失って初めて気づく大切さ。
そんな言葉がある。
ばかばかしいと思った。たとえ失う前から気づいていたとしても、大切な大切なたからものを奪われるそのときは、誰にも等しく容赦なく訪れるもの。
ならばいっそ、失ってからも大切だと気づかなければいいのではないか。
大切なものなど、ずっと作らなければいいのではないか。
そうすれば、少なくとも、後悔に沈むことはない。
そう、思っていたのに。
近づく(3)
珪は苛ついていた。
これ以上ないというほどに、いっそ目の前で喧嘩でも起ころうものなら自分も参加して憂さ晴らしができるのになどと本気で考えている程度には、それはもうとてつもなく機嫌が悪かった。目つきが悪くなっているであろうことは、とっくに自覚できている。ときおりこちらに投げかけられる視線は、みな一様におびえの感情を含んだものだ。
もどかしさに、嘲笑したくなる。大声をあげて、わめいて、思っていることすべてこの場で吐き出してしまえたらどれほど楽だろう。けれど、それができるほど彼は幼くはなく――そして、自身を抑えることに慣れすぎていた。
きっといつか、自分で抑えつけてきた感情の重さに潰されてしまうのだ。そうして初めて素直にものを言えるようになって、けれどそのときにはもう欲しいものはすべてこの指をすり抜けた後で。
ふと顔をあげる。二人の少女が楽しげに談笑しながら前を歩いている。そのうちのひとりに、知らず目が吸い寄せられる。まっすぐなのに柔らかそうな頭髪、揺れる華奢な背中。そのまま意識までも奪われかけ、緊張していた頬が少しだけゆるんだ。
「……深悠……」
珪は口の中だけでつぶやいた。大切な大切な思い出の、まさに中心に位置する少女。入学式で再会して、覚えていなかったことに落胆して。三年間ずっと関わることなくすごしていくのだろうと、きっと彼女にとってもそのほうが幸せだろうと思っていた。
記憶の中の女の子と、今の深悠は別物だ。子供のような物言いが、くるくる変わる表情が、なんら変わっていない本質があるとしても。幻を重ねて昔と同様に彼女を扱うことはできない。
多くを望めば、それだけ得られなかったときの失望も大きい。だから、再会できただけで自分の望みは果たされたのだと思うことにした。
それなのに。
近づく気などなかったのに、何故か彼女は惜しみなく好意を向けてきて。ただその笑顔が曇るさまを見たくない一心で拒絶もできず、受動的に時を過ごしていたら――いつのまにか、結ばれていた絆。
望んではならない。確実に与えられるものだけで満足しなくては。もっともっとと、心の奥底で駄々をこねる子供を抑えつけて、冷めた目でものごとを眺めることができなくては。
そう思っていたから、がむしゃらに近づいてくることをやめ、微妙な距離を保ち始めた深悠の行動も受け入れるつもりだったのだ。
あの、瞬間までは。
思い返して、珪は唇を噛んだ。昨夜受けた衝撃は一晩明けた今でも忘れられない。脳髄にくっきりと刻み込まれている。
昨夜、金曜日。臨時に入ったモデルのアルバイトを終えて、彼は寒空の下白い息を吐きながら歩いていた。繁華街は慣れた道筋で、わざわざ視線をめぐらせてまで見るべきものはない。だからその光景が視界に入ってきたのは、本当に偶然だったのだろう。それともこの耳が彼女の声を聞きつけて、この目が無意識に彼女の姿を探してしまったからこそのことだったのだろうか。
反射的に動いた視線の先、ネオンがきらめくファーストフード店の看板の下で、深悠と姫条まどかが二人でいるところを見た。深悠の表情が精彩を欠いていることは遠目からでも明らかで、まどかはおそらくそんな彼女を元気づけようと懸命だったのだろう。耳元に唇を寄せ、何やらひとことふたことささやき。
