偶然と必然(3)









 目が覚めて最初に見たのは、青い毛玉だった。
 頭を動かすと、ついで視界に飛び込んでくる見慣れない内装。
 夢の中から一気に現実に引き戻されたような感覚を覚えて、彼女は勢いよく起き上がった。はずみで寝台が揺れ、クィッキーがもぞもぞ身動きして目を開ける。早速肩に登ってくるちいさな体をなんとはなしになでてやりながら、ぼんやり頭の中を整理する。
 ……記憶喪失中、らしい。部屋の内装になじみがないのはそのせいだ。そもそも自分が記憶喪失なのかどうかも実はよくわからないのだが、自らの身体には間違いなく時の流れた痕跡があった。
 鏡に映るその姿は、顔にこそ少々の幼さは残るものの、『女の子』ではなく、『女性』と呼ぶにふさわしいものだ。
 ……おとなに、なってるな。
 心の中でつぶやいて、メルディはため息をついた。
 多少の違和感は仕方がない。少しずつ慣れていけるだろう。
 壁際のクローゼットを開けると、ワンピースが何枚も入っていた。セレスティアでは見慣れない、けれどなんだか温かみの感じられる鮮やかな色合いの服。厚ぼったい布地だが、着心地はなかなか良さそうだ。おそらくお気に入りだったのだろう一番手前の物を取り出し、頭からかぶると、干草のような匂いが鼻をくすぐった。
 干草? 自然に頭の中に浮かんできたその言葉は、セレスティアでは使われなくなって久しい単語のはずなのだが。
「……キオク、ないんだからわかんなくてもしょうがないな」
 ぐるぐる考え込むのは性に合わない。無理やり自分を納得させて、メルディは手早く髪をまとめて階下の居間を目指した。










 居間は、まだ薄暗かった。カーテンがひかれたままになっているせいだ。几帳面に片付けられたテーブルの上はかえって生活感を感じさせない。
 キールはまだ寝ているのだろうか。起こしに行ったほうがいいだろうか。それとも朝食の準備をしておいた方がいいだろうか。
 一瞬考えてから、メルディは厨房に向かった。見覚えはなくても、さすがに調理器具の使い方くらいはわかる。冷蔵庫を覗いて、彼女は顔をしかめた。
 野菜も肉もない。あるのは香辛料や調味料、ミルクやバターなど料理の主役にはなりえないものだけだ。ちょうど切らしていたところに昨日のどたばたに気をとられて買い出しにも行けなかったのだろう。
 メルディはぱたん、と冷蔵庫の扉を閉じて居間に戻った。家の間取りは以前とさほど変わらない。部屋数は増えているが、それでもキールがいる部屋はなんとなく見当がついた。
「クキュ……」
 テーブルの上にいたクィッキーが走っていって、扉をかりかり引っかいた。開けて、と言っているのだろう。もし熟睡しているなら起こしてしまうのも悪いような気がしたが、彼女はそろそろと近づいてノブを回した。鍵は、かかっていない。
 思いきってドアを押すと、机に突っ伏した後姿が見てとれた。クィッキーが音もなく飛び乗った机には、メルニクス語の文献となにやらよくわからない記号――たぶんインフェリアの言葉だ――がびっしりと書き綴られたノートが広げられている。寝間着姿でいるところを見ると、きりのいいところで終わらせるつもりがついずるずると、ということらしい。
 足音を忍ばせて近づき、顔を覗き込む。年相応とは言い難い、子供のようにあどけない寝顔についくすりと笑いが漏れた。そういえば、メルディの父親バリルもよくこうやって机に突っ伏したまま眠っていることがあった。シゼルに言われて肩に毛布をかけようとすると、なぜか必ずバリルは一度目を覚まして、寝ぼけまなこで彼女の頭を優しくなでてそれからまた眠ってしまうのだ。
 暖かい記憶を思い出してしまい、そのままぼんやり見つめていると、視線を感じたのかキールはうめき声をあげて目を薄く開いた。
「……メルディ……?」
「お、おはような!」
 今更ながらじっと見つめていたことに気づいてメルディはつい裏返った声をあげた。ふわりと伸びてきた手が淡紫の頭を優しくなでる。
「……ああ、おはよう……」
 少しかすれた低い声が耳に心地よい。床を見つめておとなしくなでられていると、キールが突然手を引っ込めた。おもわず顔を上げる。
「悪い……嫌じゃなかった?」
 どうやら寝ぼけていて彼女が記憶を失っているということを忘れていたらしい。
 メルディは首を振った。
「やじゃないよー。……なんかな、おトーサン思い出したな」
「……ああ。バリルか……そういや似てないけど似てるって、ガレノスに言われたな……」
 問い返しても笑うだけでその台詞の根拠も意味も教えてくれなくて、少なからず考え込まされたのを覚えている。
「バリル知ってるか!?」
 驚いて叫ぶように尋ねると、キールは胸の痛くなるような笑顔を浮かべた。
「……直接話したことはないけどな……たぶん、ぼくはおまえが思ってるよりもずっとたくさん、おまえの事を知ってる。自惚れじゃ、……なければの話だけど」
 だから安心してていいんだぞ、と言外に言われたような気がした。見返す彼の表情は茫洋としてふわふわつかみ所がない。メルディはキールの手をとって、ぽん、と自分の頭の上に乗せた。
「も一回なでなでして」
 彼女の言葉を受けて、大きな手のひらが数度行き交う。
 しばらく座ったまま無言で手を動かしていたキールは、はたと気づいてメルディを見あげた。
「……冷蔵庫、カラだったろ?」
「はいな〜。買い出し行かなくちゃいけないな!」
「……そう、だな。記憶うんぬんよりもまずは生活に必要なことから、だ。じゃ、今から一緒に行くか」
「お買い物だな!」
 メルディはうなずいた。そのままにこにこしていると、キールはわずかに頬を赤らめて彼女を見やった。
「……あのさ」
「なにか?」
「……着替えるから、出て行くかあっち向くかして欲しいんだけど……」
 メルディがあっという間に真っ赤になり、あたふたと部屋の外へ逃げ出したのは言うまでもない。












