手探りで(4)





 ぴちゃん……
「う……」
 顔に落ちてきた水滴の冷たさに、メルディはうめき声を上げてうっすら目を開けた。視界がゆらゆら揺れている。腹が鈍い痛みを訴えている。
「気がついたか」
 耳元で聞こえた低いつぶやきにぎょっとしたが、身体はがっちり抱えられているから身動きも取れない。それに、どうせ抵抗しても再び気絶させられるのがおちだ。それならおとなしくして周囲の状況を探っておいた方が後々有利に働くだろう。
 そう結論付けて、ため息をつく。
「ほう? おとなしいのだな。思考能力も少しはあると見える」
「……?」
 男から見えないのはわかっていたが、メルディは眉をひそめた。先刻市場で声をかけられたときは早口だったために聞き取れなかったのだと思い込んでいたが、どうやらオージェのピアスが効いていないらしい。市場で商人たちと話すぶんにはまったく苦労しなかったから、これがどういうことなのか……
 少し思案をめぐらせてから、メルディは嫌な結論に達してふ、と唇をゆがめた。
 つまり、この男はメルディのことを自分と同じ人間だと認めていないのだ。おそらく、彼女がセレスティアンだから。まだいたのか。こういう類の人間が。
 大声で罵りたくなったが、こればかりは仕方がないことだと思い直してキールに教えてもらった王国語を頭の中で反芻する。まだまだ語彙の数において心もとないけれど集中して聞き取るしかない。
 天然洞穴に少し手を加えてあるのだろう、壁には燭台が取り付けてあり明々と火が灯っている。扉もいくつか見えた。人の気配もする。
 それなりの人数がこの中で共同生活を営んでいるのだ。
 しばらく運ばれた後、ある扉の前で待っていた髭面の小男がその背後の扉を開けてメルディを運ぶ大男を招きいれた。
 どさ、と無造作に投げ出される。そのとき初めてメルディはいつの間にやら猿轡をかまされ手も縛られているのに気づいた。足は縛られていないが、手がこれでは速く走れない。逃げることは不可能だ。
「そいつがセレスティア人か?」
「そうだ。褐色の肌、額の石……間違いない」
「ふうん」
 小男はまじまじとメルディの全身を眺めまわした。
 なめくじに肌を這われたような感覚を覚える。メルディの背中はゾッとそそけだった。
 そういえばシースラッグに吸い付かれて半泣きになったことがあったっけ。確かあの時はキールが血相変えてはたき落としてくれたのだ。
「……ずいぶんほそっこくて綺麗な娘だな。なあ、どうせ殺すんだろ? 好きにしていいか?」
「やめておけ」
 舌なめずりしてメルディに近づいた小男に、大男はぴしゃりと言い放った。
「蛮族の女と交わるなど、我らセイファートのしもべの名折れだ。おまえとてそれくらいの節度は保って欲しいものだな」
「……わかったよ」
 小男は物欲しげな顔で部屋を振り返り、それから消えた。
 メルディを運んできた大男もそのまま何も言わずに廊下へ出る。王国語で声をかけてみようかどうか迷ったが、あの様子ではまともに答えてくれるとも思えないので、やめておいた。
 とりあえずしばらくは安全そうなので、何とか落ち着こうと室内を見回してみる。
 灯りに不足はない。壁と床は剥き出しの土で、扉がなんだか浮いて見える。部屋の隅にはちいさな通気口。ちいさすぎて脱出には向かない。
 なんとなく天井を見上げたら、そこだけは細密な絵画が描かれていた。インフェリアの教会で見たことがある。セイファートの宗教画だ。ただし、滑稽なほど神々しい。
 さっきの男たち、髭面のほうは俗語が多くて聞き取れなかった。キールが教えてくれたのは普段の会話で使う、それも上品なものだけだ。見た目で人を判断するのはよくないとわかっているが、あの男がキールやアレンデのような言葉遣いで喋る姿は到底想像できない。
 反面、大男の方はやたらときちんとした発音だった。聞き取れたのは女、セイファート、おまえ、節度、保つ、だけ。小男の目つきから彼が言ったことは聞き取れずともだいたい想像できたので、この単語の羅列もとりあえずはわかる。
 セイファートの熱狂的な信者、そんなところだろう。教会よりもさらに英雄性の高いこの絵といい、自分を汚らわしいものであるかのように扱う態度といい、初めて王都を訪れたときの人々の話を思い出す。
 セレスティア人は野蛮で残忍、引き潮の夜には角と牙が生えて凶暴になる。
 なんともひどい話だと思ったものだ。セレスティアンだと知ってもそれほど態度を変えなかった仲間たちは実は珍しい部類に属する人間なのだということも、そのとき初めて知った。
 今、メルディの周りにいる人々は彼女をセレスティア人と知っていて、その上で対等に扱ってくれる。これほどの悪意にさらされたのは久しぶりだった。
 会いたいな……
 膝を抱えて顔をうずめる。こんなことになっていなければ、今ごろみんなで夕食をとっていたはずだったのに。特にキールはここのところずっと研究三昧だったから、一緒に街を歩くのが楽しみで仕方なかったのに。
 メルディはなんだかむかむか腹が立ってきた。大好きな人たちと一緒に食事をするというのは、すべての人に平等に与えられている当然の権利のはずだ。あの男たちにもきっと言い分はあるのだろうけれど、それでも気はおさまらない。
 ぜーったい、思い通りになんかならない!
 決意も新たに顔を上げた彼女は、ふと通気口に目をやって微笑んだ。
 見覚えのある青い毛玉の端っこがのぞいている。クレーメルケイジは服の中に入れていたので奪われていない。


 脱出、開始だ。








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