偶然と必然(5)









 ざあざあと、水の流れる音がする。額を、頬を冷たいしずくが滴り落ちる。
 キールは洗面所で、めいっぱいに開いた水道の蛇口の下に自分の頭をさしいれて、ひたすら水をかぶりつづけていた。
 あの一瞬、彼は確かに忘れていた。
 だって、同じだった。
 泣き顔も笑顔も、記憶を失う前の彼女とちっとも変わったところなんて見当たらなくて、だからついつい唇を重ねた。それがいけなかった。
 重ねた唇の感触にも、口づけの応えかたも、あまりに違和感がなくて自然すぎて、だからそのままいつものように肌を重ねようとした。
 今の自分は彼女にとって、知り合って間もない男でしかないのに。
 水が気管に入って、キールはむせた。咳き込みながらにじんだ涙を新たな水流で流して、むりやり咳を飲み込む。あまり大きく咳き込んだら、メルディが寝室から出てくるかもしれない。自分よりも他人のことばかり気にする彼女のこと、たったさっき襲われそうになったことなど綺麗さっぱり忘れて彼を気遣うのだろう。
 今、顔をあわせて欲望を抑える自信などなかった。
 メルディが記憶を失ってから一週間ほど、二人は別々の部屋で寝ている。キール自身それは当然のことだと思っているし、むしろメルディが一緒に寝ようと言ってこないことに安堵してもいた。
 同じ寝台で寝ようものなら、理性などふとした拍子に簡単にどこかへ飛んでいってしまうだろう。焦がれているのはこちらだけ。一方通行の想いを押しつけるのは、あまりにも身勝手だ。
 怖かった。
 メルディのことになると、理屈も何もかもが意味をなさなくなってしまう。感情というよりも、本能だけで動いてしまう。その後に待つものが、何なのかもわからないままに。
 傷つけたくない。けれど同時に傷つきたくないのだ。



 ……弱いまま、弱いままだ、自分は。



 どれだけ水をかぶれば……おさまってくれるだろう?
 どれだけ時間をかければ……何の屈託もなくまた笑い合えるように、なるだろう?










 窓の外から聞こえてきた鳥のさえずりに気づいたのは、すでにだいぶ陽が昇った後だった。
 頭がぼんやりしてうまく働いてくれないところを考えるに、結局睡眠もとれずにただぼうっとしていただけらしい。
 キールは起こしに来なかった。彼女が覚えていなくとも、彼にとってメルディは『妻』なのだ。夫婦ならば、昨夜彼がやろうとしたことはいわば自然なこと。メルディにはキールを責めるつもりは毛頭なかったが、彼の中にはおそらく自分を傷つけたという後悔の気持ちがまだ消えずに残っているのだろう。彼女自身は傷つけられたなんて、思ってもいないのに。
 本当に仲が良くて、と繰り返した近所の人々の表情を思い出す。彼らは、まるで自分の幸せであるかのように満ち足りた顔で二人の様子を語って聞かせてくれた。
 ……ほんの、数日前までの様子を。
 取り戻したい。強く、そう思う。このままでは気が変になってしまいそうだ。
 昨夜の出来事で、メルディは否応なしに自分の想いを自覚してしまった。出会う前に戻って、一度まっさらになったはずの心。こんなにも早く好きになったのは、どこかで覚えていたからなのか、それとも偶然に過ぎないのかなんて、わからないけれど。
 求めているのは事実だから。
 メルディは重い身体を引きずって寝台から降り、ドアノブに手をかけた。ドアの隙間から待ちかねていたようにクィッキーが滑り込んでくる。そういえば、昨夜は自分のことばかりに気を取られてかまってやれなかった。
 埋め合わせのつもりで手を差し伸べると、クィッキーは小さく首を傾げ、彼女の目の前でくるりと一回転してから階段を駆け下りていった。
「クィッキー?」
 追いかけて居間に降りると、クィッキーはテーブルの上にちょこんと座って前足を舐めていた。正面にちいさな紙切れが置いてあるのに気づいて、メルディは手をのばした。



