偶然と必然(2)







「……えっと、えっと整理すると」
 頭に手を当ててうんうんうなりながら、メルディは三人がかりの説明を自分なりに整理しようと四苦八苦していた。膝の上ではクィッキーがうとうとしている。三人は、今は階下の居間でお茶を飲んでいる。
 蒼い髪の青年は、キール。銀髪の青年は、ジードというそうだ。セレナは、わかる。彼女の祖父はアイメンに住んでいて、ときどき会いにきていたから。ほんのちいさな頃だけれど、何度か一緒に遊んだことがある。
 ティンシアに住んでいたセレナは医者の資格をとり、今は同じく医者のジードと結婚してアイメンに移り住みちいさな診療所を開いているのだという。いわゆるお隣さんというやつだ。
 そして、キール。
 自分の夫だという青年。
 見たところ一番冷静で、けれど一番顔色が悪かった。一見矛盾を抱えながら、それでも彼の胸の痛みは何故か見ているだけで手にとるようにわかってしまったから、きっと嘘ではないのだろう。
 グランドフォールはとっくに終わったと。
 とっくに終わったんだと。
 あれからもう、三年近く経ったのだと。
 いつの間に?
 覚えてないのに。
「覚えてないのにな……」
 ぽつりとつぶやいて、メルディはクィッキーをそっとなでた。
 キールは、すべてを話してはくれなかった。一気に話しても混乱するだけだと言われたし――事実そのとおりだろうとは思ったけれども――今はまず身体の調子を見定めることだと、そちらの方が大事だと諭された。
 不安を感じないわけではないが、彼らの態度に偽りの影はなかったから、信じるしかない。
 ぼうっと天井を眺めていると、足音に続いて、控えめなノックの音がした。
「……メルディ? 私たち、とりあえず帰るけど……」
 麦わら色の髪がのぞく。セレナの瞳もまた、戸惑いに揺れていた。彼女は寝台のそばまでくると、メルディの手をぎゅっと握り締めた。
「……いろいろ、思うところはあるでしょうけど。キールはほんとにあなたが大事なの。それだけは、疑わないであげて」
 真剣な表情に、メルディは無言でうなずいた。セレナはまだなにか言おうと口を動かしかけたが、結局あきらめて首を振った。
「……私がいくら言ったってしょうがないわね。じゃあ、また明日」
「……うん」
 後ろ手に扉を閉めて、セレナはため息をついた。居間のソファにはキールがぐったりもたれかかっている。そばに立っていたジードは彼女を認めてあからさまにほっとした表情を浮かべた。まだ取り乱してくれたほうがなだめようがあるものを、なまじおとなしいだけにどう言葉をかけていいのかわからないのだろう。それは彼女も同じだった。
「……しばらく、俺ひとりで患者もつからさ」
 突然言い出した夫にセレナは一瞬訝しげな目を向けてから、合点がいってうなずいた。
「わかった。……キール、あなたが留守の間私がメルディと一緒にいる。それでいい?」
「……ああ。助かる……」
 うめくような声をなんとか聞き取って、それじゃあ、と二人は静かに外へ出て行った。
 それを確認してから、キールは長い長いため息をついた。
 今のメルディからは、三年分の記憶がすっぽり抜け落ちている。
 ……三年。
 彼とメルディのすべては、その三年間にこそ集約されているのに。
 それだけではない、記憶が戻るときには――戻らないとは思いたくない――どういう戻り方をするのだろう。思い出してくれるならそれ以上のことはない。けれど、あまりにも痛いあの記憶がもし、一気に彼女を襲ったら? 大事に思っているものをことごとく奪われた、あの記憶を一度に思い出してしまったら。きっと、メルディは壊れてしまう。
 少しずつ、少しずつ癒して、ようやくふさがった傷口が開いてしまったら。
 自分に、癒せるか?
 キールは頭を振った。今一番不安なのは他ならぬメルディなのだ。とにかく心を開いてもらわなければ、自分は頼ってもよい相手なのだと、態度で示さなければ彼女はひとりで苦しみつづけるだろう。
 彼は重い腰を上げて階段を昇りはじめた。













「……メルディ? 入ってもいいか?」
 扉越しに低いささやきを聞き取って、メルディはぐちゃぐちゃになってしまいそうだった思考を慌てて頭から追い出して返事をした。
「どうぞー」
 入ってきた青年の顔色は、先刻よりはましだった。メルディの膝の上で彼女にじゃれ付いていたクィッキーが、迷わず彼のもとに走っていって、甘えるように体をこすりつける。かすかに微笑みを浮かべて青い毛並みをなでてやるキールを見て、メルディはこの人は信用できる、と思った。近づいてくる彼に、なんとか笑いかける。キールはそんな彼女を見て、すっぱいものでも食べたような顔をした。
「……無理に笑わなくてもいい」
 この青年は、メルディが思っているよりもはるかに彼女のことを理解しているらしい。キールは寝台脇の椅子に腰掛けて、一瞬ためらった後手をのばした。
 指先が、滑らかな頬に触れる。実質初対面に等しい男性に顔を触られて、それでも不思議といやだとは思わなかった。おとなしくじっとしていると、彼はほっとしたように肩の力を抜いた。
「……ぼくに触れられるの、嫌じゃないか?」
「やじゃないよ」
 首は振らずに、言葉だけで否定する。キールの手つきは優しくて、不快どころかむしろ気持ちが良かった。強ばっていた心が少しずつほぐれていくのを感じる。同時に、身体の奥でなにかがうずくのもわかった。痛みとは、少し違う。
「夕飯どうする?」
 唐突に聞かれて、メルディは戸惑った。
「え……と、……メルディおなかすいてない」
「そうか。……なら、もう寝ろ。おやすみ」
 メルディが声を出す前に、暗青色の頭は廊下に出て行ってしまった。
「……メルディたち、フウフじゃなかったっけ。……一緒で寝ないのかな」
 なんとはなしにつぶやいて、彼女は自分の言ったことの意味に気づいて肩をすくめた。ぶんぶん頭を振ってから、寝間着に着替えようと上着のボタンをはずしかけ、言葉を失う。
 肩口から胸元にかけて散らされたちいさな痣。もう消えかけたものから真新しいものまで、無数に、花びらのように赤く残っている。
 その意味がわからぬほど、メルディは子供ではない。
 頬に少しずつ血が昇ってくるのがわかった。
 では、自分とあの青年が夫婦だというのは嘘ではなかったのだ。三人の説明を疑っていたわけではないし、クィッキーのキールへの懐きようから見ても充分信用に足る要素はあったのだが、それでもこうして目の前に事実を突きつけられると、やはり違う。
 混乱した思考のもとただ鼓動だけが速くなっていく身体は、まるで自分のものではないかのように制御がきかなかった。














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