修学旅行(5)





 思えば、それまで皆がなりをひそめていたことのほうが不思議だったのかもしれない。




「……なんか騒がしくない?」
 隙間なく布団の敷きつめられた部屋で、奈津実は眉をひそめてかたわらの友人をみやった。
 時計は午後十一時。消灯時間を半刻ほどすぎている。いくら高校生とはいえ修学旅行で公然と夜更かしが許されるはずもなく、かといっておとなしく眠る気にもなれず、彼女は同室の友人数人と共に深悠に割り当てられた部屋に来ていたのだった。
 もちろん明かりは落としてある。見まわりに教師がやってきたとしても、布団をかぶって息をひそめていれば見咎められることはない。そうやってひそひそとおしゃべりを続けていたのだけれども――悲鳴や罵倒にくわえて、楽しげな笑い声まで聞こえてきては気になってたまらない。
 奈津実はうずうずし始めた身体をもてあましてのっそりと起きあがった。隣の深悠がのほほんとした表情で耳をすませているのを暗がりの中確認するが、彼女は自分ほどそわそわしてはいないようだ。肩までしっかり布団にくるまって、すっかり眠る態勢でいる。
「ちょっとちょっとお姉さん、寝るんじゃないわよ」
 半年ばかり年上の友人(とてもそうは思えないが)の腕を引いてこちらに注意を向けさせておいて、奈津実は顔をよせてきた友人連をぐるりと見まわした。
「こういう場合、敵情視察に行くのが筋ってもんじゃない?」
「敵なの?」
 心底不思議そうな顔でたずねてくる深悠のことは無視。今まであくびばかりしていたくせに、急にらんらんと目を輝かせて少女たちがうなずく。思えば今日までの数日、彼女たちは内心はどうあれ従順に教師の指示にしたがって夜をすごしていたのだ。最後まで女ばかりで身を寄せ合って夜を過ごすなど冗談ではない。口実――もとい、機会は逃すべきではない。逃してたまるものか。
「っとー、いうわけで様子窺いに行く人この指とーまれっ!」
 高々と天を目指した人差し指に、数人の手が一気に群がった。もちろん部屋にいた全員ではない。すでに寝てしまっているものもいるし、隅のほうで外から差しこむ光を頼りにして本を読んでいた志穂などは、あきれたように眼鏡を押し上げてかぶりを振った。
「しーほっ! ノリが悪い、ノリが!」
 目ざとくみつけて騒いでみせるも、応じるつもりはなさそうだ。勝手にしてちょうだい、とその視線が言っている。
「まあいいや、じゃあこのメンバーで。ほら深悠、立って」
「ええっ? わたしも行くの?」
 我関せずとばかりにごそごそ布団にもぐりかけていた深悠は、水を向けられて目を白黒させた。
 さっきから喧騒が聞こえてきているのは、おそらく男子の大部屋だ。この中にはイベントにかこつけて今回こそ、と思いながらも想いを告げられぬままの友人もいる。彼女たちにしてみれば意中の相手のところへ夜ご訪問、というのは魅力的な提案なのだろうが……深悠にとっては所詮は人事だった。それよりなにより、眠っておかなければ明日に差し支えるかもしれない。そちらのほうが気がかりなのだが。
「アンタも行くの。いいじゃん、葉月の寝顔が拝めるかもよ〜?」
「……珪くんいつも寝てるじゃない」
 ウインクとともに送られた言葉に、深悠はため息をついて首を振った。
 寝顔と聞くと可愛らしいが、実際彼はいつでもどこでも寝ているのだから、それは餌にはならないのだけれど。あの騒ぎに積極的に加わっているとも思えないし。
 いやそれどころか騒がしいという理由でどこか他のところに退避して眠っているかもしれない。そういえばロビーの隅に観葉植物で囲われて目隠しされたソファがあった。秋に差しかかったとはいえ、気候はまだまだ夏の気配を色濃く残しているから、旅館の中は冷房が効いている。まさかクーラーの真下で無防備に寝ているのではなかろうか。
「……やっぱり行く」
 次の瞬間頭の中によぎった想像に、深悠は肩を落として奈津実の手を取った。






