修学旅行(4)





 歩道の両側に広がる芝生。
 ある意味とても慣れ親しんだ風景が目の前に開けて、深悠はこれまで訪れた場所よりは多少落ちついた表情であたりを見まわした。
「ここからは班ごとに自由行動とする! 節度を保って、一般のお客さんに迷惑をかけないように。以上!」
 列の前のほうで氷室が口上を述べると、それを合図にさわさわと人波が散開してゆく。
 離れたところにいた志穂と桜弥が駆け寄ってくるのを眼の端にとどめたまま、深悠はかたわらで眠そうにまばたきをくりかえしている珪を見上げた。
「森林公園、思い出すねえ」
「……そうだな」
 整備された遊歩道と芝生。彼らのような修学旅行生だけではなく、地元民であろう人影もちらほら見える。もちろん人ばかりのはばたき市の公園とは違い、放し飼いにされた鹿がそこここで穏やかに草を食んでいた。
 珪はやけに眠そうだ。ひたすらマイペースを通す彼とても、進んで団体行動の和を乱すようなことはしない。常ならぬ状況に興奮して夜遅くまで騒ぎ立てる同室のものたちの影響(騒音)のせいで、いつもよりも睡眠時間が削られているのだろう。移動のバスの中では隣に座っていた深悠が感心するほどに深く熟睡していた。
 珪の翠緑の瞳がさまよい――やがて、涼しげな木立の陰に止まったのを見て取って、深悠は彼の制服の袖を軽く引っ張った。
「お昼寝はできないからね」
 彼女にしては珍しくぴしゃりとした口調。がらにもなく唇を尖らせかけたものの、珪は軽くかぶりを振ってからうなずく。
 放し飼いにされた鹿。確かにこの状況で芝生に寝転がるのは賢明とは言えないだろう。
「お、お待たせしましたお二人とも」
 同じ班の二人がようようやってくる。にこりと笑みを向けると、桜弥は息を弾ませながらも微笑んだ。志穂がガイドブックを広げて公園の奥を見やる。
「まずはセオリーどおり大仏殿に行きましょうか?」
「うーん、そうだねえ」
 班ごとに別行動を許可されたにも関わらず、制服の群れはほぼ例外なく奥に向かって動いていた。当然といえば当然だが、公園の外に出てはいけないのだから他に行くところはないのだ。深悠はのほほんと行列を眺めながら、あまり一気に殺到したら迷惑なんじゃないかなあ、などと考えた。あたりを見まわす。
「あ! あれ、あれ!」
 彼女が指差した方向を振り仰いで、志穂は一瞬唖然としてからため息をついた。
 "しかせんべい"とある。白い地に一応は風情を感じさせたいということなのだろうか、墨字の看板だ。いくら毛筆でも達筆とは言いがたい文字で、ここが歴史的価値のある場所であると同時に観光地でもあるのだということを改めて感じさせるものだった。
「あのね……あなた、昨日も池の鯉に餌あげるんだっていって聞かなかったじゃない」
「あ、あれは……あのときは結局あきらめたもん」
「でも代わりに落ち葉投げこんで喜んでたわね」
「……うー……」
 あれは、落ち葉を餌と勘違いしてばちゃばちゃと跳ねる鯉がおもしろかったからだ。罪のないいたずらではないか。口では絶対に勝てないと踏んだ深悠は、じりじりと後ずさり――脱兎の如く駆け出して、あっという間に看板のところまでたどりついた。
「しかせんべい一袋くださいな!」
「あ、ちょっと深悠ったら!」
 もちろん追いつくことなどできるはずもない志穂がとがめるように眉をつりあげる。勝ち誇った表情で戻ってきた深悠は、そんな彼女に袋から取り出したせんべいを数枚押しつけた。
「はいこれ、志穂のぶん」
「え……」
「二人は……いらないの? まあいいか」
 かわるがわる男性諸氏の顔をうかがったあと、かたまっている志穂を尻目に今にも鹿に突進していきそうなほど目を輝かせている深悠を一瞥して、桜弥は苦笑した。全員完全に深悠のペースにはめられている。珪はもとより彼女を止める気などないだろうし、自分では役不足。唯一対抗できるであろう志穂は渡された白い物体を眺めることもせずただ止まっている。
「じゃ、行ってきまーす!」
 とうとう我慢できなくなった深悠が手近にいた仔鹿を目指して弾むような足取りで走っていった。珪が物問いたげな目で志穂を見ているが、彼女は気づいていないらしい。
「……有沢さん?」
 おそるおそる声をかけると志穂は弾かれたように顔をあげた。
「あ。……あ、なにかしら?」
「行かないんですか? 菅原さん行っちゃいましたけど……」
 早くも楽しくてたまらない、といった風の笑い声が聞こえる。のっそりと離れていく珪の足音を耳の端で捉えながらも、志穂は硬直したまま動くことができなかった。
 ぱくり、ぱくりと確実に鹿の腹の中に消えてゆく炭水化物のかたまり。
 それを今、自分も手にしている。
 自分も。
 動かない彼女に業を煮やしたのかはたまた食べ物しか見えていなかったのか、志穂の手に――正確にはせんべいのみだが――いつのまにやら背後から近づいてきていた鹿がぱくりと食いついた。
「きゃあっ!?」
 悲鳴をあげて飛びすさる。声の大きさにびっくりした桜弥は目を見開いて彼女をみつめた。
 思わず取り落としたせんべいに幸せそうに食いつく鹿にはもう志穂の姿は見えていないのだろう。鹿の寄ってくる要素を手放した彼女はそろり、そろりと遊歩道の端のほうに移動した。
 白磁の頬がわずかに赤い。
「動物、苦手でしたっけ?」
 からかうでもなく首をかしげる桜弥の顔がまともに見られない。志穂は無意識に両頬に手を当てながらすばやく首を振った。
「苦手、ではないのだけれど……その、思ったより大きかったものだから……」
 テレビや本で見る鹿の姿は愛らしく、充分に興をそそるものだ。動物園で眺めたときもくりくりとした瞳が可愛いものだと思った。
 しかし、間近で見る鹿は正直言って大きい。大きいのだ。仔鹿ならまだしも、大人になった鹿はそれなりの迫力を伴っていて。遠くで何匹もの鹿とたわむれている深悠の無邪気な笑顔が信じられない。少しは怖いとか、思うものではないのだろうか?
「ああ、なるほど」
 桜弥はうなずいてくるりと振りかえった。手を振って――深悠を気にしながらもこちらに駆けてくる珪に告げる。
「あの、僕たち先に大仏殿のほう行ってますね」
「ちょっ……守村くん」
「菅原さんはもう少し遊びたいでしょうし。ここから出なければいいだけの話ですから、見咎められてもたいしたことじゃありませんよ、きっと」
「……わかった」
 にこにこしながら話を進める桜弥と、なにも考えていないような顔でうなずく珪。はらはらと見守りながら、志穂はふとどうして桜弥はこんな無表情を相手に平然と話をすすめられるのだろう、などと埒もないことを考えてしまった。
「じゃ、行きますか」
「でも……」
 反論はほわほわした笑顔に封じ込められる。再び熱くなってゆく頬を自覚しながら、彼女は気づかれないようにため息をついた。