“ちょっと約束があったから出てくる。夜までには戻る。昼からセレナが来てくれるって言ってた。食欲なくても朝食は抜かないこと。”



 一見走り書きのような文面だが、文字は綺麗に整って丁寧に書いたのであろうことはすぐにわかった。昨夜のことには触れていない。きっとこの数行を考えるのに多大な時間を費やしたのだろう。愛想も何もない事務連絡のような文章はかえって心遣いを感じさせた。
 改めてテーブルの上を見やると、すでに食事が用意されていた。上にふわりと白い紗がかけられている。布の下からはメルディの好物が数品。
「おいし……」
 駄目だ。また涙が出てきた。涙腺が弱くなっているのだろうか、こんなに簡単に泣いてしまうなんて。
 せっかくの料理に塩味が混じってしまわないよう細心の注意をはらいながら、メルディはもくもくとフォークを動かした。












 図書館。
 建物は新しくても古い本についたかび臭い匂いは消しようがなく、埃っぽい空気が支配する空間。
 キールは読みかけの本にしおりをはさみ、ほうっと息をついた。
「おい、大丈夫か?」
 大きな机の向かいで同じように本を広げ、なにやら書きつけていた薄青の髪の青年が顔を上げて気遣わしげに彼の顔を覗き込む。メルディが記憶喪失になった日に会う約束をしていた人物だ。結局あの日はすっぽかしてしまい、遅れたぶんを取り戻すのに意外に時間がかかった。今読んでいる古本の現代語訳を済ませてしまえば、とりあえずは一段落。あとはティンシアに行って、細かい説明をアイラにしてやればそれで約束は終わり。
「疲れてるんじゃないか? 昨日ちゃんと寝たか?」
 心配そうな視線に、キールは自嘲気味に唇をゆがめた。彼とはすでにそこそこ付き合いも長い。気心も知れている。軽く愚痴を吐くくらいならそれほど抵抗はない。
「……ん。まあ、軽い自己嫌悪にとらわれてる真っ最中で、さ。とてもじゃないけど眠ろうなんて思いもしなかったよ」
「……メルディのことか。やっぱりキツイか?」
「キツイっていうか……まあ、キツイっていうのかな……これ……」
 キールは自分の蒼い髪を一房軽く引っぱって苦笑した。
 昨日の今日で、いくらなんでも顔を合わせる気にはなれなかった。だから朝食の用意をして、書き置きを置いて、ついでにクィッキーにも言い含めておいてから家を出てきた。
 メルディは今ごろどうしているだろう。もう朝食は食べただろうか。それともまだ寝室にこもってセレナを困らせていたりしないだろうか。
 自分が何をしても、彼女に完璧に嫌われるということはおそらくない。それはなんとなく察している。それでも、もはや傷だらけのメルディの心に新たな傷を残すことだけは避けたかった。
 心というものは、強くてもろいもの。ときに何事にも立ち向かう強さを見せることもあれば、何気ない言葉で一生消えない傷を負うこともある。
「ティンシアには俺だけが行こうか?」
 突然投げかけられた提案に、キールは一瞬思考が止まってしまって目をぱちぱちさせた。
「は? ……なに?」
「ティンシアに。メルディ一人で置いてくの心配だろ? アイラさんには俺が説明しとくからさ」
「そういうわけにはいかない」
 彼はきっぱりかぶりを振った。確かに揺れないことはないが、それでも。
「何冊もある本の半分はぼくが訳したんだ。行かなきゃちゃんとした説明ができないだろ? 報酬ももらってしまった以上、仕事はきっちりやりたい」
「固いよおまえ」
「固くて結構。筋は通す」
 キールは腕を組んで背もたれにもたれかかった。木製の椅子がぎしりと音を立てる。同僚の青年は乱暴に頭を掻いてキールの前から本を取り上げた。
「じゃあ、今日はもう帰れ。寝不足の上に悩み事抱えたヤツに小難しい考え事なんざできるかっての。後はせいぜい数ページだからな、俺がやっとく。明日には船に乗らなきゃ約束の日までにティンシアに着けないんだぞ? 何かやっちまったんなら今日中に謝っとけ。時間は大切」
「でも」
「でももクソもあるか。おまえな、あんなに可愛い奥さんを何日もほっぽっといて『勉強』に行くんだ。かまってもらえなくて寂しいだろうに文句ひとつ言いやしない。埋め合わせくらいしてやれなくてどうする?」
 机を回り込み、んん? としかつめらしい顔を近づけてくる彼に、キールはついうなずいてしまった。途端、満足そうな笑顔が広がる。
「よーし、じゃあな!」
 いそいそと椅子に座って本を開き、青年は手を振った。
 手を振り返して歩き出す。自然と苦笑が漏れた。
 ……まったく。アイメンの連中はみんなおせっかいだよな……
 悪い気はしない。とことん照れくさいが。
 外に出ると陽はやや傾き始めていた。思っていたよりも長く図書館にいたらしい。
 友人が仕事を増やしてまで作ってくれた時間だ。有効に使わなければもったいない。妙なところで律儀な彼はともすれば強ばってしまいそうな顔からできる限り力を抜いて、足早に自宅の方向を目指した。












