偶然と必然(4)







 メルディの記憶は戻らないまま、一週間がすぎた。






「で、どう? 思い出せそう?」
 インフェリアに行った際買ってきてあったらしい薔薇の香りのするお茶をすすりながら、セレナはあっけらかんと訊いた。
「うう〜ん」
 彼女につられたわけではないが、メルディもたいして深刻そうには見えない口調で答える。
 もともと彼女、順応性は高い。アイメンの以前の住人たちがほとんど殺されてしまったと知ったときは一晩中泣き明かしたが、なんとか持ち直した。セレナのことは覚えていたし、それに、キールは毎日帰りこそ遅いもののひたすら優しくて、だから今の生活に特に苦痛となるような要素はなかった。
 ……ときどき、思い出せないことを歯がゆく思うこともあるにはあるけれど。
「正直言うとねえ、ちょっと心配してたのよ」
 突然しんみりした口調になったセレナに、メルディは「何が?」と首をかしげた。あれから一週間、彼女は毎日やってきて、一緒に家事をこなしてくれたり、話し相手になってくれたりしている。
「……キールのこと。覚えてないのにさ、いきなり『ぼくたちは夫婦なんだ』とか言われてさ、普通は『知るか』って思わない? あなたたちすごく仲良かったから、余計に心配で、ね。アイメン中の人たちが心配してるの、知ってる?」
「……知らなかったな」
「ま、そうでしょうね」
 セレナはずず、とお茶をすすった。メルディも彼女に習ってカップに顔を寄せ、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「んん〜、メルディキール好きよ。だって優しいし」
 そこまで言ってから急に声量を落とし、頬を真っ赤に染めてうつむき、蚊の鳴くような声で言葉をつなげる。
「……かっこいいし」
 あらあら、とセレナは頬に手を当てて、もじもじカップの取っ手をいじるメルディの顔を覗き込んだ。そういえば数日前、ジードがこんなことをこぼしていたのだ。
『キールにさ、冗談で、メルディが他の男を好きになったらどうする? って、訊いたんだ。そしたらあいつ、なんて言ったと思う?』
 なんて言ったの、と尋ね返すと、彼はよっぽど恥ずかしかったらしく、そっぽを向いてぼそぼそと言った。
『他の男に目が行く前に、完璧に口説き落とすってさ。何回記憶喪失になっても、だと。こっちが恥ずかしいっての』
 ジードの軽口に対するささやかな復讐のつもりだったとしても、それが本心であることは疑いようがない。口だけではなく実践、とそういうことだろうか。まあそもそもが夫婦になるような二人だったのだから、相性は良いのだろう。照れ屋で赤面症のキールにしては、上出来だ。
 これでメルディが記憶を取り戻してくれれば万々歳なのに。キールは彼女の記憶が一気に戻ることを恐れているふしがある。
 理由はわからないでもない。セレナはメルディの抱える事情をすべてとはいわずとも、そこそこには知っている。彼女がもっとも恐れていることが何か知っているし、彼女が幸せだと感じることが何かということも知っている。
 セレナはため息をついた。どうせ自分が何をしようともメルディにはたいして影響を与えられるとは思えない。自分にできるのは、彼女が安心できるような雰囲気と環境を作り出すことだけ。それだって結構重要な役目だ。
 後は、キールに任せておくしかない。
 うつむいたままのメルディの目の前に、ポットを差し出す。
「おかわりは?」
 片目を瞑って笑いかけると、メルディはぱっと顔を上げた。
「キール帰ってきた」
「え?」
 物音など聞こえないのに、わかるものだろうか。訊き返そうとセレナが口を開きかけたとき、扉が開いて青年が二人、入ってきた。
「ワイール! キール、おかえり〜」
 メルディが歓声をあげて蒼いほうの青年に飛びつく。キールは驚いたようにかすかに目を見開いてから、優しく笑って淡紫の頭をなでた。
「ああ。……ただいま」
 嬉しそうにじゃれつくメルディに、キールと一緒に入ってきたジードが呆れたような声を出した。
「なあメルディ、ほんっとー、に、記憶戻ってないのか?」
「なんだよー。メルディ嘘なんかつかないもん!」
 口を尖らせた子供っぽい表情に、部屋の空気がほのぼの和む。カップを置いて、セレナは立ち上がった。
「さて、と! それじゃあ私はおいとまするわね」
「セレナ、もう帰るのか?」
 キールにくっついたまま首だけを動かしてメルディが不満そうな声を上げる。
「何いってるの、もう外真っ暗よ? さっきお夕飯食べたの、わすれちゃった? もう寝る時間」
「あう」
「すまないな、セレナ。ジードも。助かる、ほんとに」
 どういたしまして、と微笑んで、麦わら色の髪の女性は外の暗がりに溶けた。銀髪の青年も軽く笑みを浮かべて手を振って消える。部屋の中には、二人と一匹だけが残された。
 急に静けさが満ちる。メルディは何故か緊張してしまって、ぎこちなくキールのほうを向いた。
「キールは? ばんごはん……」
「ああ、……ごめん、向こうで食べてきた」
「あやまることないな、メルディもうおふろもはいっちゃったし。……待ってようか、思ったんだけど」
 うつむいてワンピースの裾を握りしめる。
「そんなにちいさくなるなよ」
 まるでいじめてるみたいじゃないか、とキールは苦笑いしてソファに座った。
「じゃあ、早く寝ろ。ぼくはもうちょっと調べ物するから」
「うん。……おやすみな」
「おやすみ、メルディ」
 振り返りつつメルディが二階の寝室に消えたのを見てとってから、彼はテーブルの上に本を何冊も広げた。もっとも、頭の中は別のことで占められている。全力で慕ってくる彼女。記憶を失っていても、本質は何ら変わらない。しかし、失った記憶の中に存在する傷は今はなくても、逆にその記憶の中で癒した傷口は再び開いてしまっている。どちらにしても、避けられない。
「難しいな……」
 ぼんやり考え込んでいると、二階から悲鳴が聞こえた。
「メルディ!?」
 数日前の光景が頭の中に蘇り、彼は慌てて寝室に駆け込んだ。寝台に手をかけてうずくまるちいさな背中が目に入る。半泣きで見上げてくるその頬はうっすら赤くなっていた。痣の痕から見るに、どうも滑ってクローゼットの取っ手にぶつけたらしい。
 大きな瞳をゆがめて、今にも泣き出しそうだ。
「ううぅ、キールいたい〜……」
「……バカだな……」
 どうやったらそんなに器用に頬だけぶつけることができるのか。昔しょっちゅう転んでいた彼とて、膝や手をすりむくことはあっても、顔だけを怪我したことはなかった。顔を怪我するときは、大抵他のところも一緒に怪我する。なのに、メルディはほっぺただけを赤く腫らしている。
 ……器用だ。
「いたいよぅ〜……」
 おもわず思い出の中に意識が飛びかけていたキールは、メルディの涙声にはっと我に返った。
「ああもう、泣くなよこれくらいで」
 触ったら痛いかな、という考えがちらりと頭をよぎったが、彼は赤く腫れた頬に手のひらを当てた。えぐえぐと肩を震わせるメルディを、いつもと同じ感覚で抱き寄せる。なだめるように背中をぽんぽんたたくと、ちいさな頭が甘えるように擦り寄ってきた。頬を優しくなでてからそこに口づけて、そこからそのまま唇を滑らせて重ねる。