 市場の朝は、早い。良いものを手に入れるなら朝一番、が信条の人間というのはなかなかに多く、ねぼすけならばまだまだ眠っているに違いない時間に、市場はそれなりの賑わいを見せていた。
「うわー、うわー」
 楽しそうに目をきらきら輝かせて、あたりをきょろきょろ見回すメルディに、キールは気づかれないようにそっと苦笑した。
 彼女は市場に来るといつも楽しげにあたりをきょろきょろ見回す。そりゃあ、愛らしい笑顔を見られるのは嬉しい。けれど一見いつもと同じように見えながらその瞳に浮かぶ光は正真正銘、初めて見るものに対する好奇心にあふれていて、彼の胸中を複雑にかき乱した。
 ダンスのステップを踏んでいるような足取りで数歩先を行くメルディに追いついて手をつかむ。
「キール? なにか?」
 不思議そうに見上げてくる大きな瞳から心持ち顔をそらしてぶっきらぼうに言い捨てる。
「……はぐれたら大変だからな」
「んん〜、そだな♪」
 メルディはにっこりしてキールの手を握り返し、前に向き直った。
 盗み見た横顔は相変わらず上機嫌で、いきなり手を握ったことに対して何のわだかまりもないらしい。これで触れるどころか警戒でもされようものなら果てしなく落ち込んだのだが、とりあえずは好意的に受け止めてくれているという意識はずいぶんキールの気持ちを軽くしてくれた。






