、彼女のそばには近づきたくない。せいぜいが遠く声を聞くくらいで充分だ。再び少しずつ互いの存在と距離感を慣らして築き直して、あっけらかんと笑えるようになるまで――あからさまに顔には出ていないはずではあるが――ともかく少しずつ。
 会合は終わった。だから今日のところはもう、ギルドはお役御免になっている。通常の警邏に戻った騎士とすれ違うことも何度かあったが、控えめに会釈されるだけで咎められはしない。それをいいことに、彼は城内をぶらぶら散歩と洒落込んでいた。
 夜に沈むザーフィアス城は美しかった。白い石材を用いた柱は、細かな彫刻がその陰影を浮かび上がらせている。
 回廊から中庭に踏み出すと、靴の下で夜露を含んだ芝生がさくりと音をたてた。もう少しで夏が来る。昼間は軽く汗ばむほどに暑くなってきたが、夜風は涼しい。髪をなでて吹きすぎていく空気は適度に潤って良い香りもする。
 ふと話し声が聞こえたような気がした。
 知らず息を止める。遠ざけようと思っていた声。けれどひどく懐かしく慕わしい音。一人ではない。鈴を転がすような響きは、誰かと話して笑っている。楽しそうだ。
 聞きたくない。今は近づきたくない。だいいち顔を見たって、どんなふうに振舞えばいいのかもわからない。
 なのに足が勝手に動いた。足音はしない。自分が意図的にそれを殺しているのだと気づいたのは、数歩進んでからのことだった。生垣を回り込む。確かこの先には石造りの東屋があった。そこに、彼女と、誰か――
 ユーリは打たれたように立ちすくんだ。
 月光が周囲を青く染めている。芝生の緑と、生垣の緑と、白い屋根。降り注ぐ光に照らされて、自ら輝いているかのように眩しい男女がそこにいた。
 女は花に似た色の髪を結いあげて、肩を大きく開けた若草色のドレスに身を包んでいる。ほっそりした二の腕まで覆う白い手袋は前に向けて差し伸べられていて、その指を押し戴くように男が跪いていた。
 黒髪を短く刈り上げて、騎士の装束を折り目正しく着込んだ男は、目を伏せて貴婦人の手の甲に唇を寄せる。可憐な指先が震え、白い頬が淡く染まったのを確かに見た。
 接触は一瞬、すぐに離れて、笑いあう――優しく。
 まるで一幅の絵画のように美しく、完璧な二人だった。
 いつのまにか足元は煉瓦の小道になっていた。革製の靴底が当たって硬い音をたてる。二人ははっとして振り返り、女のほうが彼の名を呼んだ。
「ユーリ?」
「……よう」
 邪魔したな、とか。久しぶり、とか。適当なことを言えればいいのだが、口が動かない。騎士はユーリに目礼してさらに一歩エステルから離れた。やっと礼儀にかなった距離が開く。どれだけ近づいていたんだかと苛つく気持ちも確かにあったが、ユーリが文句を言える筋合いではなかった。旅の間彼女に散々触れてきた彼には、異性との距離感に関して口出しなどできる根拠はなかった。
「陛下と団長が探してた。……行くぞ」
「え、え? あ、はい」
 口から出まかせを、どうやら信じたらしい。踵を返して歩き出したユーリの後ろを素直についてくる。以前と変わらない。無防備で騙されやすくて、――なのに、粛々として落ち着き払っている。
 胸の奥が黒く塗りつぶされてゆくようだった。
「ヨーデル、何の用でしょう。ユーリは聞いてます?」
「知らね」
 そもそも嘘なのだから彼が知るはずもない。息を吐いても吐いても、むかむかは治まらない。
「それより、あんなとこで何してたんだよ」
 歩く速度を落として並ぶと、エステルは両手を合わせて満面の笑みを浮かべた。
「そうです、聞いてくださいユーリ! わたし、同好の士をみつけました!」
「同好の……士?」