「あ、キール! 早かったなおかえり〜!」
 満面の笑顔を浮かべて抱きついてきた彼女は、何のこだわりも抱いていないように見えた。おもわず肩の力が抜ける。ただいま、という前にメルディが嬉しそうに何かをキールの目の前に広げた。
 白い。
「……ハンカチ?」
 見覚えがない。
 それがどうかしたのか、と尋ねようとすると、奥の方のソファに座っていたセレナが立ち上がった。彼女の膝の上にいたクィッキーが、ひょいとソファに降り立ちうずくまる。
「お邪魔にならないうちに私はおいとまするわね。じゃね♪」
 やけに機嫌がいい。扉を閉める瞬間、意味ありげににっこりするのが垣間見えた。気にはなったが、まずはメルディだ。正面に向き直り、今出せなかった問いを繰り返す。
「ハンカチがどうかしたのか?」
「今日作ったよ」
 言いながら、隅を指差す。勿忘草の刺繍。そういえば、少し前にメルディにせがまれてやり方を教えた。作りかけだったのを完成させたのか。
「……あれ、でも」
 教えたのは二週間ほど前のことだったはず。もしかして、と伺うように自分を見るキールに、彼女は得意げにうなずいた。
「これだけだけどな。なんかできちゃった。思い出したみたいな」
「……そうか」
 子供を誉めてやるような感覚で淡紫の頭をなでてやると、メルディはしばらく嬉しげに頬を染めてされるがままになっていたが、ふと真顔になってキールを見つめた。瞳に宿る切実な光に気づいて、彼もまた黙って見つめ返す。
「……なあ、メルディこういうふうに頑張って早く全部思い出すから。……だから、キール」



 嫌いにならないで。



 声にはならなかった訴えを聞き取って、キールはわずかに目を見張った。
 そうだ。
 メルディが一番恐れていること。一人になること。
 愛情表現がやや過多なきらいがあるのも、人前で極力明るく振舞うのも、ひとえに孤独を恐れるがゆえ。
 傷つけてしまうのではないかとそればかり考えて、不安を拭い去ってやることを忘れていた。
 吐息を漏らし、華奢な身体を抱き寄せる。
「……大丈夫だ。急ぐことなんかない。もし記憶が戻らなくても、ぼくはおまえから離れていったりしない」
 大好きだよ。
 耳元でささやくと、メルディは身じろぎしておずおずと腕をキールの背中に回した。
「……じゃあ、お願い聞いてくれるか?」
「ん?」
 真剣な表情に柔らかな笑みを浮かべる。直接目を見ていられなくなったのか、彼女はうつむいてキールの胸に顔をうずめ、蚊の鳴くような声で『お願い』を告げた。








 その『お願い』の内容に、キールは耳を疑った。
 言葉もなく見下ろした顔は真っ赤に染まっていて、彼は自分が聞き間違いをしたわけではないことを悟らざるをえなかった。














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