「深悠」
 たいして枚数のないしかせんべいをたくみに量調節しながら保たせている少女。子供のように笑う彼女に近づいて、珪は低く呼びかけた。
「あ、珪くん。……志穂と守村くんは?」
 本気で気づいていなかったらしい。きょとんとした瞳で問いかけてくるのに、親指で二人の後姿を示してやる。
「……なんか、先行ってるって」
「……あ。そうなんだ。気、使わせちゃったかな……」
 深悠はしゅんとしてあげていた腕をぱたりと落とした。彼女は動物と直接触れあえる施設やイベントが大好きだ。兎や羊などはともかく、鹿などそうそう放し飼いにされているものではないから、ついつい勇んで突進してしまったのだけれど。志穂の反応を見れば気が進まなかっただろうことは容易にわかったはずなのに。
「……べつに怒ってない、と思うけど」
 ぽつりと発されたつぶやきに苦笑を向ける。
「うん、わかってるけどね」
 けれどともすれば暴走しがちな自分を抑えるために迷惑をかけたのだと思うと落ちこむではないか。ただでさえ普段から世話をかけっぱなしだというのに、旅行先でくらいおとなしくしておくべきだったか……
 ふいに大きな手のひらが頭にそえられて、深悠は顔を上げた。そのまま幼い子をあやすようにぽんぽん、とたたかれる。表情こそ動いていないものの、向けられる視線の優しさに、彼女は嬉しくなってにっこりした。つられたように珪も目許を緩める。
 みつめあっていた二人は、それぞれ相手に気を取られていたために次に起きた事態をとっさに飲み込むことができなかった。

 ぱく。

「うひゃあっ!?」
 深悠は驚いて一声叫んだ。待ちきれなくなった鹿の一匹が、持っていた袋のほうに食いついたのだ。何匹もの鹿が我も我もと彼女に群がる。珪は思わず腕を伸ばして、硬直した身体をすくうように抱き上げた。
「わひゃっ?」
 再びあがる悲鳴。なんとも色気のない声だが、この場合は致し方ないのだろう。あきらめきれずになおも深悠の手めがけてぴょこぴょこと跳ねる鹿の群れを見渡して珪は眉をしかめた。
「深悠、袋落とせ」
「え? あ、あ、うん!」
 特にその必要はないだろうに、彼女はえいっと腕をふりかぶって離れた場所に袋を放り投げた。反応してきびすを返す鹿たちが離れてゆく。
 二人は同時に、大きく安堵の息をついた。
「……すごかったねえ……」
 呆然とつぶやけば。
「…………そう、だな」
 わずかにかすれた相槌が返ってくる。
 耳元で聞こえた低い声に、深悠はほんのり頬を赤らめた。そういえば、この体勢は。
 はじめて気づく。
 身じろぎをすると背中と膝裏にそえられた手の力強さを感じた。瞬間、心臓が跳ねあがる。宙ぶらりんの足が空をかいて、深悠は慌てて珪の肩にしがみついた。首をめぐらせる。いくつもの視線が、自分たちに集中している。
「……ねえ、珪くん」
「なんだ?」
 またしても間近で聞こえた声に首筋がぞくぞくと粟だったが、彼女は極力平静を装って上目遣いに珪の顔をうかがった。
「そろそろ、おろしてくれないかなあ……?」
「…………」
 ここは戸外だ。しかも、多くの観光客が訪れる場所。本人たちが真面目な対処のつもりで行った行動でも、周りはそうととらないだろう。
「珪くーん」
 ぽすぽすと背中をたたいてうながすと、視界が動いて靴の底が地面についたのがわかった。
「…………悪い……」
 ぼそぼそと詫びられるも、なじる気が起こるはずもなく。
 二人はしばらくの間、赤くなった頬をもてあましながら立ち尽くしていたのだった。







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一部のんふぃくしょん(おい)。
大仏殿って奈良公園の中にありましたよねえ? …たしか。
もううろ覚えすぎて駄目だ…