「翠星物語ですよ! 生憎わたしとは違って、あの方が一番好きなのは主人公の騎士だそうなんですけど。でも、琥珀の聖騎士との友情とか、ヒロインの姫との恋愛模様とか、色々お話してみたらもう楽しくて」
「あー……なるほどな」
 好きな物語のことを語り始めると止まらなくなるのは、エステルの癖だ。旅をしていた仲間たちは、基本彼女が語り始めると適当に聞き流すか遮って話をそらすかどちらかだった。それが、同じくらいの熱さで話に乗ってくれるとなればどれだけ楽しいだろう。
「お城を出る前は騎士団が周囲を固めていましたから……自由に話し相手も探せなかったんです。でも今は、だいぶ知り合いが増えました。一気に世界が広がった気がします」
 暗くなってから部屋の外に出ることも、考えも及びませんでしたし。
 嬉しそうに報告してくれる姿はあくまで無邪気で、先刻の光景が幻のようだった。
「で、話し込んでたらこんな時間になった、と」
「ええ、そうなんです。それで、翠星の騎士に憧れて騎士になったと聞いたので。一応わたしも姫と呼ばれる立場ではありますし、……そのう、笑われるかもしれませんけど。翠星物語ごっこをしてみようかと、いう話に、なって」
 つまりは物語の一場面を再現していたらしい。その本を読んだことはないが、ユーリにもだいたい予想はつく。むしろ騎士を主人公に据えるなら必ず採用される場面だろう。
 騎士が跪いて、姫君に愛と忠誠を捧げる。古今東西使い古されてきた、けれど永遠に色褪せない憧憬。
「……子どもかよ」
「ユーリはそう言うと思ってました。子どもっぽくたっていいんです。憧れは大切です」
 たたっと数歩先まで駆けていって、こちらを振り返る。青い光の中で、両手を広げてエステルが立っている。
「どうでした? 少しはそれらしく見えましたか?」
「それらしくも何も……」
 一瞬、本当に愛を捧げられているのかと思った。その瞬間に生まれた黒くてどろどろしたものは未だ彼の中に巣食っている。目減りする様子はない。
 ユーリはものも言わずエステルの腕を取った。引っ張って、回廊の柱の間に押し込んで、両肩に手のひらをかぶせる。ぱちくりと目を瞬かせて見上げてくる彼女はユーリの懸念など理解していない。理解どころか、想像したことすらないのかもしれない。
 夜、あんな無防備に、人気のないところで、男と二人きりで。何の警戒心もなく手を取られ、あまつさえ口づけを許した。
 そんな彼女が、彼の老婆心など、内心など――推し量れるわけがない。
「おまえな、ちっとは自分の年とか立場とか状況考えろよ」
「え、え? なんです、急に?」
 わかっている。お姫様にふさわしいのは王子様か騎士だ。罪に手を染めて闇の底で足掻く男などもってのほか。
 あんなふうに、後ろめたいことなど何もなく、胸を張って光の下で立っていられる男が。美しい娘と二人きりになっても無礼なことなど何一つせず、あくまで紳士としての振る舞いを崩さない男が。
「あんなとこで……男と二人きりになって……」
「ユーリ」
 翡翠色をした瞳が戸惑いに揺れた。
 これからどんどん綺麗になって、いいお相手をみつけるでしょう。
 脳裏にジュディスの声が蘇る。
 知っていた。言われるまでもなく知っていた。色気がないなんて、いやそれは確かに事実でもあるのだが、半分は憎まれ口だ。ほころびかけていた蕾が、いつしか花開いていたことにだって、気づいていたけど目をそらしていただけだ。
 白磁の肌が月影を弾いて照り映える。真っ白いだけではない、ふっくらした頬に唇にほんのり通う、その薄紅はまさしく花びらの色。結い上げた髪の生え際、大胆に露出している背中。なめらかな曲線からは繊細さしか感じ取れない。形を確かめるように指でなぞりあげれば、細い肢体はかすかに震えた。
