5.
 黒髪が闇に溶け込んだ直後、皇女はがくりとその場に座り込んだ。
「エステリーゼ様? 大丈夫ですか」
「あ、あ……ごめんなさい、フレン。ありがとう」
 手を差し伸べて、立たせてやる。自力で立てないかと思ったが、足元は存外しっかりしていた。念のため腕を取って、支えるようにしながらゆっくりと歩き出す。
 見慣れた白い扉の前まで来たところで、エステリーゼは不安げにフレンを見上げた。
「……あの。ヨーデルが、呼んでいたのではないのです?」
「急ぎの用事ではなかったんですよ。ユーリは気を利かせようとしてくれていたんでしょう。ですが、ご気分が悪いのなら今日はお休みいただかなければ」
「わたしは……だいじょうぶです」
「そうですか?」
 応じながらもノブを回し、連れだって部屋の中に入った。本来ならばここで見送り、後は侍女に任せるべきなのだが。まあ、そこには歩哨も立っていることだし、すぐに出てきさえすれば妙な噂にはならないだろう。それより今は気になることがあった。
 窓際の長椅子に座らせて、自分は正面に跪く。
 エステリーゼの顔色は青ざめ、指先は手袋越しでもわかるほどに冷たくなっていた。なのに耳だけは赤い。かたかたと小刻みに震えているのに気づいて、椅子の背にかけられていたショールを手繰り寄せる。ふわりと肩を覆ってやれば、彼女はほっとしたように身体の力を抜いた。
 明らかに様子がおかしい。旅を経て随分強かになった彼女をして、ここまでの状態にさせてしまうことができるものは、今ではそう多くはないのに。
「ユーリと何かありましたか」
 やわらかな頬がさっと強張った。
「いえ。……いいえ、何も。ユーリは悪くありません。何もありません」
 それこそつまりは“ユーリが何かをやらかした”と白状しているようなものなのだが、そこは敢えて聞き流す。フレンは努めて優しく見えるように笑い、膝の上でそろえられたちいさな手を軽く叩いた。
「ユーリを叱るつもりはありませんよ。喧嘩は両成敗でしょう? でも、私にはエステリーゼ様を成敗することはできませんから。それならユーリを成敗することもできませんよね」
「けんか……」
 どこかぼんやりとした瞳で、エステリーゼはつぶやいた。
「あれは……けんか、なんでしょうか」
「違うんですか?」
「わかりません。わからない。……ただ、わたし…………ユーリを傷つけました……!」
 ひっと喉の奥が鳴る。泣くかと思ったのに、涙一粒零れることはなかった。顔を歪めて、目元を真っ赤にして。それでも頬は濡れない。歯を食いしばって、彼女は何かに耐えている。
 傷つけられたのはあなたのほうではないのですか。
 喉元まで出かかった言葉を、しかしフレンは飲み込んだ。
 エステリーゼは傷ついている。けれどユーリが傷ついているというのも、また間違いないことなのだろう。
 ただ、どちらが先なのかはわからない。相手を傷つけ、その傷ついた姿を見て自分も傷ついて。自分の傷ついた姿を見せてしまったことで相手が傷ついたことを思い知らされて、また傷つく。繰り返す。想いあうがゆえに、執着するがゆえに、その連鎖は無限に終わらない。
 フレンの知る二人は、かつては幸せを連鎖させていた。互いに癒されて、互いに幸せになって。理由なんてなんでもいいのだ、他愛もないことでエステリーゼが笑うたび、ユーリもつられて笑っていた。なんなのあいつら、と口では呆れながらリタの頬も緩んでいたのを知っている。ジュディスとレイヴンが慈しみにあふれた瞳で二人を眺めていたのも知っている。ラピードはそっけないふうを装いながら尻尾を振っていたし、カロルもパティも二人に突っ込んで行ってもみくちゃにされながら、にぎやかに笑っていた。あたたかくて、まるで陽だまりのようだった。
 それがひとつ歯車が狂えばこんなふうになってしまうのだから、人間というのは本当に単純で複雑なものだ。
 一月前。ユーリとエステリーゼの間に何があったのか、彼は正確には知らない。女性陣やカロルは何かしら知っていそうなのだが、尋ねようとは思わなかった。
 たぶんユーリもいっぱいいっぱいの状態で、普段のようにうまく感情を制御できていないのだ。そんなときにこれ以上責めて追いつめるのは酷というもの。フレンが想像しているとおりの事態になっているというのなら、ユーリを諭す役目は別に任せよう。一緒に下町を駆け回っていたころとはもういろいろなものが違っているのに、それでも自分たちの立ち位置は近すぎた。こうして離れていれば冷静に思いやることができるけれど、目の前にしてしまったら何を言うかわからない。彼を傷つけこそすれ、うまく誘導してやる自信はあまりなかった。