「お、キール! メルディも一緒か。相変わらず仲のよろしいこって!」
 市場の一角、海産物を扱っている店が建ち並んでいるあたりに差し掛かったとき、威勢のいい声が飛んできた。見知った顔だ。売っている魚はすべて自分で釣ったものだという、豪快な、魚屋の主。
「メルディ、いぃーのが入ってるぞ。おまえさん好きだろう、安くしとくから買わんか?」
 突然親しげに話し掛けられてメルディは目を瞬かせた。困惑の表情を浮かべてキールに擦り寄り、見上げる。
「……このひとは?」
「……あぁん?」
 魚屋の主は訝しげな声をあげた。いつもなら満面の笑顔を浮かべてうなずいていたはずの彼女は心細げにそばの青年にくっついたままだ。向けられる視線が説明を求めるものに変わったのを感じて、キールは深いため息をついた。
 ……アイメン中に広がるのも時間の問題、かな。
 しかし黙っているわけにもいかない。しぶしぶ口を開く。
「階段から落ちて頭打って記憶喪失中、だ」
「はあっ!?」
 すでに老人と呼べる年齢に差し掛かっている主は素っ頓狂な声で叫んだ。
 まじまじと見られ、キールが居心地悪そうに身じろぎする。
「……なんだよ」
「わしの目には、いつもとまったく変わらんように見えるがなあ……」
 ぴったりくっついて。
「……しかし、いいのかね? そんなんで連れまわしたりして。この街はそりゃ治安はいいが、それでも」
「わかってるよ……正直、あまり人目にさらしたくはないんだけど。でも……だからって、閉じ込めとくわけにもいかないじゃないか。生活があるんだから」
 がしがし頭を掻きながらぼやくキールに、主は苦笑いを返した。
「それもそうか。……んじゃ、まあこれ持ってっとけ」
「え、いいのか?」
 はじかれたように顔を上げた彼にうなずく。
「……たまにはな。ま、栄養つけて早く治すこった」
 記憶喪失は栄養取ったからって解決するもんじゃないんだけど……
 キールはそう思ったが、ありがたく受け取ることにした。包みを受け取って礼を言おうとしたとき、奥から主の息子が出てきた。父の簡潔な説明に目を丸くした彼は、次には何事か思いついたらしくにやりとしてメルディのそばにかがんで目線を合わせた。
「……記憶がないってんなら……なあ、メルディ? 試しに俺と付き合ってみない?」
「え」
「ははは」
 キールは乾いた笑い声をあげてぐい、と後ろからメルディを抱き寄せた。
「ウインドカッターとファイアーボール、どっちがいい?」
 さわやかな笑顔で物騒な台詞をさらりと口に出す。
「俺としてはアクアエッジがいいな」
「アクアエッジじゃ濡れるだけじゃないか。ぼくとしては出血大サービスでエクスプロードとかサイクロンでも一向に構わないんだけど」
「死ぬ死ぬ」
「大丈夫。ヒールかけてやるから。アフターケアも万全だ」
 目が笑っていない。
「あああ、あのな」
 男二人のやりとりを不毛だと思ったのか、メルディはあわてて声を出した。首に回されたキールの腕を無意識にぎゅうっと握りしめて、必死に言葉を探す。
「あのな、あのな……え、と、メルディよくわからナイ……ん、だけどな」
 彼女はうつむいてぼそぼそつぶやいた。
「……たぶんきっと、メルディはキールが方が“コノミ”だな。……だから」
「は、はははっ!」
 同時に赤くなった二人に、魚屋親子が耐えきれずに笑い出した。父は向こうを向いてうずくまり、息子は腹を抱えている。
「えっ? えええっ?」
 訳がわからずにメルディはすぐ上を見上げた。キールは顔に手を当ててかすかに頬を染めている。指の間から、青紫の瞳が覗いてメルディをとらえた。
「……冗談だよ。今の」
 ええっ、と驚いた彼女を遮ってからかうような声が突っ込んでくる。
「とか言いながら〜、目はマジだったぜキール。愛されてるな、メルディ♪」
「余計なこと言うな!」
 今度こそ真っ赤になって怒鳴ったキールをさして恐れる様子もなく、青年は楽しげに笑った。
「最初はさー、結構いたんだよなメルディにちょっかい出すやつ。ことごとく撃沈しちまったけど」
 キールは憮然として黙り込んだ。
 そう、そんなこともあった。あまり気持ちのいい記憶ではない。ふわふわと砂糖菓子のように甘く愛らしい彼女に一目惚れして、ことあるごとに口説こうとする男は何人もいた。大抵は少し話をして望み薄と判断し、潔く諦めてくれたけれど……中には、しつこい者もいる。メルディに無理やり迫り、彼女本人もしくはキールに晶霊術を食らったものも、片手の指ほどの数でしかないが、一応はいた。
 そんなことがあるたびに、アイメンの人々の頭の中には「変にちょっかいは出すべきではない(ただし、悪戯心から来るものは別らしい?)」という教訓が刻み込まれていたりする。キールを本気で怒らせるような命知らずはこの町にはいない。……たぶん。
「まあ、今更だよなあ……記憶ないとか言いながらそんなにぴったりくっついて違和感ないみたいだし」
 あごで指されて、キールははっとして腕を解いた。会話の間中ずっと後ろから抱きしめられる格好になっていたのにやっと気づいて、メルディがわずかに顔を赤らめる。つられてキールも赤くなった。
「今更メルディ口説こうなんてヤツぁ、この町にはいないよ。まあもし余所者がなんかしようとしても、誰かが邪魔するだろうさ。まかせとけ」
 魚屋の主がそう言って豪快に笑うと、おう、という声が彼の息子からのみならず数箇所からあがった。
 ……数箇所から。
 はっと顔を上げてあたりを見回すと、興味津々の視線がいくつも向けられていた。
「……あ。やべ」
 数軒離れているはずの店の主人がテントの影から逃げ出した。その後ろに八百屋の女将が続く。見えない背後からも数人の走り去る気配がする。キールはこれ以上ないというくらいに全身を赤く染め上げて怒鳴った。
「見世物じゃないっっ!!」
 どっと笑い声がまきおこる。
 メルディは自分もつられて笑っているのに気づいて、目じりに浮かんだ笑い涙をそっと指で拭った。
 暖かい、空気。



 お腹の底から笑い転げたのは、久しぶりのような気がした。












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