その瞬間、身体中の血が逆流するのを自覚した。深悠には、笑顔が弾けた。腹を抱えて爆笑し始めた彼女を、まどかは穏やかな顔で見下ろしていた。
今すぐ駆けよってさらってしまいたいのをこらえて、自分は逃げるようにその場を後にしたのだ――彼らがどうしてあの時刻に、二人そろってあんな場所にいたのかは考えないようにして。
胸を焦がす感情の名前は、知識として知っていた。今まで何にもこころ傾けることができず、それゆえに他人のそれをもどこか軽蔑したような気持ちさえ持って眺めていたもの。まさか今更、身をもって思い知る機会が訪れようなどと。
これは報いだろうか。自らの傷口ばかりに目を向けて、傷痕が開くことを恐れて、本心と反することでも甘んじて受け入れようとしていた報いなのだろうか。
前をゆく深悠との距離は、たった数歩。けれどその距離が埋められない。声も出ない。のどまで出かかった言葉は、ひっかかって行き場をなくして、じたばた暴れている。
ぽんと肩に手を置かれて、珪は傍目にもわかるほど大きく身体を震わせた。
振り向いた彼の目に飛び込んできたのは、今一番会いたくない相手の姿だった。
「よ、葉月」
にこにこと人好きのする笑みを浮かべてまどかが手を上げる。彼から声をかけられるなどと、珍しいこともあるものだ。二学期の初めに深悠のそばに現れて以来、この男は珪が一人でいるときに近づいてくることはなかった。
あくまで、深悠のおまけ。そうとしか認識されていないことはとっくにわかっている。彼は続く関西弁の挨拶を綺麗に無視して歩き出した。気配が追いすがってくる。
「なんやつれないな〜。昨日のこと教えたろ思て、わざわざ声かけたったちゅうのに」
「何のことかわからない」
そっけなく返すと、まどかはわざとらしく首をかしげてみせた。
「そっか? あの後オレらがどこ行ったかとか、気にならへんのん?」
きっとにらみつける。人を射殺せそうなほどの迫力を伴った視線を、しかしまどかは正面から受け止めて平然と笑っている。急に色の変わった空気に、周囲にいたものたちのほうが気おされてそそくさと離れていった。
にやにや顔からはなんの思惑も読み取れない。挑発にのるなと頭のどこかで理性がそう叫ぶ声が聞こえるような気がしたが、ざわざわとつま先から天を目指して昇ってくる血流は止まってはくれなかった。
「や、昨日はホンマ楽しかったわ」
それはそうだろう。この男の女好きは、話すまでもなく遠くから眺めているだけでわかる。接点などないはずの深悠とまどかが友人になったのは、ひとえにまどかが彼女の噂を聞きつけてわざわざ教室まで会いにきたからだ。
「やっぱ可愛いな、深悠ちゃん。くるっくる表情変わってまあ……」
「……やかましい」
能天気な声に耳をふさぎたくなる。そんなこと知っている。再会してからずっと見ていたのだから、知っている。
笑った顔、怒った顔、驚いた顔。前だけを見据える真剣な横顔。ばつが悪そうに唇を尖らせてみたり、悪戯っぽく瞳を輝かせてみせたり。泣いているときでさえ生気にあふれて、あの少女は常にいのちの輝きというものをあたり中にまきちらしていた。茫洋として何に対しても執着心のわかない自分が、あの輝きに触れている間だけは、確かに自分は生きているのだと実感できて――いつのまにか何にも代えがたいものとなっていた、あの空間。
「最初泣いててん……ああまあ、涙に濡れた頬っちゅうのもなかなかええねんけど」
うるさい。
「話しとるうちだんだん明るなってきてなあ」
もういい、黙れ。
「最後しょうもないギャグで笑うてくれたときは嬉しゅうて嬉しゅうて。抱きしめたろか思てしもたわ」
その台詞が耳を通りぬけた瞬間。
脳裏に、あのときの深悠の笑顔が弾けた――――
「黙れって言ってるんだ!!」
バシンッッ!!