 彼のことが好きだと言ったその口で、いつかはほかの男の名を呼ぶ。その幸運な誰かはこうして彼女に触れて、その身体を掻き抱いて、花の香りに溺れるのだろう。
 自分には許されない。許されない。溺れることも。増して癒されることなんて。
 怒りか絶望か、両方か。未だ訪れてもいない未来を思って目が眩む。まるで何度も殴りつけられているみたいに頭がくらくらする。翡翠はにじんで溶けて、周囲の景色と同化した。自身の荒い息遣いだけは鮮明に聞こえて、ああ、どうも興奮しているらしい。首筋の命を運ぶ道はどくどくと脈打ってその熱を主張している。汗ばんできたせいだろうか、ふわりと立ち昇る香りは甘く蜜を連想させて、無性に啜りたくなった。
 つかんだ骨は薄い。ユーリの腕に食い込んだ指先はあくまでちいさくか弱かった。
 華奢な肩口に顔を埋めて、中途半端に唇を開いて。匂い立つ肌に押しつけて、舌を――
「いや……!」
 互いの肩を押したのは同時だった。
 飛び退るほどの勢いで離れる。こめかみがずきずきと痛んで、その上を大粒の汗が流れていった。
 いや、自分のことはどうでもいい。
「…………っ」
 エステルは声もなく後ずさった。壁に背が当たって、びくりと背後を振り返る。振り返ったってそこにあるのは冷たい石だ。それでもずるずる移動して、彼から少しでも距離を取ろうとする。自身をかばうように両腕で抱きしめながら、かぶりを振る。
 大きな瞳が潤んで歪んだ。
「……エステル」
 頭から冷水を浴びせかけられたかのように、一気に全身が冷えた。血の気が引く。今、何をしようとした?
 目が合って、しまったとでも言いたげな顔をされた。
「あ……ちがうんです、ユーリ。あの」
「違わない」
 咄嗟の拒絶が何よりの答えだ。いやそもそも非はユーリにある。腕力と激情に任せて、非力な娘を乱暴に扱った。
 なのにこの期に及んでこちらを気遣おうとする。その無垢が痛い。
 一月もあれば心変わりするには充分だ。見限ったなら罵倒してくれればいい。あなたのことなんてもう好きでもなんでもない、調子に乗るなと。リタあたりがこの場にいれば、思いつく限りの制裁を加えてくれたのだろうに。
 一度は怯え震えた少女は、もう自身が受けた理不尽を忘れてしまったようだった。手を伸ばしてくる――今度は後ずさるのはこちら。
 ただただ慈しんでいたかった。その純真さは鼻につくこともあったが、おおむね心地よいものだった。世間知らずに呆れながら、それでも根本的な部分は変わってほしくはないと願っていた。
 親鳥のように翼を広げて、その下に隠して守っているような気分だった。いつしか自分で飛ぶ力を手に入れて生きていけるようになっていて、それを寂しく思いながらも誇らしく背中を見送る日が来るのだろうと。でも顔を合わせれば一番に駆け寄ってきてまとわりついて、いつまでも。
 たまにぐらりと来ることがあっても、それは男の本能だ。その気がなくたって、愛らしい娘が近くにいれば目は行くもの。ジュディスの豊満な谷間に視線が吸い寄せられたり、リタのうなじの細さに女を感じたり。パティのむき出しの膝にその骨格の華奢さを想像してみたり、それらと同じ類のものだと思っていた。
 エステルの想いを突っぱねたのは、それも理由だ。嘘ではない。逃げなどでもない。少なくともあのときは本当にそのつもりだった。
 立場もある。ふさわしくないという思いもある。こんな人間と一緒にいて、後ろ指を指されたり傷ついたりするのを見るのも嫌だった。でも何より、彼女を愛しながらも女として欲していないのなら、受け入れるべきではないと思っていた。
