偶然と必然(6)









 沈黙が落ちる。
「……あのさ」
「……」
 目を合わせようとして顔を覗き込むと、メルディはいやいやをするように首を振ってキールの胸に顔を押し付けた。
「意味、わかってるか?」
「……ん……」
 指先で触れた頬は熱い。
 硬く引き結んだ口許になんとなく意固地なものを感じて、キールは無理やりメルディの身体を引き剥がして両手で顔を包み込み、視線を合わせた。
「……なんだかヤケになってないか? 心配しなくてもぼくはおまえのこと嫌いになったりなんかしないし、離れていこうなんて思っちゃいない。愛情ってのは、そういうことだけで量るもんじゃないだろ?」
「でも」
「それに」
 彼はちいさな手を取って目の高さまで持ち上げた。
 手だけ、それもかすかにだが確かに震えている。
「……怖いんだろう? 無理するな」
 淡紫の頭をぽんぽん、と叩くと彼女は大きく肩を揺らした。
「……怖くないよ。……怖いのは」
「だから……嫌いになんかならないって」
「ちがうの!」
 両腕に指が食い込む。キールは突然の痛みに思わず顔をしかめたが、黙ってメルディの次の言葉を待った。
「……メルディは、キール好き。キールがメルディ大事にしてくれてるのも、わかるよ。……でも」
「……」
「メルディは、キール好き。でも思い出したワケじゃない。でも好き。好きなの……っ!」
 理由もわからないままに、ただ焦がれるほど。
「なのに、覚えてない。キールが今まで何をしてくれたのか、覚えてない。メルディ、妬いてるの……自分に妬いてるの。キオクなくてもメルディは、メルディよ……そんなことはわかってるな。でも、覚えてない……」
 今まで築いてきたはずの、たくさんあるはずの思い出はぼんやりとした霞の彼方。
 あるはずなのに。自分の中にあるはずなのに。
 必死に記憶の糸を手繰ってみても、なんにも出てこない。
 だから、確かだと思えるものが欲しい。
 感極まったのか、紫水晶の瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「……すき。キールは? キールがすきなのはキオクのあるメルディか? キオクなきゃ、ダメか?」
「そんなわけ……」
 言いかけてキールは首を振り、華奢な身体を力いっぱい抱きしめた。彼女が求めているのは言葉ではなく。
 触れてくれる、手。
 メルディはメルディだ。確かに彼女の指摘するとおり、記憶にこだわりすぎていたのかもしれない。
 けれど彼が愛してやまないものは、見えないところにある彼女の本質。孤独に怯える心も、自分よりも他人を思いやる優しい心も、守ってやりたくて、ただこれ以上傷ついて欲しくなくて。
 そんな気持ちが何故だか衝動に変換されてしまうだけのこと。
「キールがほしいよ……」
 震える声がかすかに届く。
「……ぼくも、メルディが欲しい」
 耳元に口を寄せ、熱い吐息とともに想いを吐き出して、キールはゆっくりとメルディの桜色の唇に自らのそれを重ねた。