 二年C組、出席番号後半の男子生徒に割り当てられていた部屋は、まるで戦場のようだった。
 いや、実際戦場だったのだ。けたたましく笑いながら両手を振りまわしているものがいるかと思えば、顔を真っ赤にして怒鳴っているものもいる。避難するつもりだったのか、隅のほうに布団でバリケードを築きあげていた生徒は横合いから突っ込んできた別の生徒に押されてころころと中央に転がった。そこを集中攻撃される。
「……いったい何事……?」
 楽しげに瞳を輝かせている奈津実の肩越しに部屋の中をのぞきこんで、深悠は呆然とつぶやいた。消灯時間はとっくにすぎているというのに、明かりが煌々と点っている。女子部屋では整然と並べられていた布団はぐちゃぐちゃで、ところどころ畳がのぞいている。白いカバーに覆われていたはずの枕はすべて剥き出しで、青い布地が丸見えだった。後ろから同行してきた友人たちが次々中に入っていくが、とても続くことなどできない。
 目の前は、枕投げの戦場と化していた。
「おお、新戦力参入!」
 そもそも誰が敵で味方なのやらわからない状況だというのに、客に気づいた一人が嬉しそうに顔をほころばせる。
「あ、深悠ちゃん奈津実ちゃん〜!」
 奥のほうから耳慣れた高い声が聞こえた。
「たっ、珠ちゃん!?」
 深悠はおどろいて口許に手を当てた。まさか彼女までここにいるとは思いもしなかったのだ。よくよく見るとかなりの人数がこの狭い部屋に集まっていたのがわかった。珠美の足元では和馬が散らばった枕をせっせとかき集めているし、中央ではまどかが乱れた境界線(制服のネクタイを並べてつくったらしい)をせかせかと直している。おまけに隅によせられたテーブルの後ろでは桜弥が苦笑しながらこちらに手を振っていた。もちろん彼は積極的に参加しているわけではなく、割り当てられた部屋から出るに出られず困っているだけなのだろう。
 深悠はさっと部屋の中に視線を走らせた。
 ――――いた。
 報復を恐れてかまったく的になっていない珪が、一人のんきに喧騒を眺めている。部屋を出られなかったのは、桜弥と同じような理由なのだろうか。
 じっと見つめつづけていると、彼が気づいた。振り向き、一瞬おどろいたような顔をしてから、歩いてくる。
「珪く……」
     ビュンッ!
 耳元を風が切り裂いて通った。
「え」
 深悠は硬直して口を開けたまま立ち止まった。
 続けざまに青い物体が飛んでくるのを視界に捉えるが、反応が遅れる。
 思わず目をつぶった彼女に、けれど衝撃はいつまでたっても訪れなかった。
「……?」
 恐る恐るまぶたを開くと、まず体操着の白い背中が見えた。
「……ぁ……?」
「…………いい度胸だ……」
 低い低い、まるで地の底を這うような声が聞こえる。彼としてはひとりごとのつもりだったのだろうが、その声はその場にいた全員の耳に確かに届いていた。
 その時点でやっと悟る。深悠は仰天して大声をあげた。
「けっ、珪くん!? え、大丈夫なのっ!?」
「大丈夫」
 答える声もそれはそれは低い。
 ……怒っている。
 若干名をのぞくそこにいたすべての人間が、同時に戦慄した。
 他の学年の生徒はともかくとして、接する機会の多い同級の生徒の間では、珪が深悠のことを、それこそ掌中の珠のように大切に大切にしているというのは広く知られた事実である。
 やばい。やばすぎる。
 共通の思いが駆け抜ける。
 枕を投げた姿勢のままで固まっていた男子生徒が、ようやく立ち直ったのか慌てて両手を振った。
「あああああ、いや、わ、悪い! いいい今のはわざとじゃない! わざとじゃないんだ! ただ手がすべって、それでその……」
「……………………」
 必死の弁明は綺麗に無視される。
 表情こそまったく変わらないが、静かに切れているらしい。おそろしい勢いで枕がいくつも飛んでゆく。さながらピッチングマシーンと化した彼をなんとか止められないものかと深悠はおろおろとあたりを見まわしたが、助けになりそうな人物はいなかった。奈津実も和馬も、桜弥も、まどかすら、苦笑にも似た笑みを浮かべて追いかけ回されている数人を眺めている。
 と。
「おいっ! 氷室だ!」
 入り口から鋭く警告の声が飛んだ。こんな状態ながら、抜け目なく見張り役がついていたらしい。
 途端に別の意味で室内が騒然となる。
「あ、え?」
 とっさに近くの布団をかぶろうとするが、別の手がそれを奪いとっていってしまった。唐突に明かりが落ちる。光に慣れていた目がいきなり暗闇にさらされて、足元がおぼつかない。
 ぐいと腕を引かれる。
 ぱしん、と目の前で音がする。
 力強い腕に抱きすくめられて、深悠は全身をこわばらせた。