 それが今、明らかな欲を自覚して、身体の芯が冷たくなる。
 欲しい。
 いつからだ。今からか。ずっと以前からか。それとも、彼女が明確な言葉を口にしてしまったあの夜からか。
 欲しい。でも駄目だ。近くにいてはいけない。傷つけてしまう。離れなければ。
 文章にすらならない、単語がいくつも頭の中をぐるぐると回る。こんなふうに混乱してしまうのは、もしかしたら生まれて初めてのことかもしれなかった。ああだから、近づいてくるなと言っているのに。指先でも触れたら最後、何をするかわからないのに。
「……エステリーゼ様?」
 耳慣れない声が馴染みのある名を呼んで、ユーリの思考は一気に現実へと引き戻された。
 振り向けば、先ほど中庭でエステルと“騎士ごっこ”とやらをしていた青年が、速足でこちらに近づいてくる。心臓が急速に穏やかな鼓動を取り戻すのがわかった。背後でエステルも息を整え、見えないが、にっこり笑ってみせたのは気配でわかった。
「あら、どうしました?」
「いえ、何か……その。聞こえたような気がしたので」
「そうです? ユーリは何か聞こえましたか?」
「いや? オレも気づかなかったわ」
 おそらくはエステルの悲鳴を聞きつけてやってきたのだろう。だが、二人して平静な顔で、なんでもないと言い張られてしまえば彼にそれ以上詮索することは許されていない。控えめに、けれど敵意を孕んだ黒い瞳で様子をうかがわれ、ユーリは肩を竦めてみせた。
 あまりじろじろ見られたくはない。しかも時折エステルにちらりとやる視線の中には、明らかにユーリと同種の欲が混じっていてだんだん苛々してくる。ただ、生真面目すぎて羽目を外せないのだろう。その点では哀れなような羨ましいような。
 救いの主は、思いがけず早くにやってきた。
「エステリーゼ様? ユーリも。こんなところで何をしているんだい?」
「あ、フレン」
 二人があからさまにほっとしたのが伝わったらしい。若き騎士団長は、青い瞳を瞬かせて三人を見比べた。事情を問う色になる。エステルがほわほわと口を開く。
「フレンも探しにきてくれたんです? ごめんなさい、ユーリが呼びに来てくれたんですけれど、つい話が長引いてしまって」
「は……あ、はい。遅いなと思ったので探しに来たんですよ。ユーリ、駄目じゃないか。連れてきてくれるまでが仕事なんだから」
「へいへーい。悪かったよ」
 この時ばかりはさすが親友、と天を仰ぎたくなった。ユーリがついた大嘘に、まさか乗ってくれるとは。彼は、後はもういいよ、と傍らの騎士に囁いた。上司にそう言われれば従わないわけにはいかない。しぶしぶといった体で敬礼して、黒髪の男は回廊の向こうに消えて行った。
「じゃ、オレもお役御免だな。帰って寝る」
 ユーリもまた、ことさらに軽い調子を装って踵を返した。
 エステルがフレンに、今夜あったことを話すかどうかはわからない。ユーリとしてはどちらでもかまわないと思った。フレンもフレンで、薄々察したまま口をつぐむのか、それとも宥めすかして聞き出すのか。それもどちらでもかまわない。もしかしたら笑顔で剣を携えて追いかけまわされるかもしれないが。彼女が元気になれるのならばそれでいいのだ。
 お姫様を慰めるのは優しく真摯な幼馴染がぴったり。黒ずくめの無頼漢などお呼びではない。
「ユーリ。おやすみ」
「お、おやすみなさい! ユーリ!」
 二人とも律儀だ。わけもなく泣きたい気分になって、ユーリは振り向かないまま右手だけを高くあげた。
...



やらかした。
(2012.11.04)