 だから今は、エステリーゼだ。この少女に集中することだ。
 フレンは立ち上がり、形よく結い上げられた薄紅の髪を崩さないようにそっと撫でた。
「傷つけてしまいましたか? それなら謝りますか。仲直りしたいですか?」
「仲直り……したいです。……でも、たぶん……無理です」
 妹を宥める兄というのはこんなものだろうか。姉妹がいないので体験したことはないが、ああそうだ、近所に住んでいた少女が友人と喧嘩して落ち込んでいるときはこんな感じだった。なら感覚としてはそうかけ離れてはいない。
「無理ですか。どうして?」
「だって、わたし……」
 続く言葉に何が来るのか、まったく予想することはできなかった。辛抱強く待ってみたが、彼女はそれきり口を開かない。黙りこくって、そろえた両手を握ったり開いたりしている。
「ユーリのことが嫌になってしまいましたか。まあ、あいつは乱暴ですし、口も悪いですし。しかも女性心理を思いやる器用さは欠片もないときています。いっそのこと喧嘩別れしたままでもかまわないのかもしれな」
「嫌です! ユーリは優しいです、フレン、どうしてそんなこと言うんですか!」
 束の間沈黙が落ちた。
 ふっと笑い声を漏らしたのはフレンだ。エステリーゼはといえば、目を見開いて彼を凝視している。翡翠の中に徐々に理解の色が宿り、やがて彼女はぷうっと頬を膨らませてにらんできた。
「…………フレン、意地悪です。やっぱりユーリのお友達なだけはあります」
「今更何をおっしゃっているんですか。とっくにご存じだったでしょう?」
「――っ。やっぱり意地悪です……!」
「申し訳ありません」
 先ほどとは別の意味で宥めるためにまた髪を撫でる。
 こうして触れることに、いちいち緊張を伴った時期もあった。鳥籠から飛び出して、一生懸命に親友の後をついてまわる姿に、淡い寂しさと焦燥を感じたこともあった。
 たぶん、甘い何かをごくうっすらと、共有していた時期もある。けれどそれを自覚するより早くに二人の手は分かたれて、そうして今の心地よい距離に落ち着いた。
 少し元気になった。満足感を覚えて、最後にぽんぽんと手のひらを跳ねさせる。相変わらず唇を尖らせているが、もう泣きそうな顔はしていない。
 再び跪き見上げるように視線を合わせて、彼は子守唄を聞かせるような気持ちで囁いた。
「悩んでください、エステリーゼ様。そして、どうしようもなくなったと思ったら相談してください。僕でなくてもいい、今のあなたの周りには色々な立場の、色々な考え方の人がいます。案外あっさり取るべき道がみつかるかもしれませんよ」
「……はい」
 ゆっくりとうなずく。
「もう少しだけ、一人で考えてみます。どうしようもなくなったら――相談します、誰かに。頼っていいんですよね?」
「もちろんです」
 素直なぶん、ユーリよりもエステリーゼのほうがよほど扱いやすい。安堵してフレンは笑った。
 どうかうまくいきますように。どんな形でもいい、最終的に大切な二人が幸せでいられますように。それだけは、ずっと変わることなく抱き続けている願いだ。
「ちょうどソディアが宿直ですので、お部屋の前の歩哨と配置換えをしておきます。何かあれば彼女にお申し付けくださいね」
 今夜、彼と彼女の間に何があったのかは知らない。だが。
 ユーリは珍しく狼狽を隠しきれていなかった。そしてエステリーゼは怯え震えて、身を固くしていた。それだけでだいたいの状況は読めた。
 同じ男としては同情を禁じ得ないところはある。けれど彼女は筋金入りの純粋培養だ。今夜の出来事はさぞ戸惑いと恐怖を誘ったに違いない。ああやっぱり、すぐに帰してしまうのではなく一発や二発殴ってやってもよかった。
 気が晴れるとすぐこれだ。フレンはエステリーゼに見えないように、そっと苦笑した。初対面の人間には冷静で穏やかなように見えるらしいが、割合血の気の多い自分を彼は自覚している。次にユーリの顔を見る前に、事態が良い方向に転がってくれていればいいのだが。
 ともかく、今すぐにできることといえばこれくらいしかない。彼女にしても、すぐ声の届くところに頼れる女性がいると思えば、少しは心安らぐだろう。軽く頭を下げて、立ち上がる。
「ありがとうございます、フレン」
 部屋を出る背中に、追いすがるように声がかけられた。鈴を転がすような響きの、いつもの彼女の声。暗さはない。
 混じりけのない笑顔を返して、フレンはそっと扉を閉めた。
...



本編中はあまり一緒にいなかったから見えにくいけども、この二人の間にも色々あったんだろうなとか。
そのうえで優しい関係を築いて維持していくんだろうなとか。
(2012.11.20)