(……だれ……?)
 どくどくと心臓の音がする。自分のものか、相手のものなのかはわからない。
 どうやらここは押入れの中のようだ。襖の向こうから、氷室の怜悧な声がくぐもって聞こえる。
 緊張と動転で今すぐ叫び出したい気持ちを必死で抑えながら、深悠はただただ息をひそめていた。
 狭いからなのだろうか、一緒に隠れている相手がわずかに身じろぎして深悠の肩を抱く。一瞬後に、包み込むように両腕が背中に回る。
(おとこのひと……!?)
 今更ながら気づいて、彼女はびくりと硬直した。
 この腕の持ち主は男性だ。間違いない。
 そういえばここに引きずり込まれる直前に腕を引っぱった力は同じ年頃の少女のものではあり得なかった。いとおしむように髪をなでられるが、こわばった身体からは力が抜けてくれない。

 わかってる。親切でかくまってくれてるのはわかってる。

 でも。

 まるで恋人のような抱擁を与えられる、その理由がわからない。

 だれ?
 だれ?

 耳に吐息がかかる。顔が近い証拠だ。
 二度。三度。
 様子をうかがわれている?

(やだ……!)

 じたばた暴れようとしても封じ込められる。逃がしてくれるつもりはないのか。
 目じりに涙が浮かびかけたとき、ちいさなちいさなささやきが聞こえた。


「……深悠。俺」







「…………ぁ」
 深悠は必死で背けていた顔を、はじかれたように元に戻した。相手の顔があるだろう位置を、目を見開いて凝視する。暗くて見えない。見えないけれど。
 わかる。
 心地よい声。聞く機会は女友達のそれに比べれば圧倒的に少ないはずなのに、何故か耳に一番なじんですぐさま持ち主の顔を思い浮かべることができる、声。
 ……珪くんだ……
 深悠は一気に脱力してこてんと彼の肩に頭をあずけた。つめていた呼吸を再開した途端、ふわりとシトラスミントの香りがただよってくる。珪の香り。なんのことはない、息さえしていればすぐに誰だかわかるはずだったのだ。彼女の緊張が解けたことが伝わったのか、珪も硬くこわばらせていた口許を緩ませて吐息をついた。
 少しだけ笑う。髪をなでる手も、今はもう違和感を感じさせるものではない。
 戸を隔てた一枚向こうでは相変わらずお説教が続いているようだったけれど、まるで布団の中にもぐりこんでいるときのようなあたたかさと幸せな気持ちに、深悠はおとなしくまぶたを閉じた。








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