怒号とともにすさまじい音が響き渡った。
大地にたたきつけられた鞄が跳ねて、遠くまで飛んでゆく。早朝の喧騒に包まれていた校庭が、一気に静まり返る。
衆人環視の中だというのに、二人は外野など存在しないかのようににらみあった。正確には激昂しているのは珪のほうだけで、まどかは視線こそ外さないものの薄ら笑いさえ浮かべて冷静そのものだ。息を呑む音すらも聞こえそうな静寂の中、珪が地を這うような声を絞り出す。
「…………喧嘩、売ってるのか?」
「意味がわからへんなあ」
わからないなどと、そんなことがあるものか。わかっていて、あえて彼は珪の逆鱗に触れてみせたのだ。
「……買うからな」
「おいくらで?」
あくまで悠々と。上位に位置しているような物言いが、彼の癇に障った。
「ふざけるな……っ!」
「だめえぇ――――っ!!」
怒号と悲鳴が同時に響く。
振り上げた拳は下ろされることなく、宙を彷徨って――力を失ったように、落ちた。
このちいさな身体から、どうしてこれほどの声が出てくるのだろうか。力など皆無に等しいたおやかな少女の身で、どうしてこれほどにやすやすと自分を押さえつけてしまえるのだろうか。
すがりつくやわらかな肢体に、漂う花のような香り。珪は茫然自失のていで、すぐそばにある深悠の顔を見下ろした。
「すが、わら?」
どうしておまえが。
問いかけは、言葉という形では出てこない。
「だめ……だめだよ、葉月くん……!」
深悠はめちゃくちゃにかぶりを振ってから、必死の形相で珪を見上げた。今にも泣きそうなほどに潤んだ大きな瞳。そこに、なんとも情けない表情の自分が映って揺れている。すべての毒気を抜かれたような気がして、彼は大きく息を吐き出した。身構えていたまどかがようやく緊張を解き、笑う。
「深悠ちゃん深悠ちゃん、葉月困っとるで。離してやらんと」
「あ。ごめ……」
「……いや。かまわない」
今更ながら自分の行動を後悔したのか、深悠はしょんぼりとうつむいた。先刻まで彼女と並んで歩いていた珠美が走り寄ってきて、その姿を隠すように抱きしめる。そのまま校舎のほうに離れてゆく後姿をぼんやり見送っていると、ぼすんと大きなものを押しつけられた。珪が投げ捨てた鞄だ。
「…………どうも」
「いやいや」
たったさっきまで一触即発だったとは思えないほどの淡々としたやり取りに、さわさわとざわめきが戻ってくる。歩き出そうとしない横顔をなんとはなしに眺めていると、やがてまどかは前を向いたまま、ぽつりと言った。
「悪かったなあ」
「……何が?」
「わかっとるくせに、たいがい自分も性格悪いなあ。さっきのや、さっきの。わざと挑発した」
「ん」
うなずく。
冷静な部分では、ちゃんとわかっていたのだ。彼の瞳に敵意はなかった。珪は、まどかにというよりは、自分自身でもてあました感情に翻弄されていたにすぎない。深悠の顔を見た途端、すべてがわかってしまった。
まどかが頭をかく。
「ホンマは口出すつもりなかってんけど……昨日教室で深悠ちゃんみつけてなあ」
家まで送り届けるついでにファーストフード店により、遅めの夕食をとった。いくら相談に乗るからと言っても、悲しげに笑うだけで何も話してくれない彼女。確かに知り合って日は浅いけれど、とむくれる彼に、深悠は言ったのだ。
これはわたし自身の問題だから。誰にも頼れないの。
それでもどうしても耐えきれなくなったら愚痴を聞いてねと、それだけで充分だからと、強情な彼女にはそれ以上なんの説得も通じなかった。最後にせめて思いきり笑わせてやろうと試みて成功した刹那、まどかは自分たちを見ていた視線に気づいたのだ。
あの、顔。いつもいつも無表情な珪が感情をあらわにするさまを、彼は初めて見た。
怒りと、切なさと、愛しさと。失望や後悔や、その他およそ言葉では表しきれないほどの無数の感情を同時に宿したあんな表情を珪が浮かべるなんて、想像したこともなかったのに。
挑発は呼び水だ。自覚をより強固なものにするために、わざと深悠の話題を出して怒らせた。
ここまですれば、彼は自分で動き出すだろうとそう推測して。
「……なあ。深悠ちゃん、大事やなあ?」
「ああ」
躊躇いなく返ってくる返事に一瞬目を見開いて、苦笑する。まどかは珪の背中を軽く叩いて前に押し出した。
「……そんなら。ペースは人それぞれ、やけど」
押されて珪は歩き出した。
自信はない。
不安ばかりが募る、けれど。
失ってから大切だと気づくよりも、失う前に気づくべき。
そうすれば、失わないために手を尽くすことができる。
自分はもう、あのころのような無力な子供ではないのだから。
失う前に足掻いて足掻いて、必ず手に入れてみせよう。
ふたたびのぞむことを、はじめよう。
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関西弁は相変わらず適当で〜。っていうかどこの言語だこれは…(笑)
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