 階段を昇るのももどかしく、キールはいつも使っている寝室ではなく一階の客間の扉を開けた。寝台にそっと華奢な身体を横たえて自分はそばに座り、薄紫の髪を梳く。一房すくいあげて口づけると、メルディはやや不満そうに身じろぎして薄くまぶたを開いた。
 軽く笑って顔を近づける。触れ合った頬は熱い。
 こわごわ舌を差し入れると、すぐに応じてくれた。唇は離さずに目だけ開けて表情を確かめる。頬の朱は長いまつげの落とす影にも隠されていなかった。
 長いとは言えない、けれど短いとも言えない空白のときを埋めるように、ひたすら貪るようなキス。
「……んっ……」
 うめきが漏れる。メルディはすでに耳まで真っ赤に染め上げ、行き交う呼吸も荒い。それでも。
 まだ足りない。
 まだ、足りない。
「んっ……ぅん、んっ……」
 細い指が蒼い髪をかきまわした。息苦しいのかと唇を解放すると、今度は彼女の方から口づけてくる。これ以上ないというほどに深く絡みあう吐息に、キールは身体の奥底で徐々に衝動が熱く身をもたげ始めるのを感じていた。
 手のひらを肩から滑らせて柔らかなふくらみを包み込む。メルディがぴくりと緊張したのが伝わってくる。
 昨夜は、ここで思いとどまった。
 けれど。
 キールは勢いをつけてクリーム色のワンピースを剥ぎ取った。露わになった胸元を隠そうと動く腕を素早くつかんで押さえつける。そのまま首筋をたどって少しずつ、唇をずらしていく。
「……ふぁっ……ぁ……」
 肌をきつく吸うたびに、意味をなさないあえぎが漏れる。点々と増えていくちいさな痣をひとつひとつ確認しつつ、指先を休みなく動かす。
「……ぁん……」
 頭が覚えていなくても、身体は覚えているらしい。無意識に身をよじるその動きは記憶を失う前のものとまったく同じ。苦しげに荒い息をついて胸を大きく上下させながら、けれど熱にうかされ潤んだ瞳は愛撫を続けて欲しいと訴えていた。白いシーツの上には紫水晶を零したように髪がふわふわ流れて踊っている。
 熱いものがじわりと胸の中に広がった。





 少しずつ、少しずつ意識は闇の中に溶けて流れ込んでいく。













 はっきりしない色の空を背に、腰まである草をかきわけかきわけ歩いていると、どこからか呼ぶ声が聞こえた。
 耳をすまし――方向を見定めて、駆け出す。まぶしい光が目を射って――……









 碧玉の瞳が、すぐ近くにあった。
「……キール……」
 漏れでた声は嗄れたようにしゃがれていた。のどがいがいがする。
「おはよう」
 同じようにかすれた囁き声を聞いて、近づいてきた唇を受け入れる。
「……ん……」
 おとなしく目を閉じてされるがままになっていると、大きな手のひらが優しく髪をなでた。首に腕をからませる。
「……実はさ」
 困ったような響きの声が降ってきた。目を開けると、やはり困ったような光を宿した瞳とぶつかった。何かを言い出すのを、ためらっているような。
 黙ったまま視線だけで促すと、キールは頭を掻いてうつむいた。
「昨日の今日でなんだけど……その、約束があって……今日、ティンシア行きの船に乗らなきゃならないんだ」
「そか」
 素直にうなずくと、彼はかすかに動揺の表情を見せた。
「……あの、さ。何日か家空けるけど……おまえはその、一人で大丈夫か?」
 不思議そうにキールの顔を覗き込んだメルディは、彼の動揺の理由を察してちいさく微笑んだ。要するに、引き止めるか文句をいうかして欲しかったのだ。引き止めたって、どうせ行ってしまうくせに。あとからあとからこみあげてくる笑いを必死に噛み殺していると、憮然としたキールに引き寄せられて、抱きすくめられた。
「キール、キール苦しいよぅ」
 じたばたしても力は緩まない。表情は見えないがなんとなく想像がついてしまい、メルディは今度こそ声をあげて笑った。
「メ〜ル〜ディ〜?」
 こめかみにぐりぐりとこぶしが押し当てられる。
「ひゃ! だ……だってー、キールちゃんと帰ってくるよな?」
 それともメルディほっぽって、どっかにいっちゃうか?
 上目遣いに見上げてぼそぼそとつぶやく。ついでに少し目を潤ませてみると、彼は慌てたように頬を赤く染めて再びメルディを抱きしめた。
「そんなわけないだろ! すぐ戻ってくる、戻ってくるよ。だって、ぼくの帰るところは」





 内緒話のようにこっそり耳に滑り込んだ最後の言葉が嬉しくて、メルディは花のような笑顔を浮かべて力いっぱいキールを抱きしめ返した。












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