 いきなり口づけされて、メルディは戸惑って目を白黒させた。熱を持って痛む頬は相変わらずだが、それよりも熱くうずく身体のほうに意識がいってしまう。おとなしく目を閉じた彼女は、けれど次の瞬間左胸に押し当てられた手のひらを感じてちいさく悲鳴をあげた。鼓動はどんどん速くなる。身体中が熱くなる。
 知らない。
 こんな感覚、知らないはずなのに。
 頭と身体が別々のもののように思える。




 唇に当たっていたやわらかい感触が、急に離れていった。
「ごめっ……ごめん!」
 泣きそうな声に驚いて目を開けると、キールがうつむいて彼女の肩をつかんでいた。耳が真っ赤に染まっている。肌が白いぶん、余計に目立つ。
「あ……」
 メルディが何か言うよりも早く、彼は立ち上がって踵を返した。扉を閉める瞬間に、「鍵かけて寝ろよ」との言葉を残して、消えてしまった。



 いやじゃない。びっくりしただけ。



 そう言おうと思ったのに、唇は口づけの余韻に痺れてうまく動いてくれなかった。
 力なく頭を振り、息を整えようとして、胸元を見下ろした彼女はなんだか泣きたくなった。いつのまにやら寝間着のリボンはほどかれて、肩口が露わになっていた。あの日見つけた痣はない。とっくに消えてしまった。
 記憶さえなくしていなければ、悲鳴をあげずにすんだだろうか。そうすれば、あのまま愛してもらえただろうか。
 それとも、記憶さえなくしていなければ、悲鳴をあげてもあのまま愛してくれただろうか。



 あの瞬間彼が自分の中に見ていたのは、間違いなく彼女自身だった。記憶を失う前の、彼女自身だった。






 胸の中で黒いものがどろどろ溶け出してきて複雑な模様を描き出す。
 この感情の名前を、何故だか知っている。
 嫉妬。
 誰に?
 自分に。
 記憶を失う前の自分自身に。
 初めて出会ってから三年間、今の自分が知らない彼を知っている自分。
 目許が熱くなる。
「……バカ、みた、……い……っぅ」
 やりきれない思いにとらわれて、メルディはしばらくの間、自分が涙を流していることにすら気づかなかった。














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